国分寺崖線の坂道、世田谷区の5回目です。
今回は等々力、尾山台あたりの坂を4つ。等々力の坂、地頭坂、向田坂(むこんでざか)、寮の坂です。
地頭坂、向田坂は国分寺崖線から奥へ切れ込んだ谷に向かって下りて行く坂道で、厳密に言うなら”国分寺崖線の坂道”ではないですが、崖線から直接派生した部分に存在しているのでここに含めました。
◆等々力の坂〈とどろきのさか〉
等々力1丁目、目黒通りの坂道です。すぐ西側は等々力渓谷、等々力不動尊が坂道横にあります。
目黒通り、坂上から
この坂道は古くから存在しますが、目黒通りに取り込まれて道幅も大きく拡張されました。おそらく昔とはだいぶ様子が異なっているように思います。
坂上、勾配により近づいて
道路向こう側、こんもり盛り上がっている場所は御岳山(みたけさん)古墳、5世紀中頃つくられた帆立貝形古墳です。墳丘下に詳しい解説板もあります。
この一帯の段丘上にはたくさんの古墳が存在し、野毛古墳群、荏原台古墳群などと呼ばれています。
その中で大型の古墳である御岳山古墳や野毛大塚古墳は、地形の凹凸を表す地理院地図の陰影起伏図やアナグリフでも大まかな形状が見てとれました。
坂道へもどり、
坂上付近から見下ろす
少しカーブしてますが、ほぼ直線の長く緩い坂です。道幅が広く傾斜はより緩やかに見えます。
展望は良く、多摩川対岸の川崎市方面がよく望めます。
坂の途中にある等々力不動尊山門前
等々力不動尊、瀧轟山明王院(りゅうごうさんみょうおういん)という正式名称です。
左2枚は東京都、世田谷区、どちらも等々力渓谷の解説板、右は何か大丈夫のようです。
中ほどから下方向
同じ位置から上方向
前方は等々力不動境内の森です。
坂下近くから上方向
坂下付近はまだ道路拡張中途です。
坂下は丸子川(六郷用水)玉根橋
この坂道も坂下は丸子川が流れてました。下りてきたところは世田谷区玉堤2丁目、目黒通りはこの先数百メートル先で多摩川堤防(多摩堤通り)にぶつかって終点です。その先多摩川を渡る橋を架ける計画があるそうですが。
この坂に坂名標識はありません。個人的には”等々力『の』坂”という名称の由来が気になります。
◆地頭坂〈じとうざか〉
等々力1丁目の階段坂です。
等々力の坂途中の御岳山古墳から東方向へ100mほど、坂上は住宅地ながら樹木に覆われてわかりにくい場所にあります。
坂のある周辺を”地頭山”と呼んでいたのが坂名の由来です。
下り階段へのアプローチ
すでに道はゆるく勾配になっています。
階段上から見下ろして
車止め付近から
坂下から向こうへ上る道が向田坂です。が、こちらの階段坂が向田坂という説もあるそうで、坂学会「混乱している」そうです。
2つの坂道はさほど古いものでなく、1930~40年頃に谷底を通る道路などとともにひらかれたようです。
周辺にはほかにも多くの坂道が存在しますが、ここ2ヶ所にだけ名前があるというのも考えてみると不思議ではあります。
中ほどから上を
右側茂みの中に小祠。
坂下近くから
民家の塀の先に「大日如来尊入口」という立て札、先ほどの祠のことでしょうか。
ここには大日塚(古墳)があったが、開発で崩されたと記載されている文もネットで目にしました。
谷底の道路から
坂名標識は存在しません。
◆向田坂〈むこんでざか〉
等々力1丁目の難読坂、むこんでざかです。坂下で地頭坂に相対しています。
反対側の地頭坂が実は向田坂とも言われるそうですが、そうだったらこちらは何坂でしょうか?
坂下から
直線の急坂、特に中ほどから上が急です。距離は見てのとおり、長くはありません。
上り始めて振り返る
前方の階段は地頭坂。
中ほどから上
このあたりはかなり急です。勾配標識はないですが20%以上あるでしょう。
坂上近くからその先
坂の向こうは平坦ですが、そのまた向こうにも坂道があります。坂密度高いです。
こちら丘の上には狐塚古墳があります。古墳密度も高いです。
坂道に坂名標識はありません。変わった読み方の坂名ですが由来も不明です。
◆寮の坂〈りょうのさか〉
尾山台1丁目、2丁目境界にあり、国分寺崖線に直接かかる坂道です。環八尾山台1丁目交差点から南に向かう道が通っています。坂の途中で逆S字にカーブして坂下で丸子川を渡ります。距離はやや長め、傾斜は中程度、それほどきつくありません。
坂上から
右側の下り坂が寮の坂です。
道の分岐に坂名石標、解説板があります。
坂名、左面には「右 多摩川 左 籠谷戸」、裏面にも「右 九品仏駅 左 多摩川」と刻まれています。(石標建立は昭和60年頃です)
石板の解説を読むと
寮の坂由来
松高山傳乗寺は、区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(一三一六)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたために、この坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると、この坂の名称の由来が思い起こされる。
なお寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く地は、室町時代に籠谷戸と呼ばれる入り江で、多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主大平出羽守は、上流から運ばれた武器、兵器の類を籠谷戸、寮の坂あたりに陸揚げをして城へ運び入れたともいい伝えられている。
さらに時代は下り江戸時代に入ると川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として尾山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。
坂の下りはじめ
道路左に急カーブの標識。下ってちょうどスピードが増すあたりに右、左と急なカーブがあります。
カーブする前、右に入り上がっていく道
入ると宇佐神社境内ですが、社殿横に八幡塚古墳が存在します。この丘にもまた古墳です。
古墳のある丘を巻くように道がカーブ
カーブ途中から上方向
坂下側のカーブから
坂下には寮の坂由来碑に記されていた傳乗寺があります。
山門の下から中を拝見
坂の下から道は直線で丸子川へ、そこで八幡橋を渡ります。傳乗寺からの区間は平坦です。
八幡橋から寮の坂方向
ここは世田谷区と大田区の境界近く、国分寺崖線の世田谷坂道も端っこまで来ました。
次回は北側へまわり、成城方面を探訪の予定です。
坂道マップ 今回分は16~19 (1~15は既出です。)