武蔵野台地を多摩川の流れが削ってできた国分寺崖線、そこに通された坂道を巡って歩いています。
今回は、30㎞にも渡る長い崖線の末端、もうこれより東京湾側に崖はなくなり、平らな低地が広がる、というあたり。大田区鵜の木、久が原の3坂、河原坂、富士見坂、ぬめり坂です。/収録は2020年2月
◆河原坂〈かわらざか〉
鵜の木1丁目、鵜の木松山公園南側入口付近に坂上の標識があり、すぐに南側へ折れて下っていく細い道に沿った坂道です。
全体に勾配は緩く、長さは75mとなっています。
坂上の標識付近から
現在道路両側は切通しになっています。正面へ続く道は戦後造られたもので、河原坂は手前の電柱付近から左へ折れています。
正面道路整備前に切通しはなく、河原坂の道は右上に見える公園フェンスの高さまで上がって急坂だったようです。そのことが標識の説明に書かれています。
河原坂 (かわらざか)
現在の鵜の木二、三丁目付近は、昔、多摩川の河川敷であったので、河原の地名がある。坂名の由来は、河原に出る坂道であることによる。今は「切通」になってゆるやかであるが、以前は道幅も狭く急な坂で、河原の畑を往来する荷車などは難儀をしたという。
道が南側へ折れるところから
左へ入って行くのが河原坂の続き、右へ下るのは戦後の新しい道路です。
左へ入る前に坂上を振り返り
切通し部分、長さは短く、道は先ですぐに下っています。このあたり段丘というより細長い城壁のような地形で、道はそこを跨いでいます。
道を折れたところから坂下方向
ここから坂下に向かって傾斜はゆるいです。道幅もせまくなりました(というかこれが元の幅でしょう)。
少し先に坂下側の標識があります。
その付近から坂上側を見て
突き当たりを右折して坂上。昔は切通しがなく道路擁壁の傾斜で坂はさらに上がっていました。
背後はもうしばらく下り勾配が続きます。
坂下標識から少し下って
坂下、別の道路と合流
河原坂は左側の道です。右は中央がステップの急坂ですが、名前がありません。
◆富士見坂〈ふじみざか〉(鵜の木)
田園調布にも同名の坂があるので(鵜の木)としました。
大田区で名前のある坂道にはほとんど標識が設けられてますが、この坂にはありません。ただし坂学会のコラムと坂一覧には名称と位置が示されているので取り上げます。
東急多摩川線鵜の木駅出入口から東へ100mほど行くと道が二又に分かれ、左は河原坂の坂下へつながり、右へ行くと富士見坂の坂下になります。
坂下から
ここでまた道が分岐し、左の急坂が富士見坂です。
上の様子も
道は左右に細かく曲がりながら上がっていきます。坂道部分の傾斜はきついですが長さは短いです。
半ばから坂下方向
同じく坂上方向
現在は坂道全体が建物に囲まれて景観は良くなく、富士山は見えないようです。
◆ぬめり坂〈ぬめりざか〉
南久が原1丁目、2丁目の境界にある緩い坂。通る道は鎌倉街道とも言われています。
地形的に坂下付近は大昔の海岸線、武蔵野台地の末端であり、崖を削ったのは川(多摩川)か海か微妙な位置です。
現在は環八通り・藤森稲荷前交差点から北へ入って稲荷神社の東側あたりが坂下となっています。
藤森稲荷神社前
このあたりはごく緩い傾斜です。分かりにくいですが、右の電柱の先に坂名標識がたっています。
正面真っ直ぐ行くと道は分岐、ぬめり坂は右へ折れていきます。
分岐点から坂下方向
背後のよく目立つところに庚申塔と石の道標があります。
庚申塔と道標
青面金剛と三猿の庚申塔は延宝5(1677)年造立、南荏原郡六郷荘鵜木村と正面左に刻まれ、”鵜の木”の名の歴史は古いようです。道標はわりと新しく、昭和3(1928)年のものです。
坂へ戻って
ここからはすぐ坂上です。
上がって振り返る
前方”止まれ”標識右側に庚申塔と道標があります。
道路左端に坂上の標識があります。
ぬめり坂
『大森区史』は「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生埋となった。以来その坂の通行は容易となり、大いに付近は繁栄したという」と記している。
ま、伝説なので。
わずかに多摩川上流、鵜の木では”河原”坂ですが、こちらは”ぬめり”坂で低湿地や河口のデルタ地帯を連想させる名前がついています。
この坂道の長さは坂学会によれば140mです。
坂道マップ 今回分は7~9