散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

酒匂川を歩く その1 河口から文命堤

酒匂川(さかわがわ)を歩いた。
この川は静岡県御殿場市の富士山麓東側に源流があり、静岡県内では鮎沢川(あゆざわがわ)と呼ばれるが、同じ富士山麓を源流とする支流と数多く合流しながら御殿場市小山町を下る。神奈川県山北町で河内川(こうちがわ)と合流してから酒匂川に呼び名が変わり、足柄平野に出て小田原市東部で相模湾に注ぐ。公式の延長は46kmである。

川歩きはだいたい下流からさかのぼって歩くことにしている。2回に分けて歩いたはじめは、原則どおり海岸からスタート。

酒匂川 足あと その1は青色のライン

アプローチはJR東海道線鴨宮駅からとした。海岸まではバスでも行けるが、距離的にはさほどでもないので歩く。

小田原市酒匂海岸・東方向

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方角的には大磯、平塚方向を見ている。
海岸は石ころまじりの砂浜。酒匂川が運んできたものだろう、富士山溶岩由来の黒っぽい石(玄武岩質)、箱根火山由来の灰色の石(安山岩質)、西丹沢由来の白っぽい石(花崗岩質)など岩石標本のような海岸である。金銀宝石類はほぼ無いけど…

酒匂川河口付近

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右側は西湘バイパス橋梁、向こうに見えるのは箱根。

水辺から

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このときは富士山も顔を出していた。午前中なら見える確率高い。この日も歩いているうちに雲に隠れてしまい、スナップからは自然にフェードアウト。

海岸からスタート。

酒匂橋東詰から

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西湘バイパスのすぐ上流側には国道1号が通っている。江戸時代の旧東海道もこの付近を通過していて、酒匂の渡しがあった。

下流の河原の様子

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下流の河幅はかなり広くとられている。酒匂川は傾斜の大きな急流河川で、上流部で大雨などがあるとすぐに増水するので余裕を多く持たせているのだろう。
日本のほとんどの河川は別名を”暴れ川”という気がするが、酒匂川は特に強暴なようで、治水事業の跡、歴史が様々に残っている。

小田原大橋

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ここで右岸側へ渡る。橋は1994年開通、長さは382m。手前のピンクは芝桜。

小田原大橋から上流方向

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向こうは東海道新幹線東海道線の鉄道橋梁。

飯泉取水堰下流側から

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遠く横浜市川崎市横須賀市なども含め、現在神奈川県の上水道のかなり多くの部分がここで取水された水を使っている。

堰上流側

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正面奥が取水口。
上水道にする水をとる位置として、ずいぶん川の下流にあるなと思ったことはある。

取水堰の上流側にある飯泉橋のその先で狩川(かりかわ)が合流してくる。合流地点近くに狩川管理橋があり、それを渡って酒匂川沿いに戻れる。

狩川管理橋から狩川上流方向

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向こうの橋は小田急線。富士山もまだ見えている。
狩川は箱根外輪山の金時山東側に源流がある川。橋梁の向こうにみえる矢倉岳の麓をとおってこちらへ流れている。

酒匂川に戻って上流方向へ。この付近からは堤防上に歩道が整備され、のどかに歩くことができるようになった。

小田原厚木道路下をくぐり、その先
右岸側歩道から川の様子

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向こうに見えるのは曽我丘陵などと呼ばれる丘陵地帯。

堤防上の石碑

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堤防上や間際には”水神”と刻まれたもの、慰霊碑、河川改修記念碑などが数多くある。水害の教訓、復興に関するものがほとんどで、この川の扱いがいかに難しかったかが分かる。

歩道のある堤防の外側にもう一重の堤防/中曽根の霞堤

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右側が河原だが、左側松の木が何本か生えている場所の下にも堤防が続き、二重の堤防になっている。霞堤(かすみてい)といい、川に近い側の堤防の一部をあらかじめ切っておき、増水時に間の水田部分に水をあふれさせる。遊水機能をもたせ、川の水位低下効果がある。武田信玄によって考案されたとされ、信玄堤(しんげんつつみ)とも呼ばれている。酒匂川にはここを含め、3ヶ所の霞堤がある。

前方青い橋は富士道橋

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この付近の歴史上有名人といえば二宮尊徳(金次郎)。
左方400mで尊徳記念館、二宮尊徳生家(小田原市栢山)

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その先にある橋名は報徳橋(右側)

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報徳橋の上流側に再び霞堤があり、歩道は川から離れるほうの堤防上に。
川から離れていく堤防から川側堤防と間の水田/曽比の霞堤・坂口堤

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向こう川側堤防のその向こうが河原。そちらの下流側で堤防が切れているので、歩道(サイクリング道路にもなっている)が下流から上流へ向かって堤防のつながっている外側へでてきてしまった。堤防上の石碑は霞堤に関するものだったか(失念した)。

この先少し上流側で川側堤防へのアプローチ道がある。
川側堤防へ復帰するための道路から堤防間の「遊水」地

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左右木の生えているところが堤防。間の遊水地、水田の面積はかなり広いといえる。

再び川べりへ戻り、
酒匂紫水大橋を背にして上流側を望む

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左側は松並木。この川沿いは松(クロマツ)の木が多い。二宮尊徳1800年頃植えたとされるものもあるというから相当古い。昔はもっと本数も多かったに違いないが、この付近はまとまって多くの松が残っている。
この付近は小田原市をぬけ、開成町

九十間土手(くじっけんどて)の末端部と足柄大橋

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この付近も霞堤(九十間堤)で、左の玉石で固められた土手は川に近い側の堤防が切れているところ。

この土手をまわり込んで左側は現在、開成水辺スポーツ公園、手前、霞堤の遊水地になっていた部分は開成水辺フォレストスプリングスという名称のでっかい釣り堀(管理釣り場)となっている。

スポーツ公園内から上流側

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向こう左岸側には山なみが接近してきた。川の向こう側は松田町。橋を渡っているのは小田急線。

川音川合流点

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真正面からこちらに流れてくるのが川音川(水が見えてないが)。ほぼ直角に酒匂川と合流している。これも江戸時代に行われた改修工事によるもの。大水が出た時に酒匂川の流れを弱めるためにわざと直角に合流させたとのこと。そしてすぐ下流側には九十間堤が備えられた。

小田急線橋梁、十文字橋、新十文字橋と3つの橋を相次ぎくぐる。十文字橋は2007年に台風により落橋している。未だ侮れない川である。

十文字橋・左岸上流側(松田町側)から

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流れの中にある橋脚は落橋事故後建て替えたもので、前後と形が異なっている。

3つの橋を越えた先で、上流方向

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山裾を一直線に横切っているのは東名高速道路

開成町金井島付近

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正面の小山は丸山、左奥は浅間山、川の向こうは山北町。こちら側は南足柄市との境界あたり。

その対岸から箱根外輪山、矢倉岳なども含めて

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同じく対岸から下流方向の風景

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新大口橋の下流南足柄市)側から

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「大口」といわれるこの付近から上流側は一気に山の中へ入っていく。つまりこの付近は川が山から平地へ出てくる、扇状地の”扇頂”にあたる部分。

強暴な川だったゆえに、昔からこの付近でも流れの制御に苦心し、文命堤(ぶんめいづつみ)と総称される大規模な治水工事が、建設しては破壊されを繰り返し、長年にわたって行われたということである。

新大口橋の近くにあった南足柄市の解説が図、写真入りで分かりやすかった。
解説板の左右を分けて

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酒匂川はかつて暴れ川と呼ばれ、大口付近でしばしば氾濫し流路を変えていました。しかし文禄から慶長年間に大口堤と岩流瀬堤が築かれ、ほぼ現在の流路に定まり、足柄平野は水田が発達したと言われています。宝永四(1707)年に富士山が噴火して大量の火山灰(黒色で多孔質な降砂)が降り積もり、酒匂川の河床は浅くなりました。そのため、宝永五(1708)年と正徳元(1711)年に、大口堤と岩流瀬堤は決壊し、下流の村々は大きな被害を受け、その後の復興は困難を極めました。そこで、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗は、享保八(1723)年に、南町奉行大岡越前守に命じて治水、利水事業に詳しい、川崎宿の名主であった田中丘隅(休隅)を遣わして、享保十一(1726)年に大口、岩流瀬堤の復旧工事を完成させました。丘隅は大口、岩流瀬堤の上に、治水、護岸を祈願し、中国の治水の神とも言われる禹(称号は文命)を祀った文命宮を作り、大口堤を文命東堤、岩流瀬堤を文命西堤と名付けました。享保十九(1734)年に文命堤は再び決壊し、丘隅の娘婿で代官の蓑笠之助が復旧しましたが、本格的な復旧ができたのは明治時代に入ってからでした。

氾濫と治水の歴史
1609年(慶長14年) 小田原藩主・大久保忠世(ただよ)、忠隣(ただちか)3堤2岩によるZ型を完成!
1707年(宝永4年)  富士山宝永噴火降灰による水位上昇で岩流瀬土手、大口土手崩壊
1725年(享保10年) 八代将軍徳川吉宗 田中丘隅(きゅうぐ)に復興を託す
1727年(享保12年) 岩流瀬土手、大口土手の修復 治水神「禹王」を祀る福沢神社を建立!
           2つの土手は禹王の別名にあやかり「文命堤」と呼ばれるように
1734年(享保19年) 再び決壊 死者39名家屋53軒が流される
その後… 田中丘隅の娘婿、蓑笠之助(みのかさのすけ)ら多くの先人の努力で現在の豊かな足柄平野

解説の中に出てくる「岩流瀬」は「がらせ」と読む。

箱根火山も酒匂川の治水には重要な役割を果たしています。流れを「Z」型に変えて弱めるときに使われた千貫岩周辺には、6万6千年前の箱根火山の大規模噴火による火砕流堆積物が見られ、新大口橋の上からでも観察できます。この火砕流堆積物は千貫岩からさらに上流の内山地区にかけての酒匂川右岸の崖で観察でき、厚いところでは10メートル以上にも及びます。この大規模噴火による火砕流の勢いは凄まじく、相模湾を超えて城ヶ島(城□島)まで達したことがわかっています。文命堤周辺は箱根火山の噴火による火砕流堆積物が酒匂川に浸食されることにより生まれた天然の崖と、その崖を巧みに利用して川の勢いを弱めて氾濫を抑えようとした、先人たちの災害との戦いの歴史を学ぶことができる文化遺産と共にジオサイトなのです。

右下図の解説

濁流を春日森土手で釜淵に導き、さらに岩流瀬土手により千貫岩にあて水の勢いを弱め、大口土手でその流れを東に向けました。

千貫岩付近

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右方が上流。流れをZ型とした2つめのカーブ。千貫岩の崖は箱根火山火砕流堆積物。

現在の大口土手(堤)と左、福沢神社の赤い屋根、右は新大口橋

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福沢神社

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治水神「禹王」を祀る福沢神社がこちら。境内に「文命東堤碑」など多くの碑がたてられている。

新大口橋を渡って少し上流側へ移動して

釜淵から岩流瀬(がらせ)土手(堤)にかけて

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岩流瀬橋上から撮影。左向こうの崖下からが釜淵(コンクリートで補強されている)、その手前から橋の後ろ側にかけて岩流瀬土手となる。

岩流瀬土手から千貫岩方向(下流方向)

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岩流瀬橋の反対側から撮影。左側の土手(堤)が岩流瀬土手、正面向こうが千貫岩。

釜淵付近から上流側

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対岸左側が春日森土手。手前釜淵に水を当てる、Z型ひとつめのカーブになる。

ここからは山の中にはいっていくが、ここで一旦小休止。