その1で無名の水路から一級河川新河岸川起点と定められた地点まであるきました。
その2でようやく新河岸川起点からのスタートとなります。
前回の再掲・新河岸川起点石標。
ここが起点
起点から下流側を見て〈これも再掲〉
前方は八幡橋。
そのたもとへまわり。
「昭和三十一年十二月竣功」と記されています。
橋の上から起点側を見返し
新河岸川最初の八幡橋、次はJR川越線橋梁、
3つめの観音下橋手前から
流れはまだ細いです。
〈左、コンクリートの『壁だけ』が謎〉
4つめは東武東上線レンガ造りの赤間川橋梁〈絵がない〉。東上線が開通した当時(1914(大正3)年)流れる川の名は「赤間川」でした。
前回も触れましたが大正から昭和初期に赤間川、新河岸川の河川改修で新流路掘削、河川付替えなどが行われました。新河岸川起点が現在の位置に定められたのは昭和に入ってからで、それまでここの流れは赤間川でした。
川越市街地西側のこの付近、ほぼ北向きに流れる新河岸川は市街地を載せた台地(武蔵野台地の北端に突き出た部分にあたる)のまわりを∩形に流れ、東側に出てから南東方向へ下っていきます。
川越市三光町付近(起点から750m)
お茶屋橋から(起点から1200m)
星野高校校門前に架かる橋から下流方向。このあたりから川の流れは街を取り囲むようにカーブ区間に入っていきます。(いま∩の左側)
赤間川公園手前の橋
橋の向こう対岸は赤間川公園。まだあちこちで昔の川名、赤間川が使われています。
次の石原橋を過ぎると河川敷に遊歩道があったので下りてみました。
石原橋と次の高沢橋の間
前方に見える橋が高沢橋、その上に見えるのは六塚稲荷神社。橋が通る道を右に行くとすぐ川越観光スポットのひとつ『菓子屋横丁』、その周辺にも多くの見どころが並びます。でも河川敷から橋へ上がる通路がありません。〈対岸は立派な階段が用意されているというのに〉
寄り道できずに先へ。
そのまま河原を進んでふり返り
濯紫(たくし)公園手前あたり。途中にあった飛び石で対岸に渡りました。
変わった名前ですが『濯紫』とはかつてあった柳沢吉保の家臣の別荘『濯紫園』から来ているそうです。
またこの付近、喜多町といいますが、川越大師の喜多院とはだいぶ離れています。
濯紫公園で川原から上がり一般道を川に沿って歩きます。
300mほど行くと東明寺橋、その上から
この付近から川の一方が歩きやすく整備されています。ここは右側がそうです。
さらに200m弱で道灌橋
橋名は太田道灌の屋敷がこの近くにあったことに由来します。
道灌橋から200mほど下ると田谷堰に至ります。
上流側から見た田谷堰
田谷堰は川越市街地周辺を∩形に流れる川のてっぺん部分に位置しています。
かつての赤間川はここから上の写真で左方向に流れていき、伊佐沼に達していました。その後、赤間川と新河岸川の河川改修工事によりここより下流側に新たな人工流路が開削され、伊佐沼への流路は閉ざされました。
その結果、閉ざされた旧流路沿いの農地で利用できる水量が激減したため、取水堰を設け一部を旧流路側へ供給することとなり、田谷堰が建設されました。
田谷堰が完成したのは1938(昭和13)年です。
上の写真で左岸側の壁に沿って3つ写っているのが取水口設備の跡、ここから旧流路沿いに用水路を伸ばしていたようです。(田谷堰のメインゲートを閉じる(しぼる)と、こちら側の水位が上がって取水口から外へ水が流れ出します。)
間近から〈かえって見にくいという気もする…〉
田谷堰のゲートは木製、現在は使用されていないので常時全開、堰は建設当時の姿をほぼ留めているとのことです。
下流側から
堰の下流側には田谷橋がかかります。
橋間近から
左の親柱には「田谷橋」、右には「新赤間川 昭和十三年三月竣工」の文字。竣工当時のこちら人工水路は新赤間川と呼ばれていました。橋も堰同様昭和13年に造られています。
ここから流れは台地の東側にまわり込んで南へ下っていきます。(∩の右側へ)
田谷橋上から下流方向
田谷堰から(後で出てくる)仙波河岸先までが新赤間川として昭和初期に開かれた人工水路です。
この先はしばらく桜並木が続いています。
次の氷川橋上から見る桜並木〈花はないけど〉
その次宮下橋から
川越氷川神社の大鳥居が写りました。この位置からは前の建物が取り壊されて更地になっている今しか見ることができないかもしれません。
宮下橋から300mほど下ると新城下橋、その南側は川越城跡・初雁公園です。
通りすがりちょっとだけ覗いてきました。ただし中は一部工事中。
川越城本丸御殿前
本丸御殿近くの三芳野神社
こちらは天神社で童謡『通りゃんせ』発祥の地との解説もありました。
川越城の東側を現在新河岸川が流れますがこの周辺は昭和初期に開削された水路、それでも流路はかつて川越城の外堀の一部だったとも。
流れのほうへ戻り、杉下橋歩道橋上から下流方向を見て
左は国道254号いわゆる川越街道、新河岸川と1kmほど並走します。(国道は近年できたバイパス部分)
小仙波交差点近くで流れは川越街道から離れます。
弁天橋上から上流方向(川越市大仙波、仙波町3丁目境界)
もう少し昭和初期に開削された水路区間が続きますが、流れの西側、この周辺の段丘崖下は湧水があちこち見られるそうで、弁天橋近くには湧水池『龍池』があり、貝塚、古墳群も周囲に存在します。〈辿る余裕はなかったですが〉
仙波河岸史跡公園近くの新河岸川
田谷堰付近からはじまる人工水路部分(新赤間川)を3.5㎞ほど下ってきました。川越市仙波町4丁目付近、この背後に仙波河岸と呼ばれた河岸場があり、その跡が現在公園となっています。
中へ入ると
河岸場跡、現在は池
荷揚げ場などがあり、川を行き来する舟がこのあたりにたくさんつけられていたのだと想像します。
写真入りの解説がありました
仙波河岸のむかし
むかしこの場所には「仙波河岸(せんばがし)」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。
これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。
仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し、一番新しくできた河岸場です。
しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸川舟運も終わりをむかえました。
下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。
明治以前からやや下流側に川越五河岸と呼ばれた河岸がありましたが、ここが町中に近く荷物の運搬に便利なため新たな河岸を設けました。
この河岸場が出来た頃、現在の新河岸川人工水路部分(新赤間川)はまだなく、荷船を浮かべるための水は周辺の湧水などの細流を集めて賄っていたようです。
この場所も段丘崖の下に位置し、仙波の滝と呼ばれた豊富な湧水がありました。
仙波の滝の水を引き込んだ池(復元)
滝は昭和の中頃まで見られたそうですが、涸れてしまいました。
池の背後はすぐに崖です。
段丘の上には愛宕神社があり、そこは仙波古墳群の『愛宕神社古墳』円墳の上だそうです。
公園内名残りの紅葉
仙波河岸公園から新河岸川に戻り、300mくらい下ったところに畳橋が架かります。
畳橋から上流方向を見て
明治初期に開かれた仙波河岸からこの後ろ、不老川合流点までは船が入れるように当時整備を行った水路だったようです。(もちろんその後さらに拡張されてます)
背後(下流側)はJR川越線の橋があり、その先で不老川と合流しています。
合流点を下流側の新扇橋から
右から新河岸川、左不老川、奥は川越の町並み。
ここで不老川の水を加えて水量も多くなり、明治以前からの舟運はこの合流点付近にあった扇河岸まで往来が可能でした。
写真左側に扇河岸があり、現在の地名もその一帯『扇河岸』です。
また、もう少し下流側にあった河岸を含め、江戸時代に川越藩によって『川越五河岸』が定められていました。
不老川ですが、元々は「としとらずがわ」と呼ばれました。でも現在は「ふろうがわ」が一般名になりつつあるようで、地元の嘆きの声などがあがってるそうです。
今回はここまでとします。
新河岸川の流路地図、辿った区間ごとに線を引きました。今回その2は緑色のライン部分
続きその3
その1