横須賀の長浦から田浦、船越、浦郷、夏島、追浜ときて、横浜の野島、乙舳、金沢称名寺、海の公園をまわって金沢八景へという徘徊をしてきました。
その2は追浜(おっぱま)から先を歩きます。
追浜公園・横須賀スタジアム横の道
"DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA"とあるのはプロ野球横浜DeNAベイスターズのファーム施設。右側一帯には屋外屋内練習場、選手寮などがあります。
新型コロナの影響により内部がクローズドになっていたのですが、道具置き場の後ろから練習場をのぞくと練習中でした。
横須賀スタジアムとベイスターズ練習場から北側へ出ると平潟湾。まわりが埋め立てられたり掘割がつくられたりで現在は運河みたいな湾です。
「金沢八景」のひとつ「平潟落雁(ひらがたのらくがん)」〈ていうのがこのへんのはずですが〉
緑の小山がある方が野島(公園)、右は埋立地で日産自動車追浜工場や関連会社の工場などが建ち並んでいます。
夕照橋を渡って野島へ渡ります
まだ名残りの桜が咲いていたころ。橋名は「金沢八景」のひとつ「野島夕照(のじまのせきしょう)」から。
これは野島公園内の野島稲荷神社
うしろの山、間近から見ると結構大きく、通称、野島山といいます。(標高57m)
公園の花壇
下、向こうは八景島シーパラダイス。
波打ち際から
今は平和な公園ですが、この背後には野島掩体壕(えんたいごう)という、横須賀海軍の戦闘機を空襲から守るため、太平洋戦争末期に掘られた壕(防空壕)遺構が残っています。長さ260m、野島山を貫通しているそうです。
〈過去に撮った写真がありました〉
公園の北側には『旧伊藤博文金沢別邸』があります。
内閣制度発足後初代内閣総理大臣伊藤博文の別荘で1898(明治31)年築、2009(平成21)年復元されたものです。
近くには何回か来た事がありますが、邸内ははじめて。でも新型コロナで建物内には入れず(通常なら喫茶室として開放されてます)。
手前は牡丹園になっていて、そちらは見事でした。
しゃくなげ(石楠花)も
つつじ、八景島と
野島、北側へまわって野島橋の上から
本土へもどります
昔の野島は陸繋島で本土とつながってましたが、この下が水路として開かれ、〈ちゃんとした〉島になりました。
左は金沢シーサイドラインの駅、右一帯は金沢八景のひとつ「乙舳」町、「乙艫帰帆(おっとものきはん)」。
鳥居右の道へ入ります。GoogleMapでは赤門通りと書かれています。
500mほど行くと
称名寺赤門
これより先、称名寺境内は国指定史跡になっています。
仁王門
金堂、阿字ヶ池と2つの橋(反橋、平橋)
奥側から、前方は仁王門
本堂(金堂)
寝子にゃ
釈迦堂
解説板
国指定史跡 称名寺境内
大正11年10月12日 指定
追加 昭和47年1月31日 指定
(史跡面積 155,245㎡)称名寺は、金沢山(きんたくさん)称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(1248~1301)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに、顕時の子、貞顕(1278~1333)は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘3年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。
平成6年3月 横浜市教育委員会 史跡称名寺境内愛護会
〈なぜか自動読込みできなかったので人力文字起こし。建造物説明は省略、漢数字は算用数字に、ルビはほぼ省略〉
阿字ヶ池と2つの橋
ちなみに『金沢文庫』が称名寺の西側に隣接してあります。境内からトンネルをぬけて行き来可能。
再び惣門(赤門)まで戻り、方向を変えて海岸へ。
海の公園砂浜近く
帰帆橋を渡り野島まで引き返し
平潟湾
あとは金沢八景、駅へ。
その1はちょっと雰囲気異なります