東海道を歩くというと出発点を江戸日本橋にすれば終着点は京都三条までかと思うのだけれど、これはそもそも私の日常の散歩なので、たまたま日本橋が自分の居所からそれほど遠くなかったのでそこをスタートに、東海道をコースにしてみた程度。
まずは川崎宿まで五里。
地下鉄の日本橋駅の方が日本橋には近いけれどあえて東京駅からと、少しはこだわってみる。
八重洲口からもう1枚
呉服橋交差点を右折してから日本橋川沿いへ出て日本橋のたもとへ
日本橋
日本橋の解説はこちら
日本橋 (Wikipediaから抜粋)
東京都中央区の日本橋川に架かる橋のこと。明治44(1911)年完成の現行の日本橋は国の重要文化財。長さ49m、幅27m
路面電車を通すことが決まっていた路面はわずかにアーチを描き、橋脚と橋台は山口県産の名石、側面は真壁石、アーチ部分と道路の表面は稲田石で、内部は、最も荷重のかかる両端がコンクリートで、さほど荷重のかからない中央部分が煉瓦。推定寿命1000年程度。
装飾顧問は妻木頼黄、装飾制作は東京美術学校、青銅像の原型製作は渡辺長男があたり、西洋的な基本デザインに、麒麟と獅子の青銅像や一里塚を表す松や榎木を取り入れた柱模様など、日本的なモチーフを加えた和洋折衷の装飾になっている。麒麟像には日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから翼が付けられ、奈良県手向山八幡宮の狛犬やヨーロッパのライオン像などを参考にした獅子像は東京市の紋章を手にしている。
橋の北詰に日本国道路元標(のレプリカ)
本物は橋の真ん中、道路中央に埋め込まれている。歩道から覗き込んだが少しわかりにくい。
レプリカ拡大
今にも上からプレスされてしまいそうな圧迫感のある日本橋、残念な姿。
まずは出発、10分ほどで京橋
京橋交差点から銀座方向
銀座に入る。銀座通り銀座2丁目付近
銀座(江戸時代までの銀座について)
江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれ海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる。
江戸前島:江戸前島は銀座付近にあった半島。中央通り付近を尾根筋とし、汐留付近を先端としていた。江戸時代初めの日比谷入江の埋め立てにより、日本橋台地と呼ばれる微高地になっている。
徳川家康が1603年に江戸幕府を樹立すると、第一回目の天下普請が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。1604年には東海道が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる。
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所(現在の静岡市葵区両替町一丁目)が移転し、後の1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町一丁目付近)に再び移転するまで、銀貨の鋳造が行われた。
現在の五丁目から八丁目は、尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座七丁目付近には朱座が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、槍や鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。1657年、明暦の大火により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。
銀座4丁目交差点
銀座6丁目
銀座8丁目
銀座を通過すると普通の都会の風景になってしまうので、ここまで観光客気分で撮影。
新橋交差点から銀座方向
銀座ばかりが輝いている。
商業地からビジネスオフィス街へ、ここからは歩いて行く通りも「銀座通り」というより、「第一京浜」になってくる。中央区から港区に入る。
東新橋1丁目交差点
浜松町1丁目交差点
大門交差点から左奥へ芝公園、増上寺方向
ここの交差点では増上寺の門が見えるのだが、ここには写ってない。交差点名の大門は芝増上寺の門のことである。
金杉橋のうえから
下の流れは古川、上をふさぐのは首都高速都心環状線。渡った先は港区芝1丁目。
芝4丁目交差点から浜松町方向
ここで道路が右にカーブ。曲がった先は三田になる。芝、三田とも江戸時代初期頃にできた村。東海道の整備によって急速に発展したということだ。
芝5丁目交差点から日比谷通り方向
札の辻交差点から東京タワーを望む
札の辻とは江戸時代、官の制札を立てた辻。高札場のあった場所とのこと。ここに高札場があったのは1831年(天保2年)まででその後は高輪大木戸に移されている。
札の辻の先で、向こう側は台地
向こうにみえる建物は段丘の上にあり、下は崖になっている。大昔は崖のところまで海岸になっていたらしい。東海道は崖下を通っているので、江戸時代よりは昔のことである。
ここから先は三田から高輪に入っていく。
地下鉄泉岳寺駅近くに高輪大木戸があった。
高輪大木戸跡・江戸府内側から
外側から
高輪大木戸解説板
高輪大木戸跡のすぐ先に泉岳寺がある。
泉岳寺交差点から泉岳寺方面を望む
ここから泉岳寺は直接見えないが、通りの先に門がかすかに写っている。
しばらく行くと品川駅
品川駅高輪口から日本橋方向
JR、京急の品川駅は品川区になく、港区高輪。京急線は品川駅から南へ走って最初の駅が北品川だが、こちらは本来の地名を基準にしているため。品川区北品川にあるので北品川駅。「品川駅」は「高輪駅」といったほうがしっくりくる場所にあるが、駅周辺が繁華街になってしまったため現在はこっちが品川の本家みたいになっている。
東海道品川宿は品川駅より少し南へ行ったところ。ここまでずっと第一京浜を歩いてきたが、この先八ツ山橋から旧道そして品川宿へ。
八ツ山橋の上から京急線橋梁と高輪方向
橋を渡って御殿山から下る坂をおりるとすぐに品川宿にはいる。区も港区から品川区に。
品川宿、北品川駅付近「歩行新宿(かちしんしゅく)」から日本橋方向
品川宿
品川宿は北から歩行新宿(かちしんしゅく)、北品川宿、南品川宿の3つに分かれていた。途中を横切る目黒川を境に北品川宿と南品川宿が1601年(慶長6年)に設置され、北品川宿のさらに北側、現在の北品川駅付近が歩行新宿で1722年(享保7年)に宿場として認定された。あとから加わった宿なので新宿。宿場の範囲は、北品川1丁目から南品川3丁目まで(北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺まで)。
本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがあった。
北品川宿にはいるあたりの北品川本通り商店会、上方方向
品川宿からの旧道は当時の道幅のままだそうで、ずっと先までこの幅で道路が続いている。
北品川の宿場内は街道に沿って海側が一段低くなっている。広重の描いた東海道品川宿の絵では宿場のすぐ脇が海岸だったので、かつての海岸線の名残りかと思っていたが、実は目黒川が宿場の海側すぐ下を流れていてそれによって削られた段差のようだ。明治時代の古地図では川の向こうに猟師町という場所があり、その向こうが海岸。(海の近くなのに漁師町でなく猟師町という名前は不思議)
目黒川にかかる品川橋の上から上流側
品川橋は江戸時代は「境橋」(宿場南北の境にあったため)と呼ばれていたとのこと。向こうに荏原神社へ渡る赤い鎮守橋、その向こうは京急線新馬場駅のホーム。
鎮守橋と荏原神社の鳥居
品川橋を渡ると南品川宿。品川宿は寺社の数がとても多く感じる。(このあたり京急線に乗って高架から見ると特に寺院と墓地がよく目立つ。)東海道があり、その両側に旅籠、茶店、商店などが立ち並び、その海側はすぐに海岸のために何もない、反対側に奥まったところに寺社が建てられる、という宿場の構造が垣間見られる。(今回は街道を歩くことを主目的としているのでいわゆる名所旧跡にはほとんど立ち寄っていないが、いつか宿場ピンポイントでの街歩きもしてみたい。)
東海道南品川交差点
青物横丁。東海道は写真左上から右側へ。
Wikipediaによれば、青物横丁の名前は江戸時代の青物(野菜)市場に由来し、昭和初期まで多くの八百屋が軒を連ねてにぎわったとのことである。
品川寺(ほんせんじ)の門
青物横丁近くに品川寺がある。
品川寺
創建は大同年間(806-810年)とのこと。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後永禄9年(1566年)、甲州の武田信玄が小田原の北条氏政を攻めたとき、北条氏の支配下にあった品川一帯は、焼き払われ荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。
現在の青物横丁から南は商店の密度も小さくなってきて商工住宅混在地域といったかんじになる。宿場には江戸方、上方の双方に宿の出入り口として「見附」というものが置かれているが、品川宿にはあったのだろうか、どこまでが宿場なのかよくわからないまま、立会川まで来てしまった。
濱川橋(浜川橋)
下には立会川がながれる。またの名を「泪(なみだ)橋」。しばらく行くと鈴ヶ森。
鈴ヶ森は江戸の南の刑場として設置された。鈴ヶ森刑場の周辺は、かつて海岸沿いのさびれた地であった。鈴ヶ森の刑場に向かうには、近くの立会川にかかる泪橋をわたった。罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。
鈴ヶ森刑場跡
解説板
大森海岸駅前交差点付近で品川区から大田区に入り、その先平和島口交差点の1つ先の信号で再び第一京浜と分かれて、旧道に入る。
旧道との分岐点
旧東海道側の通りはこの先「美原通り」と呼ばれる長い商店街になる。大森という場所柄、海苔の問屋、小売店が数多く見られた。
美原通り、旧東海道
内川に架かる内川橋
内川橋の先でまた旧東海道は第一京浜と合流する。そして同じ場所で第一京浜と羽田空港方面へ行く国道131号が分岐している。
大森警察署前交差点から
高架は高速道路ではなく上下線の流れをスムーズにするための立体式の分岐路。下り線が高架を上り線は地上を通る。
ここから一直線に下り、梅屋敷などを通って蒲田にはいる。
夫婦橋から
ここに右へ分岐していく鉄道の高架線がある。2012年に線路が高架になる以前、ここの場所には踏切があって渋滞の名所でもあったが、お正月の箱根駅伝で選手が足止めを食らう場所としても有名だった。
さらに一直線に進むと六郷。昔で言えば六郷の渡しに到着する。
六郷川(多摩川)の土手、川の下流側を望む。六郷橋から
むろん現在は渡し舟ではなく橋を渡るのだが。
六郷には江戸時代も1600年(慶長5年)から1688年(貞享5年)までは橋が存在していた。橋は何回も流され、1688年の洪水のあとは渡し舟に切り替えられたとのことである。その後は明治になるまで橋は架けられなかった。
渡り終わって川と橋を振り返って
橋を渡り終わるとすぐ川崎宿である。
川崎宿
川崎宿の起立は元和九年(1623)である。諸駅に遅れて設定されたのは、神奈川・品川両宿の伝馬継立が往復十里(約39km)におよび、伝馬百姓の負担が過重のため、両宿が幕府に請願し、これをうけてその中間に位置する川崎に新駅を設置し、その軽減をはかったことによる。
川崎宿は砂子(いさご)・久根崎(くねざき)・新宿(しんしゅく)・小土呂(ことろ)の4町からなっており、本陣は2つ、旅籠は72軒。
町立てにあたっては、久根崎から小土呂に至る自然堤防(海がつくった砂州)を利用して盛土がなされており、これは六郷・鶴見両河川の出水被害を抑えることが重視されたためである。
川崎宿入口すぐ
もう1枚
このあたりは川崎宿の新宿と呼ばれるところ。
東海道川崎宿交流館入口
砂子交差点
今回は川崎宿の真ん中のここまで。川崎駅まではすぐ。
この日は21.8km歩いた。