竪川(たてかわ)は東京墨田区、江東区を流れ、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河(人工河川)です。
江戸時代に下町一帯で開削された運河のひとつで、1659(万治2)年の起工。江戸城から見て縦(東西)に流れるので「竪川」の名称になりました。
現在は全区間首都高速7号小松川線の高架で覆われ、東半分は暗渠化されています。
以前、周辺の運河を巡り歩きました。
東京下町の運河を行く 大横川(旧大島川)、古石場川、大島川西支川、仙台堀川、小名木川 - 散歩の途中
東京下町の運河を行く 北十間川、大横川、洲崎川、横十間川、旧中川 - 散歩の途中
竪川も上記の範囲に含まれますが、このときは道路高架に覆われて暗いイメージ、訪れる気になれずそのままになってました。
少し気が変わり、川沿いを歩いたので備忘的にまとめました。
竪川流路
今回は西側、隅田川との合流点から東へ、旧中川までたどって歩きます。竪川延長は5.2㎞程度。
最初は隅田川、両国橋の南側から
前方両国橋、上は首都高速6号向島線。(竪川を覆っているのは7号線)
この背後すぐの合流地点に竪川水門があります。
竪川水門近くから、前方が隅田川
一之橋上から見る竪川水門
こちら上を通るのが首都高速7号線、竪川水門の先を横切るのが6号線。左方、隅田川上に両国ジャンクション。
竪川が開削されたときに一之橋から六之橋まで6つの橋が架けられたそうです。
いちばん西側、一之橋、そのたもとに解説が
一之橋
幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
万治二年(一六五九)、縦の代表格、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。
竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。
現在は橋の数も増え、一之橋の次は塩原橋、その次は
千歳橋(墨田区両国3丁目)
この付近は川岸、途切れ途切れですが、歩道があります。
竪川橋(墨田区緑2丁目)
水は全体に淀んで濁りがあり、お世辞にもきれいとは言えませんが、においは気になりません。(個人の感想)
三之橋(墨田区立川4丁目)
橋を通る道路は三ツ目通り、名前は三つ目の橋(三之橋)の通りから。同様に四之橋を通るのは四ツ目通りです。
川の交差点
川(運河)を碁盤目状に開削したので交差点ができます。ここは大横川との交差地点、左手前から右向こうへ大横川、道路高架の下が竪川。
大横川の昔の名称は横川、現在ここより北側は埋め立てられ、親水公園になってます。
また竪川もここより東側は暗渠になっています。
大横川交差の東側、暗渠の竪川
暗渠つっても、でけえもんだ 〈なぜか江戸弁〉
少し行くと道端に
牡丹橋親柱
川の暗渠化で橋が撤去され、親柱が傍らにモニュメントとして置かれました。
一応解説を
牡丹橋親柱モニュメント
ここにあった牡丹橋は長さ35.29m、幅員11.00mの鋼橋(3径間鋼板ゲルバー桁橋)で、関東大震災の復興事業により昭和4年に架けられました。橋名の由来は橋の南側にあった「牡丹園」を由来としています。牡丹園は明治になって開かれ、季節になると多くの見物客で賑わいましたが、関東大震災で焼失し今はその名だけを橋名にとどめています。
牡丹橋は江東内部河川整備に伴い、平成2年にその役目を終えて撤去し、新たに道路として整備されました。
永い間、親しまれた旧橋の面影を慕い、橋名板と親柱の一部を残してその歩みを記します。
平成25年3月
牡丹橋(跡)の東側、四之橋、松本橋とあり、その先で横十間川と交差します。
横十間川交差西側から
日当たりの良い方が横十間川、手前竪川側の溝はなぜかとても狭いです。
ここを越えると墨田区から江東区に入ります。
横十間川北側から交差部
江東区に入ると竪川流路上は多く公園となっています。整備されてからの日は浅く、費用もかけられているようです。
横十間川の東側
通りかかったときは、不思議な水路があるなくらいで何気なく撮った1枚ですが、後日確認すると”竪川河川敷公園カヌー・カヤック場”とありました。コースの一部分だけを写したようです。背後に水路、プールが続きます。
貨物線の挟まり橋梁と
こちらに写ってるプールもカヌー・カヤック場の一部のようです。
横切る橋梁、かつては川に架かる鉄橋、上の高速道路も存在しなかったのに、不思議な光景に変わってます。
五之橋と”三代目歌川豊国の生地”案内(江東区亀戸6丁目)
江戸時代後期の浮世絵師三代目歌川豊国の生地、かつ生涯この近辺で暮らしたことが書かれています。右の絵には「江戸名所百人美女」とあります。
横切る橋は五之橋・明治通り、下は竪川沿いの歩道、自転車道です。
その近く、親水公園になってます(江東区大島3丁目)
竪川大橋の手前に古い護岸が残されてました。
厚さがわかるよう一部切り込まれてます
護岸の外側、道路位置などが低いのは地盤沈下の影響。
正面から
右側の解説
竪川は万治2年(1659年)に開削された運河で、すぐ北側を千葉街道(元佐倉道)が並行していたこともあり、かつては小名木川・大横川・横十間川とともに水路として利用され、物資の輸送はもとより、人々が船で移動する「川の道」としても親しまれました。
明治末期からは、工業の発展に伴い資材運搬の水路として利用されていましたが、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、護岸は嵩上げを余儀なくされました。
しかし、江東内部河川の整備によって護岸高が必要なくなり、経年劣化していた「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、公園との一体的整備を行いました。
この護岸は、嵩上げし水害から町を守った歴史を後世に残し、低地に暮らす水防意識を継続していただくため、その一部を残しました。
江東区土木部
写真2枚には「埋立て前の竪川の様子」
さらに東側へ行くと
左側、かつての護岸外側の地面は川水面位置より下にあることがうかがえます。周辺の標高は-2mほどで海面下です。
新六の橋と六之橋の間(江東区大島9丁目)
前方で自転車道がくぐるあたり、現在橋は撤去されてますが、六之橋がありました。竪川開削時に架けられた、いちばん東側の橋です。
ずっと上を覆っていた首都高7号線が左にカーブしていきます。向こうの高層住宅群の手前に旧中川があります。
竪川・旧中川合流地点付近
水が見えるのが旧中川、その上手前の橋の左側から竪川が合流していたはずですが、現在は切り離されているようです。水門などもありません。(橋の下などきちんとチェックしてませんが)
向こう側で旧中川を跨ぐのが首都高7号線の橋梁です。
竪川はここまでです。