散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

浦賀・久里浜・三浦の海岸歩き、そして最後は相模湾側黒崎の鼻へ

秋の海岸とその近所を歩いてぽちぽち記録してきました。
10月だというのに夏が最後の力を振り絞って暑くした最後の日、この日で今年の夏は終わりました。(合掌

今回はこんなところ、行程

スタートは京急線浦賀駅

f:id:miwa3k:20171020180054j:plain

駅前の道路分岐を左へ行けば浦賀湾の東側を通って観音崎方面、今日は右側、湾の西側へ。

左側から来た時のノート

最初に見えるのは浦賀ドックのある造船所(2003年閉鎖)の塀。
浦賀船渠跡

f:id:miwa3k:20171020180055j:plain

浦賀ドック付近

f:id:miwa3k:20171020180056j:plain

工場建物手前一帯が大きなドックなのだが、把握しづらい。

広い県道の一本裏道へ入ると「浦賀道」という古道。道沿いには古い建物なども残る。

叶神社

f:id:miwa3k:20171020180057j:plain

浦賀湾をはさんで東西で向き合う2つの叶神社、こちらは通称西叶神社。

神社の由緒

当社は養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建しました。
その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177~1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてました。
養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになりました。

この地当初は千葉鹿野山のミラーリングスポットというわけか。

元廻船問屋建物

f:id:miwa3k:20171020180058j:plain

建物近くには「廻船問屋跡」の解説板、一部抜粋

浦賀で廻船問屋とは、船を持たずに御番所に詰めては、奉行所の役人たちの指示で、荷改めをしていた下田と東西浦賀の一〇五軒の問屋のことをいいます。また、米穀・酒類・塩等の問屋を営みながら、自己の廻船を所有して瀬戸内海より東北地方までの広範囲にわたって、商いをしていた商人たちのことも廻船問屋といいます。
幕末の頃、彼らの所持する廻船は東西浦賀で約六十艘を数え、多くの蔵が海岸に立ち並び、一大問屋街をなしていました。

湾を隔てた東西浦賀を結ぶ渡し船がある。
西側渡船乗り場

f:id:miwa3k:20171020180059j:plain

東側・船も

f:id:miwa3k:20171020180100j:plain

渡し賃は200円、船がいないときはボタンを押して呼ぶ。昼休みが12時から13時、なんかのどかだ。

浦賀湾口付近まで来て陸軍桟橋、船番所跡付近から
湾東側を望む

f:id:miwa3k:20171020180101j:plain

対岸、左側の山の下に東叶神社。

浦賀から南下して燈明崎へ。江戸時代の日本式灯台、燈明堂がある。
燈明崎手前から

f:id:miwa3k:20171020180102j:plain

燈明堂

f:id:miwa3k:20171020180103j:plain

燈明崎から東京湾浦賀水道

f:id:miwa3k:20171020180104j:plain

長かったので抜粋

燈明堂跡(浦賀燈明堂)
燈明堂は今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。慶安元(1648)年幕府の命により築造、石垣を土台として二階建ての建物があり、階下は番人小屋、階上は四方を紙張障子とその上に金網をめぐらし、中に銅製の灯明皿が置かれ、一晩に灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2km)に達したという。

燈明崎からひと山越える(といってもトンネルで)と久里浜だ。

久里浜港方面を望む

f:id:miwa3k:20171020180105j:plain

正面は東京電力横須賀火力発電所

ペリー上陸記念碑と記念館

f:id:miwa3k:20171020180106j:plain

ペリー公園前から

f:id:miwa3k:20171020180107j:plain

久里浜港に入ってくる東京湾フェリー

久里浜港近くから山側へまわり、古いトンネルをぬけて野比海岸方面へ出る。
途中のトンネル近く

f:id:miwa3k:20171020180108j:plain

少し薄気味悪いトンネルをぬけて坂道を下ると広けた海岸沿いに出る。

あとは海岸沿いに海を見ながらずっと行くはずが、いきなり災害復旧工事で道路通行止め。海岸の土砂が波にえぐられて道路も崩れたようだ。
山側の細いまわり道、事情を知らない車もたくさん入り込んで結構うっとうしかったりするが、自分も事情を知らなかった歩行者なので…ぶつぶつ

通行止めでござる

f:id:miwa3k:20171020180109j:plain

工事区間はそんなに長くなかった。アルコール依存症治療で有名な久里浜医療センターなどの後ろをまわり、しばらく先で海岸沿いの道へ復帰できた。ここからまずは三浦海岸まで歩く。

野比海岸

f:id:miwa3k:20171020180110j:plain

野比海岸公園付近

f:id:miwa3k:20171020180111j:plain

暑いので時々海岸から離れ、多少日陰のある通りを歩いたりしながら

津久井浜海岸

f:id:miwa3k:20171020180112j:plain

三浦海岸から久里浜方向

f:id:miwa3k:20171020180113j:plain

三浦海岸から南下浦、雨崎方向

f:id:miwa3k:20171020180114j:plain

金田湾側の海岸歩きはここまで。

この先海岸線に沿って先へ行きたい方には

三浦海岸交差点からは海と反対方向へ、京急線の線路沿いに三崎口駅方向へ歩く。

沓形公園の歩道

f:id:miwa3k:20171020180115j:plain

三崎口駅近くで国道134号を横断し、さらに西側へ行くと広い農場に出る。
丘陵一面はたけ

f:id:miwa3k:20171020180116j:plain

戦時中に飛行場(横須賀第三飛行場、黒崎飛行場)として整備された跡がこの農地となった。飛行場は整備中に敗戦となって使用されなかったらしい。近くには現在ソレイユの丘という観光施設になっている長井飛行場も存在していた。

飛行場の滑走路跡を端から端まで歩くとその先は海、相模湾側の”黒崎の鼻”に出る。
黒崎の鼻

f:id:miwa3k:20171020180117j:plain

鼻っていうのは岬とほぼ同じ意味。

鼻の先っぽ

f:id:miwa3k:20171020180118j:plain

南側、三戸浜・油壷方面

f:id:miwa3k:20171020180119j:plain

北側、長浜海岸・佃荒崎方面

f:id:miwa3k:20171020180120j:plain

左丘陵の上、ソレイユの丘の観覧車が白くちょこっと見える。

あっち側を歩いたとき

今日は再び先ほどの農場、滑走路跡を戻り、三崎口駅へ。
京急三崎口駅

f:id:miwa3k:20171020180121j:plain

”口”の字の左上に小さく”マグ”と書いてあったのを見逃してません。みさきまぐろ駅

本日ここまで。