散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

浦賀道を歩く その2 汐入から六浦(金沢まわり東浦賀道)

浦賀旧東海道保土ヶ谷宿を結んでいた東の浦賀道、浦賀から汐入まで歩いてきたが、その続き。

汐入駅

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前回その1の最後に使った写真。
右側背の高いビルの後ろ側は横須賀の名所ドブ板通り、そこを先に行くとすぐに横須賀の繁華街といったところに汐入がある。

ここからはドブ板通りと反対側の丘にすぐ登るのだが、たぶん最近整備された駅前から、急に細い階段を上がっていく道を見失い、一時違う道へ入り込んだ。(すぐ気づいたが)
そのあたりは足跡を精査されるとすぐばれる。

浦賀道の足あと(その1、2分)今回は地図上の黄色ピンから赤ピンへ

前回その1のノートへのリンク

miwa3k.hatenablog.jp

古い階段道

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階段と急な坂道を上がっていく途中から、汐入駅前方向

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正面向こうに見える丘が、うぐいす坂を上がって通ったところ。そこから坂を下り、駅前を通ってまた坂を上がっている。

この丘も上がると、すぐにまた下る

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向こうの海岸沿いは海上自衛隊横須賀地方隊総監部、米軍横須賀基地など。戦争前はこのあたりにボヤっとつっ立っていると、スパイ扱いされてしょっぴかれたとか。

稲荷山・逸見子育地蔵尊

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汐入から上がってきた丘が通称稲荷山。そこに祠、本尊には左に「元禄十一年丑七月」と、右に「南無阿弥陀仏同行十六人」と刻まれている。

稲荷山から逸見(へみ)側の谷戸へ下りると、そこは古くからの集落があったようだ。
古い建物の元商店

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商店左奥の細い道からここへ出てきた。

こちらは洋風

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屋根裏明りとり(?)上のひさしがおされ。近くには古い旅館の建物も残っていたそうだが、壊されてしまった。

逸見中央商店街の通りを横切り、鹿島神社前に出る。この付近旧道は商店街付近の集落を巻くように通っていたかもしれないのだが、道筋がはっきりしないのでまっすぐ神社前へ出てきた。
鹿島神社

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常陸鹿島神宮の分霊を祭る神社で創建は室町初期の応永17年(1410年)三浦遠江守。再建は按針の子ジョセフである。初めは鹿島崎(現在の海上自衛隊横須賀地方総監部辺り)に祀られていたが明治24年に焼失し同29年現在地に再建された。」とある。

ここから京急線逸見駅近くのガードをくぐり、内陸側へ進む。

正面、塚山公園へ上がる階段

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階段道が旧道。階段の上がり始めに「安針塚への道標」という石標があり、「安針塚山へ約五町」と刻まれていた。
右は西逸見吉倉隧道で地域住民の防災用に最近つくられたトンネル。丘陵にはさまれた谷戸が災害時に孤立しないよう、2つの谷戸間に掘られている。通常時は歩行者のみ通行可能で長さは260mある。

結構きつい階段とそれに続く坂道を登りきると最初に塚山公園ではなく、本町山中道路の料金所前へ出た。

本町山中有料道路料金所など

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さらに少し上って塚山公園に入ると、そこに三浦安針墓がある。

安針塚の碑など

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国指定史跡 三浦安針墓
三浦安針は、本名ウイリアム・アダムスという英国人で、オランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内でした。艦隊は航海中に大嵐にあい、慶長五年(一六〇〇年)安針が乗ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着しました。
安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、徳川家康の信任を得て幕府の外交顧問となり、江戸日本橋に屋敷、慶長十年(一六〇五年)には三浦郡逸見村に二五〇石を与えられました。また、安針は造船の知識もあり、伊豆以東で西洋帆船を建造しました。
安針は元和六年(一六二〇年)、平戸で亡くなりましたが、安針とその妻を弔うため、遺言により知行地の逸見村に供養塔が建てられました。二基の宝篋印塔は、凝灰岩製の右塔が安針、安山岩製の左塔が妻・ゆきのものです。
横須賀市教育委員会

安針墓

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安針墓は塚の頂上部にあり、浦賀道は安針塚のまわりをくるりと巻いて通っている。

安針塚からは丘の尾根筋をしばらく進む。逸見方から上がってくる場合、安針塚(塚山)への勾配がきつかったあとはなだらかな尾根を行くので意識していなかったが、この尾根の途中が「十三峠」で、浦賀道最大の難所と言われている場所である。

所々眺めの良いところがあった。
鹿島台」付近から東京湾

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十三峠の尾根より、横須賀市街地方向を望む

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案内標

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ここから大田坂(おったざか)というこの階段を下りていく。階段みちは途中でくねって、折れ曲がりながら進んでいる、元は階段ではなくとてつもない急坂だったのだろうと思った。

坂の途中に道祖神があるとのことだったが気づかなかった。
下りていく谷戸の向かいの丘の斜面は田浦梅林だが、梅林ができたのは昭和初期。通ったとき花は遠目にはまだ見えなかった。

坂を下り切ると長善寺、谷戸の出口方向へ国道16号まで進む。

国道16号沿いにあった馬頭観音

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JR横須賀線ガードをくぐったところで国道16号から折れ、横須賀線線路沿いに行く。

線路と小さな河川の間を通ってから、正面向こうの丘へまた上がっていく

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横須賀上水道送水管の通っていた横須賀水道みちを通り、トンネル手前で折れて、右側に写っている斜面上を通る道へ進む。

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正面のトンネル(田浦山トンネル)は明治末から大正に海軍により整備された横須賀水道みちの一部。ここは通ったことがある。

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トンネル横の道を上へあがると最近になって造成された宅地が広がり、現代の風景。港が丘と名付けられた一帯を通っていた浦賀道の道筋は住宅街のなかで消滅している。

そこから谷筋に沿って階段などで平地に下り、また国道16号まで進む。

谷筋を折れ曲がってすすむ道

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道路右側は水路敷、沢の流れが通っているのかもしれない。

船越町交差点で国道16号にぶつかり、そのまま京急田浦駅前を通過、
国道16号をここで右側にある細い路地にはいる

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国道の向こうにみえるのは浦郷トンネル。旧道はトンネル上の丘を越えている。

路地に入って住宅の間の細い階段などを上がっていくと舗装が途切れ、山道となる。

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(山道への入口は行き止まりのようにも見える。一瞬躊躇した。)

丘の上から東京湾側のながめ

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舗装のない山道をしばらく進むと、切通しがある。

がらめきの切通

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さほど長い区間ではないが、きれいに削られた切通し道である。

ここを通過すると山道はさらに続くのだが、浦賀道の旧道はそちらへは進まないと、手元のGPSと地図に落とした経路が示している。しかし、道が分かれるところもなく、目の前にはごく小さな地滑りで土が押し流されたような地形がある。その道なきところを慎重に下りていく。

日陰の林の中で冷たく湿っぽい。そのしめっぽさが体にまとわりつくようでなんとも気持ちが悪い。

下りると家が2軒ほど、廃屋になっているらしいが、生活の跡や気というものがなまめかしく残っている。何か得体のしれないものが佇んでこちらの行動を見ているかのようだ。
他人の家の玄関前も何も、構わずとにかく急いで通り過ぎることにしたが、そんなに人が通るはずもないところで踏み分け道の草がきれいに倒れていることまで気になる。

浦郷トンネルの反対側へ出てくる。

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左手の階段を下りてきた。人界に戻る。(ちと大げさか)

少しだけまた国道16号を進み、湘南鷹取入口交差点先で、車の整備店の仕事場内になんで踏切があるのよ、ってな踏切を渡る。

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向こうの国道側から見るとすごいプライベート通路感あふれているが、遠慮して裏から撮ったらそうでもないな。
ちょうど旧道がこの付近で線路と交差していて、反対側へ出た、ということだが。

首斬観音

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名前は物騒だが、言い伝えが残るだけで本当に処刑を行ったところなのかは不明だそう。

良心寺

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寺の周辺は小田原北条氏時代の浦郷村領主の朝倉能登守景隆の屋敷があったと伝えられ、戦国時代から江戸時代の後期にかけて「浦郷陣屋」が置かれた。朝倉能登守夫人の墓が寺の裏山にあるとのこと。

寺前で再度京急線の踏切と国道16号を渡り、その後ろへ回る。
そのまま行くと京急線追浜(おっぱま)駅前。旧道の道筋からはちょっと外れるが、駅周囲の道路のまわし方がおもしろかったので、少しだけまわり道をした。(特にどうということはなかったが)

雷(いかづち)神社前から国道16号に戻る。追浜周辺で旧道は現在の国道16号に吸収されてしまっている。しばらく国道を歩いていると横須賀市横浜市の境界となる。

横浜市金沢区)に入る

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この市境がかつての武蔵国相模国の国境でもあり、隣国から入ってくる者を見張る小屋(傍示堂)があったという。現在は国道の傍らに道祖神庚申塔地蔵尊などがまとめられて祀られている。(傍示堂石塔群)

ずっと国道を歩いて、金沢八景に出るという道筋を示しているものもあったが、六浦(むつうら)郵便局先で国道から分かれる道筋を選択した。

国道16号から折れて

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さらに行くと右側に侍従川(じじゅうがわ)が寄り添い、橋が見えてくる。

侍従川・諏訪之橋

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橋を渡る道は鎌倉街道下道、たもとで分かれてこちらへくるのが浦賀道(このあたりでは六浦道とも)。

分岐地点

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浦賀道を歩くのはここまでとする。

正面向こうへ行くと朝比奈切通を通って鎌倉へ。橋を渡るとこの先は鎌倉街道浦賀道は合流し、金沢八景方向へ、その先称名寺金沢文庫)近くを通り、かねさわ道とも呼ばれて横浜市金沢区磯子区港南区、南区を縦断し、旧東海道保土ヶ谷宿へ至る。

そちらは以前に鎌倉街道として歩いた道で、そのときのノートを置く。

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難所といわれ、海路もできた道。片道1回だけならばそれほどこたえなかったが、往復、何往復もしなければならないとなると嫌になりそう。
江戸からであれば健脚な人でも2日かかる距離だ。
現代なら京急に乗れば1時間ちょっとか、それにしても京急線の線路につかず離れずの道筋、赤い電車が何回も見えた。