西の浦賀道、浦賀から逗子まで歩いた続き。今日は東海道との追分、戸塚まで歩く。
逗子からの行程は、名越の切通しを経て鎌倉に入り、若宮大路で鶴岡八幡宮前へ、そこから鎌倉街道中道で山ノ内、小袋谷、大船と進む。横浜市に入って、笠間から鎌倉道の枝道に分岐し、飯島、下倉田、上倉田を経て戸塚へ至る。
浦賀道(その4)+α 足あと
この日はプラスアルファとして、旧東海道戸塚宿から保土ヶ谷宿までも歩いたため、そちらの足あとも入っている。
ちょっとおもしろい形の駅舎。
駅前から逗子海岸へ歩いて10分くらい。
この日は天気は良いが遠望はきかず、向こうに見えるはずの箱根や伊豆半島などは写っていない。
海岸沿いを通る国道134号の1本隣りの道路、前回の離脱点へ戻りスタート。
最初はこんなかんじ、逗子開成学園横から
道なりに歩いて行き、県道とJR横須賀線踏切を渡る。が、すぐにまた次の踏切を渡り、先ほど横切った県道へ戻る。
カーブミラー前の踏切を渡って県道へもどるところ
県道を北へ少し進み左折すると、急坂が待ち構える。
名越切通(なごえきりどおし)へ至る上り坂
西浦賀道ではこの坂が一番の難所だろうか。坂道の県道からの分岐点が標高10m、切通にかかる地点が75mである。
この坂道の上にあたる台地は現在、大規模造成された宅地になっている。
住宅地のはずれに名越切通への入口
はいるとすぐにこんな風景
詳細な解説板が横にあるのだが、いかんせん長文で…別の解説板の文字を貼り付けました。
国指定史跡 名越切通
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。
急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や、死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへんよく残しています。
逗子市教育委員会
名越切通
切通しらしいのは、道のいちばん高い地点のそれほど長くない区間。
細道から富士山と横須賀線(2017/01撮影)
下って鎌倉市大町へ出てくる。
横須賀線の名越坂踏切を渡ると、街道脇に小さな川の源流ともなっている「日蓮乞水(にちれんこいみず)」の湧水がある。
日蓮乞水の石碑二基
鎌倉五名水のひとつに数えられている湧水。1253(建長5)年、日蓮が鎌倉に出てきたときここで急に水が飲みたくなり、杖を地に突き刺すと、そこから湧き出てきたといわれる。 湧水量は現在でもそこそこある。
近くには鎌倉十井のひとつ、銚子の井もあり、この付近は周辺の丘からの水の通り道になっているようだ。
日蓮乞水付近の旧道と小川
道路左側の溝を日蓮乞水の湧水が流れている。
再び横須賀線踏切を渡り、安国論寺(あんこくろんじ)前を通過。
門前から
安国論寺は1253(建長5)年に創建。鎌倉時代初期に北条時政の屋敷、浜御所があったこの場所に同年、日蓮が庵を結び、その後20年にわたって過ごし、長勝寺、妙法寺とともに鎌倉での布教活動の拠点となったとのこと。
寺前から大町の街道筋の古い商店街を通り、若宮大路、下馬(げば)へ進む。
下馬交差点
ここで右折して若宮大路に入る。
そのまま真っ直ぐ進むと
八幡宮二の鳥居前
鶴岡八幡宮二の鳥居前から段葛がはじまる。
八幡宮前、三の鳥居
個人的に鎌倉街道歩きのスタート地点にしていた場所。西の浦賀道の道筋もここから鎌倉街道中道と重複して横浜市栄区笠間付近まで、以前歩いた道を再度歩くことになる。
(重複区間はパスすることも考えたが、笠間の先で道筋が分かれるのでそのまま歩いた。)
しばらく鎌倉街道中道その1のノートに重なるが、写真は新しく撮影したもの。
鶴岡八幡宮境内から
旧道は脇を通っていたが、境内を通って西鳥居から出る。坂をあがっていくと、
巨福呂坂(こぶくろざか)洞門
鎌倉への入口、鎌倉七口のひとつ。かつては巨福呂坂切通しであったが、車が通るようになって切通をさらに深く掘り、洞門とした。かつての古道は失われている。(行き止まりの道が一部残るが)
洞門を通過して下り坂になり、建長寺前を通る。
2枚
浄智寺、東慶寺、円覚寺などの有名な寺院の近くを通り、北鎌倉駅前へ。
駅前を過ぎると観光客の数もぐっと減る。
小袋谷交差点の次の信号を右折する。
追分に道標
正面に”右とつか、左藤さわ”、左面に”享保十二年”(1727年)と刻まれている。ここは右のとつか(戸塚)へ。
住宅街となっている旧道筋をずっと進む。大船の繁華街をかすめ、北側へ出ると鎌倉市から横浜市栄区に入る。
笠間交差点を過ぎ、いたち川の新橋(にいばし)を渡る。
新橋といたち川
川向う側に祠があり、その脇に道標がある。1692(元禄4)年にたてられたもので、「従是とつか道」「従是ぐミやうじ道」(弘明寺道)とあった。弘明寺道は鎌倉街道中道に重なる道筋、ここからは戸塚道へはいって歩く。この戸塚道も鎌倉街道の枝道のひとつとされる。
さほどきつくはないが道はアップダウンを繰り返し、
貝殻坂頂上付近の戸塚道(西浦賀道)
左側が崖になっているが、元は切通しになっていたそうだ。この崖や切通しなどから大量に貝殻の化石が出てきたので貝殻坂と呼ぶようになったという。大昔は浅い海だったのだ。この付近、横浜市栄区飯島町。
坂を下りてしばらく行くと戸塚区にはいる。
妙に目立っていた大わらじ
南谷戸(みなみやと)の大わらじ。大正初期に農業のかたわら、わら加工を奨励されたことをきっかけに、そのシンボルとして大わらじを製作して木につるしたことがはじまりとのこと。
下倉田を通り、上倉田というところで、それまで歩いてきた県道から折れて東海道線の跨線橋を渡る。
跨線橋上から東海道線の戸塚駅方向
旧道は線路で分断されている。ここに写っているあたりのどこかを通っていたらしい。
線路を越えるとすぐ柏尾川をわたり、東海道との分岐点になる。
東海道分岐点近く
道路標識に示されているのが国道1号(東海道)、前方のT字路が分岐点である。このあたり、というより特に横浜市内に入ってからは古い街道の面影も残ってなく、周囲はずっと住宅地などありふれた現代の風景に終始するので、何を記録すればよいか困る。
国道1号八坂神社前交差点で西の浦賀道は終わり。(逆に起点ともいえるが)
八坂神社前交差点に残る「かまくら道」石柱
「宝永七年」(1710)の銘が入っているとのことだが、気づかなかった。
たしかにここが追分。
西の浦賀道はここまで。
ここからおまけで歩いた、旧東海道戸塚宿ー保土ヶ谷宿から少しだけ。
1年少し前に歩いた街道を逆に辿って、道筋が記憶に残っているか試してみた。
さすがに東海道はいまだに街道の痕跡も残り、解説案内なども多い。街道を歩く人の姿も多く見かける。
戸塚宿澤邊本陣跡
戸塚宿には2軒の本陣があり、そのひとつがあった場所。
吉田大橋
旧東海道に架かる、広重にも描かれた「大橋」。下は柏尾川。
戸塚宿江戸方見附跡
品濃一里塚
ここの一里塚は街道両側ともに残っている、その一方。
旧街道権太坂
大学箱根駅伝で通るほうではない、本家権太坂。前方下は横浜横須賀道路で坂道の途中がえぐられ、陸橋になっている。
保土ヶ谷宿旅籠本金子屋跡
金沢横町道標四基
かねさわかまくら道にして東の浦賀道の保土ヶ谷宿の分岐点。解説板には「金沢・浦賀往還への出入口」と記されている。
ここの道標は後ろ側の建築工事でしばらく見られなかったが、建物が完成し、以前の道端から建物際に移されていた。すぐ後ろは保土ヶ谷宿お休み処、案内所になったようだ。
東浦賀道の出発点まで来て、これにて落着。
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