東京都の東隣りにピタッとくっつき、市の面積の半分以上が埋立地で東京湾に張り出す、浦安に行きました。
散歩で訪れるのは今回がはじめてではありませんが、市内だけを廻ってみたことはありませんでした。
一応歩いた跡を地図に落としましたが、以下項目の順番とは一致しません。
浦安の水辺をメインに、水の見えないメタ水辺と、
最初はオーソドックスな水辺、海岸線からです。
◆三番瀬沿い
東京湾へ出ました。
浦安に来ていきなり、向こうは市川市ですというところから
前方が市川市の海岸線、浦安市側は埋立地がこの背後にさらにのびています。
上を走るのはJR京葉線。
海側を望む
この一帯は東京湾の一番湾奥、”三番瀬”と呼ばれ、干潟、遠浅の海が広がっています。
岸壁に沿っては”三番瀬沿い緑道”が整備され、良い散歩道になっています。釣り人、バードウォッチャー、いろいろな人がいました。
といって誰もいない風景
これは陸地となった中に残されてしまった以前の堤防(浦安市入船4丁目付近)
前の道路向こう側の”壁”は堤防の名残りです。昭和30~40年代の第1期埋立てで、当時の海岸との境界に造ったものですが、その後さらに沖合へ埋立てが進められたために陸地となった中に取り残されてしまったものです。
高さは2m程度ですが、長さは3㎞以上に渡って続いているということです。(さすがにこいつには付き合いきれないので追っかけてないです。)
堤防跡の先、昭和50年以降に埋め立てられた領域へ、緑道を進みます。
だいぶ先まで来て
なんて言って海側を写しても進行状況はわかりませんね…
遠くには幕張あたりの高いビルなんかもうっすら見えます。しだいに雲がひろがってきて遠くはあまりよく見えません。
埋立地突端まで来て直角にターン、歩く方向が変わります。
東側の三番瀬方向から南側、もろに東京湾を横に見ながら歩きます。
また海側写してる
沖合方向となり、船が多く行き交っているのが見えます。南方向なので逆光になりました。
ずっと進んで浦安市総合公園あたりから振り返って
左の建物は東京ベイ東急ホテルです。
それより、右側が滑走路のようでとても気になっていました。
実際にここはエアレースの滑走路として2018年まで使われていたそうで、レースに参加する機体はここで離着陸していたとのことです。
どうやら向こうのホテル建設により航空法にふれることになり、もう滑走路としては使えないのだとか。おまけにエアレース自体2019年で終了してしまいました。これも陸地に取り残された堤防同様無用の長物となってしまうのでしょうか。
◆境川
左が東京湾。
海岸線の岸壁沿いに下って陸地の先端まで来ましたが、折り返して次は川をさかのぼって歩きます。
下流河口近くは川幅が広い
途中、入船橋の架かる道路の北側に、先ほど見た「古い堤防跡」が続いているのを見ました。堤防跡は川の対岸にもずっとのびているようです。
湾岸道路を越えた上流側には浦安市役所、その近くに水門があります。
2つ水門が設けられ、間を道路が通っています。手前の装飾は歩道のものです。
ここは浦安地域で埋立てがはじまる前(昭和30年代頃まで)の海岸線だった場所になります。このとき埋め立てられた古い海岸線跡は現在”市役所通り”という道路になっています。上下方向で車線の高さが異なる変わった道路です。最後に紹介します。
境川東水門、上流側から
ここの水門、なぜ2つあるのか理由はわかりませんが、手前(上流側)はゲートが開き、奥(下流側)は閉じてます。これが通常の状態だそうです。上流から流れてきた水は対岸の鉄格子をぬけ、奥にある排水機場を通って下流に流れ出るようです。
この境川、旧江戸川の派川で、旧江戸川から分派(分岐)するところにも水門があります。
そこも通常時ゲートは閉まっているようで、ゲート間は現在閉水面となっています。
東水門近く
浦安市投網保存会の舟が係留されています。これらの舟は、かつてこのあたりで活躍した”べか舟”と思われます。
水門より上流側はレンガ積みの護岸、親水施設、趣向を凝らした橋など、最近になって大きく改修されているようです。
しおかぜ緑道分岐点(浦安市堀江1丁目)
かつて写真正面方向に境川から分岐する導水路がありました。その分岐点です。現在は暗渠化されて緑道となっています。
境川をさかのぼって歩きます。
堀江や猫実(ねこざね)という地域へ、明治以前からの浦安の中心へ入って行きます。
境川を背にして古い建物がいくつか残っている通りへ出てみました。
旧濱野医院
昭和4年建築、浦安で最初の洋館風建物となる医院兼住宅だそうです。医院入口前には「現在この建物で診療は行っておりません」と但し書きがきっちりありました。
内部も公開されているようですがこの時は見ることできず。
旧大塚家住宅、中を覗いて
江戸時代末期の建築と推定されています。建物の裏手を境川が流れ、農業と海苔生産を行っていた家の住宅だそうです。
平屋のようですが屋根裏に2階があり、洪水時の家財道具の避難場所としていたと解説にありました。敷地が狭く建物を俯瞰できませんでした。
奥に写る2人は人形です。
旧宇田川家住宅
明治2年建築の民家。こちらは商家として利用され、表(店舗)が通りに面しています。
後ろの住宅部分なども見ることができました。
お隣りが銭湯(跡)でその煙突も写ってますね。
古い住宅が残るあたりの境川
歩道左側の生垣が旧大塚家住宅の出入口にあたるところ。
川沿いに少しさかのぼると浦安三社のひとつ、清瀧神社(せいりゅうじんじゃ)があります。すでに年末年始の準備がはじまっていましたが、拝殿は工事中のようでした。
神社と直接の結びつきはないですが、境内には土木遺産に指定された「堀江水準標石」=この標石の高さを基に江戸川河口の水位基準面(ゼロ点)の高さを決定したもの、がありました。この江戸川工事基準面(Yedogawa Peil:Y.P.)は都内などの河川周辺をうろうろしていると時々目にします。
清瀧神社横の境川
宮前通り、新橋の上から上流方向。向こうに見える橋と水門は境川のはじまるところです。
水門の向こうは旧江戸川、ここで川が分岐(分派)していました。現在は二重の水門、外側が閉じられて水の自由な出入りはないようです。
東西線の橋梁近く、旧江戸川の堤防にあがって
蒸気河岸、妙見島、浦安橋
この付近には明治時代に東京深川、両国などを結ぶ蒸気船発着所があったため、蒸気河岸と呼ばれていたそうです。堤防上に解説板がたてられていました。
向こうに見える橋が浦安橋(葛西橋通り)、橋中央が中洲となる妙見島です。また川は都県境でもあり、妙見島は東京都江戸川区です。
◆船圦川跡
旧江戸川に沿って少しさかのぼります。市川市との境界、地名では浦安市当代島(とうだいじま)に当代島水門があり、そこから浦安市域に川跡が確認できます。
当代島水門(あたまだけ写る)、船圦川(ふないりがわ)跡
道路のどん詰まり、水門手前は排水機場、向こうは旧江戸川です。
背後に川跡が歩道になっています。
船圦川跡の歩道(船圦緑道)
緑道の長さは500mほど。船圦川もその程度の長さだったそうです。現在川は埋め立てられているということです(が、排水機場は現役で稼働しています)。
緑道沿いの解説では、江戸時代に人工的に掘削した水路ともいわれていて、実態ははっきりしないようです。この付近は昔、広く湿地帯で地表に水が浸み出すところがたくさんあったようで、その水を集めて水路としたのかもしれません。後で書く猫実川の源流といわれるのも近く(浦安駅付近)です。
この川に江戸川を経て海で漁をする舟がたくさん係留されていたので船圦川という名前になったのだとか。
船圦緑道先端部
緑道ではなく道路中央分離帯ですね。この先は痕跡がありません。
写っているバス停の名称は”船圦緑道”でした。
◆猫実川(ねこざねがわ)
この川、東西線浦安駅付近に源流がある自然河川ということです。
浦安駅東口から北西側に少し暗渠となった痕跡がありますが、すぐに消えてしまいます。
駅北西側の痕跡
向こうが駅方向、150mほどで駅ホーム直下。逆はこれより手前に川跡らしきものは確認できません。
船圦川同様、この周辺の湿地帯から浸み出す水が集まって流れを形成したようです。
浦安駅ホーム近くの歩道(駅南東側)
川暗渠上に歩道と親水施設を整備したそうです。
先を横切る道路の向こうからは流れが顔をみせます。
浦安市北栄4丁目付近、上流方向を見て
埋立はじまる前の河口(旧海岸線)付近の猫実川
水は向こうから流れてきて、以前はこの付近が”沖割原”と呼ばれた海岸線の湿地か干潟、背後には遠浅の海が広がっていました。
昭和40年代頃に埋立てがはじまり、川はさらに下流へ延長されました。
現在は途中、市川新浜方面からの水路と合わせられて猫実排水機場を通過して海へ向かいます。
川幅も広がって運河のように
名称はこのあたりも猫実川のようです。
川が市の境界、対岸は市川市です。
ここが現在の猫実川河口
◆しおかぜ緑道、市役所通り
ノートの文字数が多くなってしまいましたのでごく簡単に。
しおかぜ緑道は境川の途中、浦安市役所から2~300mほど上流で分岐していた水路を暗渠化して整備したものです。旧江戸川までの約1.8㎞の緑道です。
分岐点の風景は境川を歩いている途中に差し込みました。
しおかぜ緑道に入って少し先、
浦安市堀江1-11付近
緑道の上にはずっと高圧電線が通っています。
高圧線直下には建築制限があるので、水路上に引き回されたのでしょう。この高圧線、旧江戸川を越えて江戸川区へのびてますが、そちらも直下は公園になっているようです。
しおかぜ緑道の東側に道路、市役所通りが通っています。
埋立のはじまる前の海岸線に沿って造られた道路で、中央に段差があります。
市役所通り1
並木の向こうを走る車、一段高い場所です。
市役所通り2
道路中央が昔の海岸線、その向こう側は埋立地になります。
埋立地側のほうが土を多く盛ったので標高が高くなり、その境界につくった道路はこのように段差ができました。
ここは最初の埋立、第1期工事域ですが、そのあと第2期工事が行われた埋立地域は1期よりもさらに高く土を盛ったそうです。(そちらは境目見た時は気づきませんでした)
このほかにも少し歩いて見たところがありますが、長くなったのでまたの機会とさせていただきます。