前回、江戸方から矢倉沢往還を西へ、千村宿先の森の中まで進んでから渋沢まで戻ってきました。
千村宿の先へ街道は、谷間へ下って四十八瀬川の流れを越え、その谷間の川沿いに松田へと続いていました。
しかし現在は四十八瀬川を渡る橋がありません。
ネットを調べてみると、川を渡れない可能性がある、道も荒れているという情報がいくつかありました。また、最近は地元の街道保存会によって付近の道も整備され、仮橋があるとの情報も得られました。
時期的にも冬場なので川の水量も少なく、通れる可能性は高そうですが、今回は別ルートを選択しました。
渋沢から松田にかけての矢倉沢往還は、上に記した江戸・明治時代ルートと、それ以前に使用されていた古いルートが存在しています。古いルートは”平安・鎌倉時代の道”という人もいるようです。
その古いルートがどの程度オリジナルの道すじに忠実なのかはわからないので、はじめは半信半疑でしたが、実際に歩いてみるとあちこちに”矢倉沢往還”の案内標、何がしかのエピソードが残る場所などを通過し、こちらもたしかに街道が通っていたと納得できました。
前置きが長くなりました。
矢倉沢往還・渋沢から矢倉沢 足あと
前回から日を改め、小田急線で渋沢へ。
駅を下りてすぐに國栄稲荷神社、その境内に大きな道標や矢倉沢往還の碑などがあります。前回見逃していたのでしっかり見てきました。
元は神社近くの交差点にあった道標、向こうは社殿
その辻は矢倉沢往還と小田原道が交わっていました。
道標この面は「左 小田原 いゝすミ みち」(いゝすミ=小田原飯泉観音)です。
他の面は「右 ふじ山 さい志やうじ道 左 十日市場 かなひかんおん道 左 大山道」(ふじ山=富士山、さい志やうじ=大雄山最乗寺、十日市場=曽屋宿、かなひかんおん=平塚金目観音)
この日はここから”小田原いゝすミみち”、現在は県道708号へと進みます。
まずは南に向かって前方の渋沢丘陵にあがります
”矢倉沢往還”の案内標が出てきて、細い道に入り、急坂を上がります。
県道の峠トンネル近くの旧道から渋沢、秦野方向
右奥のピークが大山です。足元には小さな石祠がありました。
この背後、林の中へ入り、さらに坂を上がります。
尾根筋まで上がると周囲がひらけた場所へ
このへんはハイキングコースにもなっています。
のどかな風景
左奥に見えるのは箱根です。富士山も時々見えていましたが、そちらはもっと良いポイントがあります。
ここからは篠窪という集落に向けて坂をどんどん下っていきます。
樹齢は500年(神奈川県説)とも800年(大井町説)とも。
木の陰になっていますが、先を右に折れて坂を上がります。
富士見塚に出ます
矢倉沢往還の一里塚だったとも言われています。
左側の標柱は、篠窪付近の矢倉沢往還が「かながわの古道50選」のひとつになっているためです。
ここは西側が開けた、富士山のビュースポットです。「源頼朝が、巻狩の往還に馬をとめ、富士山を眺めた」とか、富士浅間神社分神の「富士山大神」碑があったりします。
咲き始めた菜の花の向こうに富士山見えました
富士山の左に見える、丸くお椀を伏せたような山が矢倉岳で、この日はあの山の麓まで行きます。
富士見塚からずっと坂を下って行きます。
古道ってかんじですね
大井町から松田町へ入って、
みかん畑と足柄平野、富士山などなど
遠くを眺めながら歩いていると、あっと言う間に下界へ下りてきます。
神山神社の横へ出てきて広い道に合流、さらに東名高速のでかい高架橋の下でT字路に突き当たりますが、その道は渋沢から千村宿経由の”江戸・明治の道”です。
突き当りを左折してひとつになった矢倉沢往還、今度はすぐに右折して川音川を渡ります。
江戸時代以前には右折せず、川音川を渡らないルートだったようですが、先にある酒匂川の川筋が変化し、それに伴って渡し場の位置が変わるなどして、のちに右折コースに改められています。
川音川、籠場橋手前から
橋を渡ってまっすぐ行くと現在の松田町市街地、かつての松田惣領宿へと向かいます。
松田惣領宿についても酒匂川の度重なる氾濫などで何回か道筋が変化し、宿場も位置を変えていたと推測されます。
今回は江戸時代以降の道に沿って行きました。
籠場橋を渡った先
ここが宿内だったかはわかりませんが、何となく古くからの道すじにあるという雰囲気が感じられました。道路は拡張されてます。
この先、新松田駅入口交差点を左折します。(明治期の関東迅速測図では左折する道筋が大きく書かれていますが、明治31年発行5万分の1地図ではそのまままっすぐ行く道がメインです。ともに酒匂川手前で合流します。)
小田急線新松田駅前を通過し、酒匂川へ向かいます。
松田惣領は古い建物はほとんど残っておらず、宿場としての面影はあまりありませんでした。
酒匂川十文字橋手前
ここには1889(明治22)年に初代の橋が架けられました。
橋のたもとに当時の写真入り解説があります。
十文字橋の歴史
十文字橋は明治22年(1889年)東海道線が開通し、それに伴い松田駅から大雄山最乗寺道了尊に通ずる幹線道路の橋として出来ました。この木の橋は地元有力者が建設し金銭を取り渡らせていました。たび重なる豪雨でその都度流され、仮橋や渡舟で対応していました。
大正2年(1913年)現在の十文字橋の原型となるトラス橋を県が完成させました。しかし、中心部の橋脚だけが石で積み上げ、その他は木製でした。その後木製から鉄製になりました。大正12年(1923年)の関東大震災で鉄製の橋脚は落ちてしまいましたが、石の橋脚部分だけは残りました。
昭和8年(1933年)には、鉄製部分がすべてコンクリート製になりました。その後、歩道をつけたり、トラスをとる大規模改修をし、昭和51年(1976年)からは松田町・開成町で管理することになりました。
平成19年(2007年)9月7日未明の台風で大正2年(1913年)につくられた石の橋脚の一部が被害を受けてしまいましたが、平成20年(2008年)現在の橋に復旧されました。
このモニュメントに使われている石は、大正2年(1913年)の橋脚の石です。
解説の左後ろに橋脚の石、ほんの一部ですが写っています。
渡し場位置はたびたび変わりましたが、小田急線の橋前後数百メートルの範囲にあったようです。
開成町から次の南足柄市にかけて足柄平野を古い道に沿って歩いて行けます。
十文字橋先の道
左側に道祖神と松の木、道沿い、用水路にかかる古い小さな石橋があります。
この付近は古くから広大な水田地帯で、田んぼに水をひく用水路が網の目のように張り巡らされています。この間、矢倉沢往還の道すじだけでも何十という数の用水路を渡ります。
民家の境を流れ道の下をくぐる水路
道路に並行する水路
農閑期の冬場でも豊富に水が流れ、きれいな水です。
大長寺前に並んだ石仏石塔群
私一番右がムーミンパパに見えます、ちがう?(実は常夜灯です。)
石仏石塔はよく見かけます
”宮台のお地蔵さん”
ガラス扉つき祠に祀られているのは、「登り藤家紋のついた黒漆塗り厨子に納められた木造、唐金色に着色された立ち姿の地蔵菩薩」と解説(抜粋)にありました。
古くからの集落内に水豊富な水路
これはまた別の水路
すぐ前で道は右に折れ、台地の先端を軽く登るとかつての関本宿、現在の南足柄市の中心部が見えてきます。
台地上の福田寺前に大きな石塔
三界萬霊等(塔)、寒念佛供養塔、右はよくわからず。(読めたところで意味はわかってませんが…)
関本市街地方向
このあたりで足柄街道にのっかり、かつての関本宿に出ていきます。
宿場内の龍福寺
宿場の中央付近に関本宿を語る会による「矢倉沢往還・江戸末期の関本宿」図
矢倉沢往還の宿場としては大きな部類ではないでしょうか。
左下の説明のみ
- 関本は、古代東海道(官道)の坂本駅であった(律令により駅馬22匹常備)。駅は、古くは現在より貝沢川寄りにあったという。
- 現在地に町割りしたのは、鎌倉時代だと思われる。
- 御蔵には、江戸時代初めには、御厨方面の年貢米が運び込まれた。
- 家々は道路に面して縁側をつけ、旅人の誰でも自由に休んでよかった。
- 宿場の両側を流れる小川(各家の庭の中を流れていた)で馬の脚を洗い、冷やした。
- 古代より軒を連ねていた為、大火になり易かった。その為、各家ごとに土蔵があった。
この右側は高札場が再現され、高札・定が掛けられ、その下に解説文がありました。またその隣りには「矢倉沢往還・関本宿」と書かれた木の標柱と解説が掲げられています。
宿場内のあちこちに”関本宿を語る会”がたてた解説板があり、こちらの歴史、由来など様々知ることができます。古い建物などは残っていないことが多いので、立て札の説明を読むだけ、という場合もありますが。
かつての宿場中心部付近、高札場があった交差点
正面の道が矢倉沢往還、向こうが江戸方です。現在は南足柄市役所、大雄山駅、関本バスターミナルなど町の中心も近い場所です。
この宿場に入ったあたりから道は矢倉沢に向かって上り坂になっていきます。
宿場のはずれあたりに「足柄道坂本駅駅舎跡」の木造立て札がありました。駅舎跡は市のグラウンドとなって他には何もありませんが、ここから当時の様々なものが多数出土し、それらは資料館に所蔵されているそうです。
語る会の立て札の文字は一部読み取れなくなっていて、文字起こしはできませんでした。
しばらく足柄街道の長い坂を上がっていきます。
このあたりも道沿いには石仏、石塔などがたくさん残っています。「富士山に何回登った!大願成就」(意訳っ)という大きな石塔も見かけるようになりました。富士講の道でもあり、富士山もだんだん近くなってきます。
変わったお地蔵さまがおりました。まっ白です。
化粧地蔵ともいい、安産と授乳に霊験があると伝えられています。布で作った乳房や赤旗をあげて願をかけ、お礼参りには尊体にうどんこ(小麦粉)を塗り付ける慣習があるのでこんな姿になっているようです。(横の解説から)
白地蔵尊からすぐ先、警察派出所のところで右へ分かれる細い道があります。そちらが古い道です。
古道の坂道を上がっていくと足柄神社前に出ます。
足柄神社社殿
南足柄の総鎮守。こちらにはちょうど2年前にも”散歩の途中”で立ち寄りました。
神社の後ろへぬけ、このあたりでは”足柄古道”と呼ばれているところを歩きます。
足柄古道と矢倉岳など
左側の山が矢倉岳(870m)です。周囲はとてものどか、誰もいません。
道は杉林に入っていきます
人の手で植林された森です。
この先、森のはずれまで来るとイノシシ除けの金網のゲートがありました。人はゲートのフックをはずし、扉を開いて先へ行きます。でもその前に扉を閉めて、フックをかけなおすことを忘れてはいけません。
ゲートの先から
矢倉沢までもうすぐです。ここからは坂を下ります。
しばらく行くと足柄神社手前で分かれた新道にぶつかります
これを渡って左側、下へおりる道に入ると向こうに見えている家々が矢倉沢の集落です。
道を渡る手前あたりにもたくさんの石塔が並んでいました。
矢倉沢には徳川幕府によって関所が設けられ、通行時間の制限があったことから周辺に数軒の旅籠が立ち、小規模ながら宿場の機能を持っていました。
門の前には立花屋の屋号が今もかかっていました。
そこから距離的には数軒分先に矢倉沢関所跡があります。
現在は一般の家屋が建っていますが、その敷地の中に「市指定文化財 矢倉沢関所跡」の木柱が立っています。
生け垣の後ろになって頭だけ出してますが、隣には立派な石碑「矢倉沢関所之跡」もありました。碑文が長々連なっていたのですが、部分的に判読できませんでした。
代わりに隣の畑に立っていた解説文を
矢倉沢関所跡(末光家)
江戸時代に入り、東海道の最重要である箱根関所が整備されましたが、それに伴い、矢倉沢にも箱根の脇関所として矢倉沢関所が設置されました。ここは定番人屋敷、蔵、番所である矢倉沢裏関所で構成され、通行人の取り締まりを行いました。周りは七十間(約126m)を超える柵や竹垣、生垣、茨垣といった防御施設も備え、その後施設の拡張も行われていました。
関所は小田原藩によって管理され、時期によって変化があるものの、番士二名、定番士三名(うち一名は裏関所番)、足軽、中問等若干名が配置されました。矢倉沢関所は明治になって廃止されましたが、末光家には、門柱の礎石、数枚の通行手形などが所蔵されています。
関所を越えた先から振り返って
だいぶ長くなったので今回はここまでにします。
この先はまだ歩いていないのですが、足柄峠越えをして駿河の国までは行きたいと考えています。
歩きました。
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