矢倉沢から御殿場へ歩く途中、足柄峠の城跡で富士山を眺めた続きからです。
矢倉沢往還・矢倉沢から御殿場 足あと
前回、矢倉沢から足柄峠まで
今回、地図では足柄峠の黄色のマークから再開、御殿場へ向かいます。
もう一度、足柄城跡から富士山
足柄城主郭(本丸)跡
Wikipediaによれば、ここにあった足柄城は1392年築城とされる中世の山城です。その後1569(永禄12)年~1571(元亀2)年、1587(天正15)年などに小田原北条氏によって大規模な改修が行われますが、豊臣秀吉の小田原征伐により、豊臣方の井伊直政の攻撃を受け、本格的な戦闘が行われることなく落城したそうです。
二の郭、三の郭間の堀切跡
遊歩道にするため土砂を盛って一部埋めてしまってます。
城は足柄街道(矢倉沢往還)沿いにいくつもの郭が並ぶ格好になっていて、街道の通行ににらみをきかせていたことが見て取れます。
城跡から街道を見下ろす
下の道へ戻ります。
しばらくこの県道を歩きます。
道のわきに置かれた石仏
近くには六地蔵、もう少し先には別の、八体あるけど六地蔵、もありました。
「目にかゝる 時やことさら 五月富士」芭蕉句碑の反対側に「足柄古道」の入口があります。
未舗装の山道に入ります
笹藪の多い森の中を今度はどんどん下って行きます。
所々、富士山が見えます
樹木の背も高いので葉が繁る季節に見るのは厳しいかもしれないですね。
再び県道と合流するあたりは石畳
正面には小さな馬頭観音像。
ここからは舗装された道を足柄竹之下宿へ向けて進みます。
伊勢宇橋
森の中の真っ赤な欄干はよく目立ち、ついシャッターを。下の沢は枯れていました。
橋の先には大きな石塔がありました。
栗の木沢の唯念名号碑
古い石の碑文を含め3つの解説板がたっていました。うちひとつの冒頭を抜粋
「栗木沢・唯念上人の大名号塔(南無阿弥陀佛の碑)は天保元年(一八三〇)小山町上野、奥の沢の唯念寺(ゆいねんじ)を開いた唯念上人(ゆいねんしょうにん)の筆による日本一の大きな石佛である。」
特徴ある書体の石塔はここのほかにも見かけました。
しばらく幅の広い一本道を下って行きますが、この道が左へへアピンカーブする先に、まっすぐ続く旧道が現れます。
旧道分岐地点近く
先の森の中へ続く道があり、そちらへ入ります。
杉林の中に続く道
ひんやりした杉林の中をしばらく下っていくと竹之下の集落に出ます。
嶽之下神社鳥居と庚申塔
ほぼ坂を下り切ると県道と合流、下りてきた道に「馬喰(ばくろう)坂」の碑
踏切を渡ると千束橋(ちづかばし)
橋を渡って左側にいくつか石塔があり、そのひとつに竹之下合戦場碑、100mほど離れた場所にも竹之下古戦場の大きな石碑があります。
この周辺一帯は、1336(建武2)年、朝廷方の新田義貞軍と足利尊氏軍との間で行われた、箱根竹之下の合戦の戦場でした。
先の千束橋もその合戦の際に新田軍が落として行ったとされています。
すぐに道が左に折れ、そこに常夜燈があります。
(柱が目障りな写真が続いてすいません。)
左に折れた先が街道の竹之下宿です。
宿内から来た方を振り返って
矢倉沢宿と同様、小規模な宿場だったようです。昔の面影はあまりありませんが、屋号を掲げている家が何軒かありました。写真左の石塀にも「桔梗屋」とありました。
100mほどで広い県道との交差点に出ますが、そのあたりがもう宿場の端となるようです。
常夜燈やたくさんの石仏が置かれていました。
常夜燈と足柄駅入口交差点
この背後に進みますがすぐに細い道となり森の中へ、有闘坂(うとうさか)と名のついた急坂を上がります。〈”うとうさか”って名前の坂、あちこちで見聞きします。様々な漢字があてられてますが。〉
有闘坂、通った道を下に見て
坂の上で道はまた広くなります。
碑が黒くて文字が読みにくいですが、
道端に「有闘坂上一里塚跡碑」
塚は残っておらず、碑だけがぽつんと建っています。
この先で県道78号(御殿場大井線)に合流します。そのあとは御殿場市街地までその道路をずっと歩いて行きます。
あしがら温泉の建物ごしに富士山
記録できた富士山はこれが最後。このあと、もやってきて姿が霞んでしまいました。
東名高速を越えると小山町から御殿場市へ入って行きます。
東名高速陸橋の傍らから
石仏石塔の類いは相変わらずよく見かけます。
向こうは箱根の金時山など、左へのびる稜線の先に足柄峠があるはずです。
再び唯念上人の名号塔
大きさも栗木沢にあったのと同じくらいありそうです。コピー?
しだいに住宅なども増えてきます。わりと古くからの集落かなと思ったら御殿場市御殿場という場所です。
御殿場市御殿場にて
この近くには御殿場発祥の地碑、徳川家康御殿跡もあり、江戸時代初期はこの周辺が御殿場の中心地区だったようです。
御殿場の地名の由来は、徳川家康のための御殿が建てられたことによるとされていますが、家康本人は完成と前後して亡くなっており、遺体の一時安置に使用したものの、生きているときに使われることはなかったそうです。
古い家屋も時々見かけます
その先、御殿場市役所前などを通過し、富士山、山中湖、富士吉田方面へ向かう道と交差します。
そちらへ向かう道は古く富士講の人々も通ったのでしょう。大山と富士山をセットでまわるツアーも人気があったといいます。(まあ、当時ツアーとは言いませんが)
また、甲州方面からの大山参詣はここで矢倉沢往還に出て、大山へ向かう方法もあったそうです。
そこからほどなく
先の信号が御殿場駅入口交差点です
左の建物もちょっと古そうです。
街道はこの先にものびて沼津方面へ続いていますが、今回はここまでとして信号を左折しました。
駅前広場には御殿場線で活躍したD52型蒸気機関車が保存されています。
駅出入口近くにはこんなマンホールも
駅前から真正面に富士山の雄姿が、…だいぶ霞んでぼんやりと、見えました。
残念ながら写真に撮ったらはっきりしませんでした。
とりあえず、ここまでとします。