散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらいろいろ観察したノート

鎌倉街道を歩く 中道その3 二子の渡しから渋谷経由池袋まで

鎌倉街道中道も現在の東京都内に入る。中道その2にも書いたが、参考にしている資料では街道経路が二子の渡しから先は二手に分かれている。網の目のような鎌倉街道の道筋だが、主要道として2つが甲乙つけがたいということ。まずは資料で”Aルート”とされる道筋をたどることにした。

Aルートの今回歩いた主な経由地

二子の渡し(二子玉川)→上野毛→八雲→上目黒→渋谷→神宮前→千駄ヶ谷→新宿→戸山→高田→雑司が谷→池袋

その3行程・足あと

スタートは東急線二子玉川駅

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この駅は散歩の時の乗り降りでよく使うけれど、いつも同じ場所からの写真なのでホームから撮ってみた。(どうでもよいっちゃどうでもよい☆)

Aルートのコースは、駅を出ると多摩川に並行している多摩堤通りを川の下流方向へ少し行く。
二子玉川付近には現在の多摩川堤防の外側にもうひとつ堤防が残っている。

玉川東陸閘(たまがわひがしりっこう)から

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左右の土手が大正時代に築かれた堤防、後ろ側が多摩川で川べりには現在もう一重の堤防が存在する。陸閘と呼ばれる、堤防が切られたこの部分は普段は通行が可能で、増水時にはここにゲートをたてて水を塞ぐような仕組みとなっている。レンガ壁の両側縦に切れ込みがはいっているところにゲートをたてる。
多摩川べりには堤防建設以前から観光用の料亭などがあり、川との間に堤防がつくられると景観が悪くなると反対されたため、やむなく堤防を陸側に迂回させたのでこのようになったらしい。現代ではあり得ない対応だけど、当時は認められたのだ。もう少し上流側には同じようなつくりの玉川西陸閘がある。
ちなみに前方は二子玉川駅バスターミナル。

鎌倉街道中道Aは二子の渡しを渡って下流方向に少し行ったところから坂を上がっていく。上野毛(かみのげ)方面からきて現在の二子玉川公園にぶつかる道路があるが、その道を行く。

上野毛方面から下りてくる坂道

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坂道の原因は大昔の多摩川が削ってつくった崖、国分寺あたりから続く国分寺崖線が左右にずっと続いている。がけ下を丸子川(六郷用水)が流れている。

丸子川を稲荷橋で渡るとすぐ上に上野毛稲荷神社があり、その奥に稲荷丸古墳がある。坂を登ると環八通り上野毛駅前交差点に出る。
東急大井町線上野毛駅

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(穴あき)天井があるけどホームと線路は道路の下。

そのまま道路を先へすすむと、その下流等々力渓谷となる矢沢川を渡り、中町天祖神社前を通過する。
中町天祖神社鳥居前

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道は等々力六丁目交差点で目黒通りと合流する。合流した目黒通りの歩道をずっと歩く。

目黒通りで(世田谷区深沢1丁目、等々力6丁目境界)

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世田谷区から目黒区に入って八雲、東急東横線のガードにさしかかる手前の少し特殊な分岐を左折して柿の木坂の細い道へ入る。
呑川柿の木坂支流緑道の1本隣りの道路を北へ歩く。この道は正確には旧道ではなく、突き当たって右折すると環七通り柿の木坂一丁目交差点、そこを環七背後の細い道に左折するとこちらは旧道であるらしい。

世田谷、目黒区境界となっている道を行くと駒沢通りと交差し、さらにその先へ。
区境界を通る鎌倉街道中道旧道(世田谷区下馬5丁目、目黒区五本木3丁目境界)

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この道をさらに先へ行くと、道路の真ん中に木が生えていてロータリーのようになっている。
葦毛塚(あしげづか)

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近くに寄ると「芦毛塚之碑」石碑と解説

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解説によれば

葦毛塚(あしげづか)
源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏経をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚とよばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。
昭和五十三年三月 世田谷区教育委員会

いずれにしてもあしげづか、なぜ道路のほうがよけてるのかもわからないな。

葦毛塚のところで旧道はいったん途切れるが、蛇崩川(緑道)を渡り、蛇崩交差点から通称「オリンピック通り」に合流、「半兵衛坂」の標柱があり、そこにはこの通りが1940(昭和15)年の幻の東京オリンピックの際に整備されたことが書かれている。

少し先、宿山(しゅくやま)と呼ばれたところで分岐、細い道へ入っていくところから旧道が復活、角のところに
庚申塔など

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解説には

宿山の庚申塔(しゅくやまのこうしんとう)
上目黒5-5
江戸時代の農村では、庚申信仰が盛んで各集落に庚申講があったといいます。60日毎にめぐってくる庚申の日に、講の人が集まって青面金剛(しょうめんこんごう)、帝釈天(たいしゃくてん)、猿田彦(さるたひこ)などをまつり、飲食を共にしながら夜を明かす庚申待(こうしんまち)が行われました。そして庚申待を18回終えると、供養や記念のために庚申塔を建立しました。この周辺はかつて、字名(あざな)で宿山といいました。
向かって右から2番目の庚申塔は、元禄5年(1692)の造立で本尊を青面金剛とし、日月、二鶏と、三猿が正面左右の三面にそれぞれ一猿ずつ浮き彫りされています。その左の庚申塔は、地蔵菩薩を本尊とするもので、延宝3年(1675)に造立されました。一番左の庚申塔は宝永5年(1708)の造立で、青面金剛、日月、二鶏、三猿が刻まれています。
平成22年12月 目黒区教育委員会

道なりにすすむと小川坂というゆるい下り坂にかかり、道は右へ曲がっていって山手通りに出る。その向こうは目黒川でそこへ架かっている橋は宿山橋。

宿山橋と目黒川

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中目黒の駅にも近く、人通りの多いところ。

橋を渡ると上り坂にかかり、坂の上、こんもりとした木立の間に「元富士塚(目黒元富士跡)」。江戸時代の富士山信仰によりつくられた高さ12mの「ミニ富士山」があったところだったとの解説があった。

富士塚へ上がる道、目切り坂と呼ばれるらしい

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富士塚からすぐに旧山手通り代官山交番前交差点に出る。このあたりから渋谷区、一回旧山手通りに沿ってちょっと行くと猿楽塚という古代の墳墓、6~7世紀の円墳が2基ある。街道はその間を通っていたということで、そこから出てきたあたりまで行って右に折れ、旧道といわれるところに入る。
反対側の歩道を歩いていたり、ちょうど映画?のロケをしていて人がごった返していたりで、猿楽塚への入口が確認できずそちらへは寄れなかった。

また細い道を勝手にあちこち折れ曲がりながらジグザグに行くと山手線を越える陸橋の上に出る。昔は陸橋などなく道は下を通っていたはずだが。

山手線を越える陸橋・猿楽橋手前から

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ここからはずっと山手線の内側を歩く。正直に言えばこんなところに鎌倉街道が通っていたなんて想像したこともなかった。

陸橋をわたると坂を下り気味に渋谷川を渡る。
木橋から渋谷駅方向

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川にかかる並木橋よりもよっぽどでかい明治通りとの並木橋交差点を直進すると坂をあがる途中に
金王八幡神社一の鳥居から

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境内の解説抜粋

金王八幡宮は、寛治六年(皇紀1752年、西暦1092年)渋谷氏の祖河崎高家により鎮祭され、高家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願をしたところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神様として数多の崇敬を集めております。

渋谷二丁目交差点で六本木通りを越え、青山学院脇を通って青山通りに出る。猿楽塚付近からここまでは旧道の道筋に合っているようだが、この先の道は国連大学のなかを通って行くらしく一時消滅。

青山通り国連大学

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ここを右折して青山通り、その先南青山五丁目交差点手前の細道へ左折する。

途中で右折して表参道方向へ

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この通りは国連大学をぬけてきた旧道になるらしい。

北青山から神宮前へ。
表参道を横切って原二本通りと書かれた通りへ

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さらにぬけてキラー通り外苑西通り)も横切ると青山熊野神社の横を通る。その先の街路灯に「旧鎌倉街道」の文字、次の街路灯には「勢揃坂」とあった。

渋谷区神宮前2丁目、勢揃坂にて

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上道を歩いていた時にも所沢市内で勢揃橋というのがあった。資料によると勢揃いとは現代で言う「閲兵式」のことだそうで、多数の軍勢を集めた場所だったのだろう。
なお、前方のクレーン群は新国立競技場建設中也。

勢揃坂途中に龍巌寺

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寛永7(1630)年創建というお寺。すぐ近所には慈光寺もある。熊野神社も含め、このせまい範囲にお寺、神社がいくつもある。

坂を下ると途中で霞ヶ丘アパートの跡地(2020年東京オリンピックのための工事ですでに団地建物は解体されてしまっていた。)にぶつかって道は途切れているのか、単に昔からそこで左折しているのか。
左折して再びキラー通りを渡り、反対側へ出るとそこにも瑞円寺、鳩森八幡神社などがある。

鳩森八幡神社手前から

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社殿

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神社HPによれば

貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮宇佐八幡宮遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。

ということでかなり古い神社。現在の境内には富士山信仰の富士塚、将棋堂などといったものもある。

また神社前の道は鎌倉街道で、この先大窪(大久保)へ通じていたといわれている。ところがその道筋は現在の新宿御苑のなかを通り抜けていると推定され、そこには街道の痕跡はないとされている。新宿御苑のある場所は江戸時代にはすでに屋敷があったので、その時には街道は潰されて存在しなかったことになる。御苑は何かの機会にゆっくり訪れることにし、東京体育館前から外苑西通りを通って四谷四丁目交差点へ出てから街道の復活する新宿一丁目へ迂回した。

迂回中・四谷四丁目交差点から

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街道へ戻って、靖国通りと交差する新宿一丁目北交差点

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新宿1丁目から抜弁天通りの先までは旧道の道筋だそうだ。
向こう奥へは靖国通り九段、市ヶ谷方面、鎌倉街道(このへんでは現在そのように呼ばれていないと思うが)は右から左へ交差している方。現代の道幅はかなり拡張されているが、この先新宿6丁目、7丁目などへ行くにしたがって細くなっていく。
交差点歩道にある石柱には新宿2丁目15番の表示、上面には内藤新宿散歩の案内地図など。

新宿6丁目、昔は東大久保と呼ばれた地区に入ると神社寺院の密集した地域を通る。新宿中学校(ここも以前の名称は大久保中学校だった)先の坂を下りると上に西向天神がある。

西向天神

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千駄ヶ谷の鳩森八幡と同じようにここにも富士山信仰(富士講)の富士塚がある。

先へすすむと、街道旧道は抜弁天通り(ぬきべんてんどおり:靖国通りの支道になる道路)の下をくぐるようになっていて、ぬけたところで突き当たって旧道はまた消滅している。推定ではそのまま北へ向かって、戸山ハイツアパート、学習院女子の構内などを通っていたようだ。こちらも今ある細道を北へ歩いて行くと大久保通りにさしかかる。

細道から大久保通りへ上がっていく

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壁の上が大久保通り、道路をつくるときに盛り土したのだろう。

向こう側は戸山ハイツという都営団地で、なかほどは広い公園と緑道になっているのでそこを歩いて行く。
プロムナードの入口あたり

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団地と公園をぬけて坂を下りていくと諏訪通りに出て左折、学習院女子大の建物が並ぶあたりで右折して細い道にはいるとそこがまた旧道とのこと。ここの右折はちょっと道が見極めにくい。この先は鬼子母神近くまで道筋が残っているらしい。

途中、早稲田通りを突っ切り西早稲田、その先に2つの山門を持つ亮朝院がある。
亮朝院鐘楼門

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本堂前のこの門は袴腰鐘楼門という。たしかに袴をはいたような形にみえる。

隣りにある七面堂前には赤い山門

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奥にあるのが七面堂、その前に一対の仁王像の一方だけ見えている(はず)。

すぐ先で都電の通る新目白通り面影橋に出る。都電面影橋停留所の先は神田川で、そこにかかる橋が面影橋だ。
面影橋

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近くにあった解説を抜粋すると、「目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。」また、俤橋とも書かれたそうだ。

そのすぐ近くには
山吹の里の碑

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碑の解説には、このあたり一帯は山吹の里と言われていたこと、太田道灌が鷹狩りで雨にあい農家の娘に蓑を借りようとして山吹を一枝差し出された故事の件、この碑が貞享3(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることなどが書かれていた。

神田川を渡り、高田(豊島区)、この先雑司が谷に向かって宿坂という坂を登っていく。途中街道脇にはまた神社、寺院がいくつかある。

坂下には高田氷川神社があって、反対側に南蔵院
南蔵院門前

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坂を上がりはじめて途中に
金乗院

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太平洋戦争の戦災でかつての目白不動堂が焼失した後は目白不動明王像を移し、目白不動尊ともなっている。南蔵院金乗院とも境内には多くの石造物、著名人の墓などがある。

門前付近の街道には中世の頃、宿坂の関という関所が設けられていたとの伝承もある。
現代の宿坂

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坂を上り切ると目白通り高田一丁目交差点に出て、その向こうは鬼子母神表参道となる。

再び都電に交差、鬼子母神前電停をこえて
参道の途中から

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鬼子母神前

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鬼子母神は有名なお寺なのでそちらへのリンクを

www.kishimojin.jp

鬼子母神前の道は正確には街道の道筋ではないので少し戻る、とはいえまたこのあたりからは旧道は消滅しているらしい。

旧道近くの道路を行くと南池袋、住宅街を行くと豊島区役所の横へ出た。
モザイク模様?の区役所

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少し先は東池袋の交差点

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正面にサンシャイン60を望むところで今回は離脱。左方の池袋駅へ向かった。

鎌倉街道中道、鎌倉から二子の渡しまでの記録はこちら。

鎌倉街道を歩く 中道その2 鶴ヶ峰から二子の渡し

鎌倉街道中道(なかつみち)、今回の行程はざっと以下のとおり。

鶴ヶ峰→白根→中山→川和→荏田→溝口→二子の渡し

現在の横浜市中部から北部、川崎市域の真ん中あたりを横断して多摩川に至るところまでとなる。荏田付近からの道筋は矢倉沢往還や大山道と呼ばれる道筋をそのままたどることになっている。矢倉沢往還奈良時代には存在していた往時の東海道ということで、ここは鎌倉街道との「共用区間」としておく。
また、鎌倉街道中道は鶴ヶ峰から長津田、町田方面へぬけて上道と合流していたという道筋を示す説もある。
いずれにしても鎌倉街道は複数並行的にたくさんの道筋が提唱されているので、真の街道はどれかなどということは深く考えずに行くことにしている。

今回歩いた行程

前回鎌倉から鶴ヶ峰に至るノートはこちら

スタート地点へのアプローチは相鉄線鶴ヶ峰駅

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駅から5分ほどで前回離脱点、幼稚園脇の踏切に。このまえは踏切を渡ってきたので、今回は背にして旭区役所方向へすすむ。

このあたり、鎌倉時代の武将畠山重忠が討死した場所で、いくつかの史跡が点在する。
首洗い井戸、鎧の渡し

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正確にはこの場所ではないが、回収してきてここへ立て直しました的。後ろは旭区役所の建物。
横の解説板から

首洗い井戸
畠山重忠公は鎌倉時代の智・仁・勇を備えた武将でした。しかし、幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、鎌倉に至急参上せよという北条時政からの命に接して鶴ヶ峰にさしかかったところ、北条勢の大軍に待ちぶせされました。熱戦を繰り広げましたが、弓の名手愛甲三郎季隆(すえたか)の放った矢に当たり、四十二才の生涯をこの地に閉じました。元久二年(千二〇五年)六月二十二日のことです。
ここには重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。以前は帷子川の河原に直径1メートル程の穴があり、水が湧いていたといいますが、川の流れが変わって失われてしまいました。
平成二十二年二月吉日設置
旭区誕生40周年記念事業実行委員会

鎧の渡しは帷子川(かたびらがわ)の渡し舟。渡し舟があったあたり、のちに鎧橋という橋がかけられたが、この橋も川の流路変更があって、現在は跡だけが残っている。

首塚

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脇の解説から

首塚
畠山重忠公は鎌倉時代の武将で 源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。
ここは、重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたそうです。
平成二十二年二月吉日設置
旭区誕生40周年記念事業実行委員会
旭区観光協会

畠山重忠公碑など

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草ぼうぼうで碑には近づけなかった。柱には、吾妻鏡鶴ヶ峰・二俣川合戦の地、その横に吾妻鏡畠山重忠公終焉の地の文字。

ところで、畠山重忠の本拠は武蔵菅谷館で、現在の埼玉県比企郡嵐山町にある。嵐山町を通る鎌倉街道は上道で、そこからずっと鎌倉に向かうと、この付近では町田から瀬谷、飯田といった、もっと西側を通るはずなのだが、鶴ヶ峰という中道を通っていてここで戦さになっている。(相手もそれを知っていて待ち構えていたわけだ)
どこかで上道から中道に乗り換えていたことになるのだが、先にちょっとふれた、町田-長津田-鶴ヶ峰のルートがポピュラーなものだったのか、それとも?といったところ。地図好きとしてはそんなところが気になった。

元へもどって、このほかにもいくつか史跡があるけど先へすすむ。

現在の帷子川

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鶴峰橋から下流側。

橋を渡り、国道16号八王子街道)をこえて、白根通りという道路を進む。
途中に白根公園があり、中に源義家、頼朝にちなむといわれる白根不動、白根神社がある。

その先、横浜銀行の支店があるところで白根通りから右に折れ、細い道に入り、しばらくゆるい坂をあがる。途中から旭台という最近造成された大規模な住宅地のなかを通る。
旭台住宅地の近くで(旭区中白根3丁目)

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拡張されているが旧道の道筋だという。前方カーブミラーの先はもっと道幅がせまい。

この後、道は尾根筋に出てからゆっくりと長い下り坂になり、中原街道(こちらも古い道)と交差したあと、坂を下り切ったところで別の県道にぶつかる。そのあたり中山。

県道の向こうに長泉寺

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県道とお寺を越えると、もう少し旧道が続き、JR横浜線踏切をこえて少し先で消えてしまう。
横浜線中山第二踏切

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線路左のほうへ行くと中山駅が近い。

古い道が消えてしまうのは、ここでは川のせいもあるだろう。恩田川、鶴見川という2つの川が近くを流れ、昔はすぐに氾濫して安定した道をつくるのはむずかしかったはずだ。そのほかに現在ここでは広い企業の敷地を横切っているので消滅したというのもあるが。

恩田川を近くの県道の橋で渡り、反対側へ。
振り返って、恩田川の堤防と京セラの建物

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だいたいこのあたりが旧道の延長上にあたる場所。

もう少し先へ行ったところで(緑区青砥町)

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左は供養塔とあり、享保三(1718)年、水難などの文字があった。大規模な水害があったのだろうと想像する。

再び県道で鶴見川を渡る。
精進橋手前で

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県道隣りのトラス橋は横浜市営地下鉄グリーンライン

橋を渡って県道からそれると横浜市緑区から都筑区へ、川和(かわわ)という場所にさしかかる。川和は江戸時代に入ってから日野往還(八王子往還とも)の宿場があったところ(鎌倉街道の宿場ではなかったようだ)で、以後、昭和初期にかけては都筑郡(現在の横浜市北部一帯)の中心地で郡役所をはじめ、警察署、消防署、郵便局、法務局など行政施設のほとんどがここにあった。その後川和が横浜市の一部となってからそれらの施設はみんな分散してのどかなところになっている。

細いまっすぐな道路をしばらく歩くが、古い道かもといった雰囲気がある。しばらく先でこの道は横浜上麻生道路(昔の日野往還)に合流する。
合流した道路の脇に庚申塔など

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鎌倉街道はすぐにまた分かれて、北東方向へ丘陵をあがっていく道があったようだが、この先は港北ニュータウンの大規模な造成地に入っていき、あまり道筋ははっきりしていない。

住宅地のなか、横浜市都筑区青葉区の境界に沿って丘陵を上がっていくとひとつの尾根筋に達する。

尾根から、荏田高校グラウンドと港北ニュータウンの中央方面

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この先、尾根部分を切り崩して通る4車線道路の上を池尻橋という橋で渡り、青葉区荏田町の丘陵のうえをしばらく進む。

丘陵の先端まできて結構急な下り坂をおりる。下りきるちょっと手前に真福寺という寺院がある。
真福寺

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正直小さくひっそりと目立たない感じのお寺だが、ここには国重要文化財の釈迦如来立像、県重要文化財の千手観音立像があるそうだ。滅多に見ることはできないようだが。

真福寺の近くで大山道と合流する。
大山道荏田宿付近

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車の通っている道路に沿って大山道の宿場があった。鎌倉街道の宿駅でもあったようだ。大山道は手前右側から来て向こうへ向かうと大山方面。鎌倉街道は(この地点で合流していたかは不明だが)右手前から左側へ横切って行くと鎌倉方面。大山道は古くは矢倉沢往還ともいわれ、こちらも古い街道。

ここから二子へ向かって(その先もしばらく)は、大山道と重複したところを歩くことになる。2街道一挙に歩けてお得な区間である。

大山道と合流してすぐに庚申塔のある祠(下宿庚申塔)を過ぎ、早渕川を鍛冶橋で渡ると、少し先の道端に細々とした湧水がある。
霊泉の滝

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昔はどうか知らないが、現在は竹筒の先からしたたり落ちる滝。崖になっている岩の間からも水は浸み出しているようだ。崖上には老馬鍛冶山不動尊という小さな祠が存在する。

脇の看板に「誠に霊験あらたかです」とある滝の先からは上り坂が続く。
上り坂にかかりはじめた付近、霊泉の滝方向を振り返って

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上を横切っているのは横浜市営地下鉄ブルーラインの高架。

途中「血洗坂」という物騒な名前のついたところを通り、一挙に尾根にまであがると

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近くの造園、植木を手掛ける会社の「商品」が立ち並んでいる。手入れは行き届いているけれど日本庭園のような見せる感覚で植えられているわけではなく、ただカタログ的なのが面白かったりする。

横浜市都筑区から川崎市宮前区へ、その先はすぐにまた住宅地に入る。谷間を流れる小さな有馬川を渡るために尾根から下り、すぐにまた上り返すと国道246号、鷺沼1丁目交差点を渡り、東急鷺沼駅近くまで来て右にカーブしてから左に分岐する道へ。次にまた、谷間を流れる矢上川を渡るために丘陵から下り、川、尻手黒川道路、東急田園都市線と交差して向こう側へ。

宮前平ガード下交差点近く

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信号を渡ったところで右折するとすぐに宮前平駅で、その正面の崖中ほどに八幡神社があって、その前の大山道(鎌倉街道)は「八幡坂(はちまんざか)」というようだ。
八幡坂、下から

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坂を上がり、昭和の後期に造成された丘陵の住宅地をずーっと歩いて行く。

川崎市宮前区から高津区に入り、梶ヶ谷交差点で再び国道246号を渡る。渡った先の大山道の舗装が少し違うのに気付いた。
(旧)大山道、高津区下作延2丁目、末長1丁目境界

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タイルのかけらのようなのがモザイクのように埋め込まれている。また、このあたりからはわりと古くから住宅があったと思わせる風景に変わってくる。

地蔵堂などがあり、その先で下り坂。ここはもう、先を流れる多摩川が大昔に削ってつくった崖で、これを下りるとすぐに溝の口である。
溝口へ向かう下り坂にかかる

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下りきると東急田園都市線溝の口駅南口前の県道交差点に出る。
高津区役所東側交差点

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左向こうへ進むとJR南武線踏切などを越えて、その先は江戸時代に大山道溝口宿があったところに入る。

宗隆寺参道から

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溝口神社鳥居

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大石橋跡と二ヶ領用水

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その先、高津交差点で府中街道(国道409号)を渡り、

タナカヤ呉服店建物

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かつては街道沿いにこのような建物が立ち並んでいたんだろうけれど、いまや貴重な生き残りのようになってしまっている。

光明寺門前

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もう少し行って左に入ると二子神社の参道だが、そちらへは行かず道なりに右に折れて二子橋のたもとに出る。昔の街道は右には折れずにまっすぐ多摩川の河原にすすんで、その先が二子の渡し場だったと想像する。

二子橋交差点から二子橋を望む

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二子橋を渡って東急線二子玉川駅前に出てこの日はおしまい。
二子玉川駅入口

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二子の渡しを渡ったところで鎌倉街道は二手に分かれていた、というのが資料を参考にさせていただいている北倉庄一氏の考えで、氏は鎌倉街道中道について東京都内で2つルートを提唱している。一種、網の目のように張り巡らされた形の鎌倉街道ではあるが、研究者をしてひとつに決められなかった街道筋、さてどちらを歩くとするか迷うところ。

鎌倉街道を歩く 中道その1 鎌倉から鶴ヶ峰

これまで、上道(かみつみち)と言われる道筋を歩いて鎌倉から狭山まで到達した。そちらはいったん句読点。鎌倉へ舞い戻り、中道(なかつみち、なかのみち)と呼ばれる街道を歩き始めることにする。

中道についてもその経路はあれこれたくさん存在していてはっきりしないのだけれど、上道でも参考にさせていただいた、北倉庄一氏の研究により繋ぎ合わされたルートを参考に、現代の道路を辿ってみることにする。
中道の簡単なルートを参照させていただく。

鎌倉→小袋谷→小菅ヶ谷→舞岡→柏尾→名瀬→鶴ヶ峰→白根→中山→川和→荏田溝の口→二子渡し(ここで二手に分かれる)

【ルートA】二子渡し→上野毛→渋谷→青山→千駄ヶ谷→宿坂→雑司が谷滝野川→赤羽→岩渕
【ルートB】二子渡し→弦巻→羽根木→中野→板橋仲町→蓮沼→赤羽→岩渕

岩渕より 岩渕→川口→鳩ケ谷→岩槻→和戸→幸手→栗橋→古河→野木→小山…(下野、陸奥方面)

今回、中道その1は鎌倉、鶴岡八幡宮三の鳥居前から鎌倉時代の古戦場のひとつであった鶴ヶ峰までを歩く。
中道その1行程

まずはアプローチ、JR鎌倉駅

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あっという間に三の鳥居前

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前回、上道を歩き始めた日も曇り、今日も曇り。

中道の場合は鳥居をくぐって八幡宮境内にはいる。

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本殿前の階段、左は大銀杏のあったところ

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本殿の階段は上がらず、舞殿と大銀杏のあった間から脇にぬける細道を通って外に出る。
細道

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外に出るとバス通りの県道で、その向こうへ行く道がある。その道に入ると巨福呂坂切通しにつながっていて、昔はそちらがメインストリートだったのだが、現在は切通しのところで行き止まりになって通り抜けられない。仕方ないので県道を通って建長寺、北鎌倉方面を目指す。

現代の道路は巨福呂坂洞門で向こう側へ抜ける。
巨福呂坂洞門

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現代の切通をぬけるとすぐに建長寺
建長寺門前

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建長寺に入ってずっと奥へ進んでいくと山の上に半僧坊、勝上献といったところがあり、ハイキングコースが通っているが、かつて、巨福呂坂切通が開かれる前はこのハイキングコースが鎌倉へ向かう街道だったという説もあるそうだ。

本日は建長寺前を素通り、横須賀線踏切をこえて北鎌倉へ。

東慶寺前へ

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いわゆる縁切寺として有名だったお寺だけれど、現在は松岡山東慶総持禅寺ということで禅寺、近年の学者や作家の墓が多いことでも有名と門前の解説にあった。

円覚寺への参道

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ほどなく北鎌倉駅を過ぎると観光客、修学旅行生の姿はなくなり、小袋谷交差点まで県道を来る。
その次のY字路、水堰橋(すいせきばし)の手前で県道からそれて旧道に入る。

橋のたもとに古い道標

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「右とつか」「左藤さわ」道と刻まれているらしいが、判読できない。左面には「享保十二年」(1727年)とあり、この部分は読めた。

中道の旧道は水堰橋を渡らないが、渡って行くほうは上道の古い道筋であるという説もあり、藤沢方面へ向かって上道に合流する格好になっているようだ。
乱暴なようだが、多くの歴史学者によってこのあたり一帯、鎌倉へ通行可能な古い道は何でも鎌倉街道と名付けてしまったような気もしないでもない。

中道旧道を進むとすぐに横須賀線踏切をわたり、その線路すぐそばに成福寺(じょうふくじ)。
成福寺、茅葺の山門

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創建は貞永元(1232)年、鎌倉で唯一の浄土真宗寺院である。

まっすぐな道を歩いて行くと
離山富士見地蔵尊

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最近たてられたらしい石碑には旧鎌倉街道中ノ道の文字、肝心のお地蔵様が写ってないな。旧道は左側の細い道。

旧道を道なりに進んでいくと大船に出て、企業の敷地、かつては工場があったところで道は一時的に消えてしまう。ちょうど鎌倉市から横浜市への境界付近。横を通るバス通りの市道(?)を少し行くと、その道がまた旧道の道筋をたどるようになる。

笠間中央公園の下あたりで

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このような庚申塔、石仏などを見かけると古い道を歩いているという実感が湧いてくるが、この先はあまり歴史的な遺物は見当たらなくなっていく。

その先、法安寺の門前を通過して笠間交差点にさしかかる。

笠間交差点、陸橋のうえから

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ここは3本の道路が交差しているが、一点で交差して六差路になるのではなく、少しずれているので直角に交わらない十字路が3つ近接してあり、まん中に三角形のデッドスペースができている。写真真下がそのデッドスペース。

鎌倉街道をこの交差点を越えてすぐ、いたち川を渡り右に折れる。ここにも石の道標がぽつんと置かれていた。分岐するどちらの道も古い道ということだろう。横浜市栄区のHPでは右に折れないほうを中の道と言っていた。

右折してJR根岸線の高架下をくぐると細い坂道が分岐していてそこを上がる。
坂道をふりかえって

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しばらくするとこの細い道は最近造成された住宅地のなかに入っていき、古い道路は見失われる。住宅地のなかを歩くが上り坂傾向はずっと続く。

時々交差する新しい道路は切通しになって下を通って行く。
横浜環状3号線の道筋

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尾根上の道路橋から撮影したもの。

さらに坂を上がり、丘陵の尾根筋に出る。

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このへんでGPSを見ると標高は75mを示していた。ちょうどこの尾根が横浜市栄区と戸塚区の境界にもなっている。

その先でまた尾根を切り崩してつくられた道路のうえを橋で渡る。

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道路をつくるときに切り崩された場所にあって移設されたという庚申塔がひとつぽつんとあり、そこを過ぎると舞岡公園のなかへ道は入っていく。

舞岡公園は大きな公園だが、街道の道筋はそこをかすめてすぐに日限山(ひぎりやま)の新しい住宅地に入る。
舞岡公園入口の木柱と向こうは日限山、南舞岡の住宅地

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また新しい住宅地に入り、また旧道は消滅する。

舞岡公園の先からは横浜市戸塚区と港南区の境界に沿ってずいぶんの距離を進んでいく。私事だが、この境界は横浜市の内周を歩くという散歩をしたときに延々と歩いたところで、再び同じ道筋をトレースすることになった。

この区境は住宅地造成で地形まで変わってしまったところもあるが、基本的にずっと丘陵の尾根筋をたどっていく。

港南区下永谷市民の森付近

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戸塚区柏尾町付近

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このあたりの街道の道筋はあまりはっきりせず、ここの森の中の細い道が旧道そのものなのかはわからないらしい。

この先で一般道に出ると坂を下っていき、国道1号東海道線、柏尾川の並行している場所へ出る。

線路は歩道橋でこえる

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向こうは自動車用の陸橋。

柏尾川もこえると秋葉町、川上町という、また最近になってから開発された住宅地のなかを通って行きつつ、また丘陵の上へと登っていく。

新戸塚病院近く

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この付近を街道旧道が通っていたとのことで、正面の階段を上がっていくのだが、その先はゴルフ場の敷地になっていて道は中を通過していて消えてしまっている。旧道跡が復活するところまで数kmを一般道で迂回する。

川上川の上流部

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川は街道とは特に関連ないんだけど。

ゴルフ場を迂回中

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前方の標識には「旭区」、ここで横浜市戸塚区から旭区に入る。ちなみにその左側はゴルフ場クラブハウスへのアプローチ。

区境をこえるとすぐのところに
都塚(みやこづか)標柱

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右側には石の小さな道標、南鎌倉道、西相武堺道、北二俣川村道と刻まれている。このあたりから街道が復活している。

塚の上へあがると小さな祠

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街道が復活といってもここまで迂回に使ってきた道路がそのまま延びているだけなので復活した実感はないが、もうしばらく行くとまた石の道標が立っていた。
鎌倉道、西大山道

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横の解説板には

鎌倉道と大山道の分れ道
昭和五三年(一九七八年)までこの場所は三叉路でした。この道を、東に行けば今井街道を経て旧東海道保土ヶ谷宿に通じており南に行けば今の戸塚カントリークラブの中を通り抜けて、鎌倉まで通じる道(鎌倉中の道)で、昭和三七年(一九六二年)に戸塚カントリークラブが出来ましたが、道路沿いに都(子)塚があり今でも昔の面影を残しています。また、西に向かえば大池、長昌寺、現在の東希望ヶ丘小学校を経て、大山の阿夫利(雨降)神社に通ずる大山道への分岐点でした。

この道標の分岐を右に折れるとずっと細い道が続き、そちらはなんとなく旧道の雰囲気がある。
こんな切通しっぽいところも

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丘陵の尾根へ出ると現代の道路が下を削って切通し道路となり、尾根上の旧道には道路をまたぐ橋ができる。
下は保土ヶ谷バイパス

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この先で東海道新幹線も横切るが、そこも新幹線が切通しになって上の陸橋を渡る。
新幹線線路をまたぐ

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もうしばらく細い道を歩いて行く(旭区鶴ヶ峰1丁目付近)

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相鉄線線路際に出てくる。

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線路を踏切で渡るとその向こう側には鎌倉時代の武将畠山重忠に関するあれこれがあるが、そこに立ち寄るのは次回にして本日はここ鶴ヶ峰の線路際までとする。
相鉄線鶴ヶ峰駅までは歩いて5分くらい。

鎌倉街道を歩く 上道その5 国分寺から狭山

鎌倉街道上道(かみつみち)、その5は、国分寺(西国分寺)から狭山へ。

前回こちらの続き

今回の行程

「その4」を歩いてから出直して、スタートはJR西国分寺駅から。
JR西国分寺駅南口

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武蔵野線ホーム下をくぐりぬけて府中街道に出て左折、北へ。

といっても中央線を渡った先ですぐに府中街道を右に折れ、すぐ横にある鎌倉街道旧道を通り越して「姿見の池」へ寄り道。

姿見の池

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鎌倉武士であった畠山重忠と恋ヶ窪宿の遊女夙妻太夫(あさずまだゆう)との恋ヶ窪伝説なども残っている池。

www.city.kokubunji.tokyo.jpかつては付近の湧水がこの池をつくっていた。地形的な凸凹を見ると野川の源流のひとつと推定できるが、昭和40年代に池はいちど埋め立てられ、平成にはいってから恋ヶ窪用水の水を使って復元されている。現在湧水は枯れてしまっているらしい。

池の東側には古代の道路である東山道武蔵路の跡が発見され、発掘調査も行われている。

東山道武蔵路跡の解説(一部)

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鎌倉街道の道筋と完全には一致していないようだが、鎌倉街道、現在の府中街道に至るまで、この付近では東山道武蔵路の道筋が引き継がれていると思われる。

姿見の池に流れ込む、恋ヶ窪用水(再現したもの)

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恋ヶ窪用水の解説板

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鎌倉街道へと戻る、大した距離じゃないけど。

北へ向けて歩きだすとすぐ、夙妻太夫の墓が残る東福寺、恋ヶ窪熊野神社が街道左右に続く。

恋ヶ窪熊野神社

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「当社は旧鎌倉街道とされる道路に西面し、社伝では新田義貞の兵火で焼失して応永(1394~1427)年間に社殿再建、天正18(1590)年兵火により再度焼失し、慶長2(1597)年に社殿が再建再勧請され…」と由緒にあった。

このあたり一帯「恋ヶ窪」というところ、ちょっと変わった名前ではある。昔は恋ヶ窪村という村や、鎌倉街道の恋ヶ窪宿があったということで結構古い地名だ。由来は先の「恋ヶ窪伝説」からともいわれるが、所詮はっきりしないらしい。

熊野神社の先では恋ヶ窪用水の流れに沿って少しすすむとすぐに西武国分寺線の線路にぶつかる。
正面の道路が旧道だが、渡れない

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府中街道(都道17号)に出て踏切を渡ると、旧道もすぐに合流する。この先府中街道をすすむ。

府中街道恋ヶ窪交差点

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このへんでまた鎌倉街道旧道は消滅しているらしい。

上水本町交差点まで府中街道を行き、右折して五日市街道を少し歩いてからまた左折する。国分寺市を出て小平市に入る。

途中を横断している砂川用水

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その先で玉川上水とぶつかる。そこにかかっている橋は
鎌倉橋

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鎌倉橋のうえから玉川上水

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玉川上水を渡るとまっすぐな道路をずんずんと北へ進む。

道路途中に「鎌倉街道」の標識

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標識の矢印は鎌倉の方向を指していた。

調子よく進むが、工場の敷地にぶつかって街道は消えてしまう。
ブリジストン工場手前で

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旧街道は工場の敷地のなかを通っているらしく、こちらは府中街道に出て迂回する。

西武拝島線高架下を通り、八坂交差点へ。
九道の辻と下は野火止用水

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八坂交差点は別名九道の辻(くどうのつじ)と呼ばれ、かつては9つの道が交差する9差路になっていたそうで、現在も7本の道が通っている。ちなみに九道は、江戸街道、引股道(ひきまたどう)、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道大山街道鎌倉街道だそうだが、そうだとするとこの辻ですべての道が名前を変えることになってしまう。別資料から勝手に持ってきた説明によれば、南北に鎌倉道ー奥州道、東西に江戸道ー秩父道、野火止用水に沿って中神へ向う大山道ー清戸・引股道、西北の宮寺・飯能へ向う道。東南・西南へ向う野道を御窪道(字窪への道)と呼んだそうだ。

この交差点で鎌倉街道は復活しているが、それに沿っている現代の府中街道を進む。この交差点からは東村山市に入る。

西武多摩湖線八坂駅下をくぐり、北へ進むと
八坂神社

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境内石碑による由緒

祭神は素盞嗚命牛頭天王)である。
創立は別当正福寺の火災で記録が焼失し詳らかでないが正福寺の建立された弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃と考えられる。
宝暦4年11月の野口村柄様子銘細書上帳に「村内鎮守牛頭天王 別当正福寺 五反七畝弐十弐歩御除地」とあり、また明治三年十一月の神社書上帳には「社号 往古より天王宮と唱え来候処 明治二年奉願上八坂大神と改替仕候」とあって、同年八坂神社と改め村社に列せられる。(以下略)

神社の北側で空堀川を野口橋で渡り、新青梅街道西武新宿線踏切を越える。
野口橋と空堀川

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府中街道をさらに進むと東村山駅東口を過ぎて少し先のところで左に分かれる細い道がある。こちらが鎌倉街道旧道。
府中街道鎌倉街道旧道の分かれる地点(東村山市本町2丁目)

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左に入ってすぐのところで「旧蹟鎌倉古道跡」

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この道を歩くとほかにも鎌倉古街道の解説板や標柱がある。この区間は車も少なくて静かだ。

そのうち西武新宿線線路が左から寄ってきて並行する。途中で踏切をわたって右折し、少し広くなった道路を先へ進む。面影はまったくないのだが、そのあたりが久米川宿という宿場であったらしい。また周囲一帯はかつての久米川古戦場である。

久米川の戦い
鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月12日に、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
前日の小手指原の戦いで敗れた幕府軍が久米川(現柳瀬川)で新田軍の進軍を食い止めるため迎えうったものだが、このときには幕府軍には勢いはなく、戦いは新田軍優勢にすすみ、幕府軍分倍河原府中市)まで撤退することになった。

久米川宿といわれるところをすすんでいくと柳瀬川(かつての久米川)に出る。
二瀬橋上から

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ここが東京、埼玉の都県境。2つの川の合流点でもあって、前方からこちらに柳瀬川、左から前川で、合流して右に流れて柳瀬川。

埼玉県所沢市に入り、住宅地のなかを歩いて行く。途中、専門学校のある手前三叉路で左折するところを次の交差点まで行ってしまい、そこを左折して勢揃橋北の交差点まで行く。

遠く勢揃橋(せいぞろいばし)を望む

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向こうに車がいるあたりが橋。道を間違えたせいで橋の間近を通っていない。
ごく普通の橋だが、名前は新田義貞が鎌倉攻めの時に自軍をこのあたりで勢揃いさせたことにちなんでいるとのこと。本当かどうかよくわからないけど。

勢揃橋北交差点近くに長久寺という寺院がある。
長久寺

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門に「時宗」とあり、神奈川県藤沢市清浄光寺遊行寺)の末寺。鎌倉幕府滅亡前後に開山したとのことで、この付近が戦場となったときの犠牲者供養などで開かれたお寺なのかもしれない。

長久寺正面左手が緩い坂道になっていて、そこが鎌倉街道旧道。上っていくと西武池袋線線路で分断されているものの、その先にかけてほぼ直線の道がずっと続いている。

所沢市元町と星の宮1丁目境界の鎌倉街道旧道

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この先ももう少し旧道がつづき、途中に所沢市によって立てられた鎌倉街道の案内板があった。

そして小金井街道を渡る手前に
実蔵院

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号は野老山(ところさん)、解説によれば「宥圓(元和2年1616年寂)が開山したといいます」。古くは「野老沢」と書いて「ところざわ」と読んでいた。

小金井街道の先にはまた新光寺という寺院がある。山門は竜宮門で門前には旧鎌倉街道の標柱も立っているのだけれど、あいにく門前が道路工事中で何も記録できなかった。

新光寺の先で旧道は現在の埼玉県道6号(川越所沢線)に吸収されてしまう。ここから道はずっと一直線だが、6号、50号、227号と県道歩きが続き、歩道のない区間もあっておもしろくない。
川越所沢線に出てすぐ坂道となり、上がると峰の坂交差点。

峰の坂交差点手前の緩い坂道

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(緩い坂道を坂道にみえる写真を撮るのは難しい:ひとりごと)

ずっと進んで
新所沢駅近くの県道

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ごく普通の一般道なのだけど、旧鎌倉街道なのだと主張は忘れない。

その先、県道と西武新宿線線路がほぼ並行し、途中踏切でクロス。線路がなかったころの街道はこんなに急なS字カーブは描いてなかったはずではある。
線路を渡る県道

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このあたりまでくると畑が広がり、のどかな風景になってくる。
県道脇から畑と雑木林

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所沢市から狭山市に入るあたり。

狭山に入ると名産のお茶の畑も目立つ。
道路の向こうは茶畑

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交差する通りは「茶つみ通り」

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その先に入間野神社

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鳥居前にあった解説から

入間野神社(いるまのじんじゃ) 所在地 狭山市大字南入曽六四一
入間野神社の主祭神大山祇命(おおやまづみのみこと)と木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、合祀神として天照大神(あまてらすおおみかみ)ほか六神を祀っている。
社伝によると、当社は建久二年(一一九一)の創建と伝えられ、石造の御神体には天正六年(一五七八)の年号が刻まれている。旧号を国井神社、後に御岳大権現と称し、社領として慶安二年(一六四九)に十石の御朱印を賜っている。
明治元年の社号改正につき、御岳神社と改称したが、明治四四年に大字水野にあった浅間神社を合祀し、現在の名称となった。大祭は毎年四月十五日、十月十五日、十一月二十三日に行われるが、特に十月十五日には県指定文化財の「入曽の獅子舞」が奉納される。当社には宝暦八年(一七五八)の獅子舞の絵馬があるので、それ以前から伝承されているものと思われる。
昭和六十年三月 埼玉県 狭山市

神社脇には埼玉県内の鎌倉街道の地図や見どころを書いた大きな案内板もたっていた。

入間野神社の向こうはすぐ不老川が流れ、橋を渡るとその隣りに七曲井がある。
七曲井

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解説

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「まいまいず井戸」などとも言われるこのような井戸は武蔵野台地上ではまだところどころに残っている。

ここを過ぎてさらに県道となっている鎌倉街道をひたすら直進すると狭山の街中にはいっていく。狭山市駅近くで県道が右に曲がっていくところには白山神社がある。

白山神社

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この神社の後ろ側はすぐに西武新宿線狭山市駅で、鎌倉街道旧道はここで駅の反対側へ出て、近くを流れる入間川を渡っていたようだ。

狭山市駅周辺は街道上の見どころとしてはあまりないようだが、今日は20km以上も歩いてきたし、この先街道は鉄道と離れ、行き来が面倒になっていくので本日はここまでとした。でも入間川まで行けばよかったかもと後から思った。

狭山市駅入口

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上道その1からその3はこちらから

miwa3k.hatenablog.jp