散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

城ヶ島と三崎を歩く

神奈川県、三浦半島の先端、城ヶ島と三崎の周辺を歩いてきた。

京急線の終点、三崎口駅から、まず城ヶ島へ向かう。
三崎口駅前バス停から

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駅付近の標高が40m、そこからだらだらと登り坂が続き、一番高い引橋交差点付近では80mまで上がる。
交差点先の両脇は深い谷になって、そこには昔「引橋」という橋がかけられていた。

引橋付近

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現在の油壷近くにあった三浦氏の新井城の大手として谷間に橋を掛け渡し、敵が攻め寄せたとき、その橋を引いて防いだので引橋といわれ、地名にもなったと付近の解説にあった。

橋の先はゆるい下り坂となって港もある三崎の町へと向かって下りて行く。

畑ごしに三崎方面を望む

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途中、城ヶ島入口交差点で三崎へ行く道から分かれ、城ヶ島大橋へ行く道へ進む。

しばらく行くと橋の料金所

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歩行者と自転車は無料。橋の両側に歩道がある。

城ヶ島大橋、「本土」側から

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橋は1960年開通、全長575m

橋上から城ヶ島

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橋上から三崎方面

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城ヶ島に下りて大橋をふりかえる

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橋の手前にあるのは”北原白秋先生記念碑”とあり、正面には直筆の”城ヶ島の雨”の詩が刻まれている。

城ヶ島三崎漁港近くから

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対岸三崎港を望む

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のちほど反対側からこちらを見たものも。

島西側にある城ヶ島バスターミナルから城ヶ島灯台方面へ。灯台の下をまわるように遊歩道がある。

遊歩道から

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この付近の海岸はずっと岩礁である。

城ヶ島灯台

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この材料だと、たぶんこう狙うと思う…?

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で、手前は何の碑だったっけ?

灯台の前へまわると銘標が取り付けられていて、そこには

城ヶ島燈臺
初點
明治三年八月十三日
震災改築
大正十五年八月一日

文字は右から左へ横書きだった。

灯台入口正面側がこっち

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門の前の解説から

城ヶ島灯台は、明治3年(1870年)横須賀製鉄所首長フランス人ヴェルニーにより西洋式灯台として設置点灯されました。このレンガ造円形、灯高基礎上5.76メートルの灯台は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災によって、一瞬に建物の基礎から倒壊し、大正15年(1926年)8月1日に改築されたのが現在の灯台です。灯台は船舶が安全に航行するための大切な施設です。この施設の異常を発見した場合や、何かお気づきの点がございましたら、横須賀海上保安部までお知らせください。
位置 北緯35度08分06秒 東経139度36分40秒
光り方 15秒毎に白光を1閃光(単閃白光)
光の強さ 31.0万カンデラ
光の届く距離 16.0海里(約29キロメートル)
高さ 地上から灯台頂部 約11.5メートル 水面から灯火 約30.1メートル

灯台を離れ、島南側、岩礁の海岸を歩く。この付近の岩礁ははじめ海の中にあったが、関東大震災クラスの大地震ごとに隆起し、海面上に現れるようになった。

南側の海岸

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馬の背洞門

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解説から

馬の背洞門
これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪風雨等に浸食されてこのような見事な形となったものです。
地層は第三紀層、鮮新統、三浦層群に属し土質は凝灰質砂礫岩という軟らかい岩質です。高さ八メートル、横六メートル、厚さ二メートルで、土地の人は「馬の背の洞門」のほか「めぐりの洞門」、「眼鏡の洞門」などと呼んでいます。そのどの名前もみな洞門の形から推して名付けたものです。
明治の文豪、大町桂月はここに訪れて次のように述べています。「-馬の背に至る、怒涛脚下の巌を噛む、左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、馬の背はやがて馬の首となり、長巌海に突出す。云々」
*落石等の危険があるため近づかないでください。
三浦市

間近から

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上部から

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この先は崖が切り立っているため、その上の歩道へあがる。

海食崖

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島の東側このあたりは西側と地質が異なり、岩礁にはなっていない。

その先へ行くと城ヶ島公園。
城ヶ島公園入口

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展望台から(2枚)

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先に見えている安房灯台近くまで行って

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城ヶ島の東端にあるのが安房灯台。(西側は城ヶ島灯台
前方にはうっすらと房総半島。

北側、三浦半島の宮川湾あたりを望む

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そして、城ヶ島公園入口付近へ戻ってくる。

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公園を出て道なりに進むと再び城ヶ島大橋のたもとに出る。これで城ヶ島を一周したことになる。だいたい4kmくらいの距離。

また大橋を渡って三崎側へ。
戻る橋の上から

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三崎側の港から城ヶ島を望む

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城ヶ島灯台がかすかに見えた。

岸壁ごしに町のほうを

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町なかを歩くと古い建物もところどころに残っている

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港が今よりもずっとにぎわっていた頃は町もにぎやかで活気があったのだろう。
今は名物まぐろ料理の店がたくさん。適当に一軒入って、小休止。

     *     *     *

三崎港近くから海岸沿いを北へ向かう。
海外(かいと)付近から

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向こうにクレーンが見えるところは造船所。漁船などをつくっているようだ。

典型的なスランプ構造を含む地層

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左側のぐにゃっと上にせりあがっている部分がそれ。

解説板の文字を転記。専門的な書き方でちとわかりにくいが、左が西、右が東方向になるということを先に記して。

神奈川県指定天然記念物
三浦市海外(かいと)町のスランプ構造
昭和五十三年九月一日指定
三浦市海外町の海岸一帯に露出する三崎町砂岩シルト岩互層(ごそう)(三崎層)は、三浦層群最下部層で、地質年代第三紀の海底で堆積した、主に灰白色のシルト岩と、黒色のスコリア質の凝灰岩や砂岩の互層からできています。
この崖の地層には、地質形成当時の環境を知る手がかりとなるスランプ構造がみられます。スランプ構造とは、未だ固まっていない堆積物が一時的に海底などの斜面をすべり下った結果生じた特異な堆積構造です。
この堆積構造を示す互層の形状は、上部は正常層の堆積面とほぼ並行しています。下底は、東から西に傾いたすべり面を境として、下位の正常層と接しています。このすべり面は露頭の西半部で正常層の堆積面と一致してくるため、東半部でのみ下位層の層理を高角度で切った形を示しています。崖面のスランプ構造には、軸面をわずかに東に傾けた一つの背斜(波状をあらわす地層の峰の部分)と、その東に続くごくゆるい向斜(波状をあらわす地層の谷の部分)からなる見事な波状に曲がった褶曲面がみとめられます。
このスランプ構造は、地層を構成するシルト岩やスコリア質の凝灰岩、砂岩等が未だ固まっていないコロイド状態にあった時、東から西にむかっての海底地すべりによって転位変形した結果生じたものと考えられ、典型的な褶曲型のスランプ構造といえます。地層堆積当時の堆積環境を知るうえで貴重です。
平成七年三月一日
神奈川県教育委員会
三浦市教育委員会

その少し先にもこんな露頭があったが、特に解説もなにもなし。
下の方、くにゃくにゃ

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そしてさらに先、油壷のほうへ行くと「諸磯隆起海岸」という、国指定天然記念物になっている露頭がある。
諸磯隆起海岸

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解説がないとなんだかわからないので、こちらも転記。

国指定天然記念物 諸磯の隆起海岸
昭和三年三月二十四日 文部省指定
この崖の表面にみられる小穴の列は、穿孔貝の巣穴の跡で、堆積時期を異にするシルト(砂泥)岩質の地質の側面に、小規模のものを含めて六列ぐらい数えられる。巣穴の多くは風化され、形はさまざまであるが、一般に下部の列のものほど、よく保存されている。
穿孔貝(ほとんどがイシマテガイで、別名この貝を「ヒミズガイ」ともいう。三崎ではこれを「シミズガイ」と呼んでいる。)は、波打ちぎわで岩をほり、巣穴をつくってその中で生活する。したがって、古い巣穴の跡があれば、これから過去の汀線の位置や高度を知ることができ、また、これによって歴史上の大地震の間隔や隆起量などが推定される。
この崖の巣穴の跡は、この種の推定を試みるにあたって、その出発点となったもので、それぞれの列は、いずれもある時代に汀線だったことを示している。そして列の数や巣穴の保存状態から、この場所が過去なん回かにわたって隆起したことを物語っており、歴史上の大地震を知る上で貴重な資料といえる。
平成八年七月一日 三浦市教育委員会

この露頭がある場所は現在海岸からは1kmほど離れ、標高も5~10m程度。貝に穴をあけられてからすでに何回か隆起を繰り返して、海から離れたことがわかる。

最後に地学の勉強をしてこの日はおしまい。
なんだかんだでまた三崎口駅まで歩いて戻ったのでした。

城ヶ島・三崎 足あと