府中通り大山道、途方なき相模原、厚木区間を先へ、八王子通り大山道との合流地点、厚木市の荻野新宿を目指します。
なにゆえ途方ないかといえば、この区間、旧道の道すじを忠実にたどれないところが多くて、迂回するのも半端ない。何だか妙な足あと(行程)となりました。
府中通り大山道その3 足あと地図
細かなところこだわって補足すると、”その2”(2日目)は相模野基線北端点までを記しましたが、同じ日にもう少し先まで歩きました。旧道が消滅していて、昔の道すじに近い道路を代わりに歩き、その日は峰山霊園入口交差点まで行っています。
3日目は小田急相模原駅から歩き出します。
途中、用水路の歩道とか歩いていくのですが、
春でした
駅から3キロくらい歩いて前回離脱した交差点です。
この周辺、言っちゃ何ですが殺風景ですので写真省略します。
麻溝台周辺は戦後すぐ農地として開放されましたが、その後耕作放棄されて産廃場、廃棄物置き場になった場所が、特に西部では多いのです。
峰山霊園入口交差点からは拡幅されてますが、古い街道の道すじがしばらく復活します。
霊園の南側あたり
前方の林が相模野台地の縁、崖になって道路は下り坂、「みねん坂」と標柱があり「峰の坂」の意味との解説がありました。付近には縄文時代中期の大規模な集落跡、勝坂遺跡があります。
坂を下る途中、少し雪をのせた大山や丹沢
一方、坂を下りたところは満開の河津桜
段丘から下りると磯部というところです。
ここではあちこちに石塔、石仏があるのを見かけました。
道標になっているものもあり、大山の文字も見えました。
お店の脇、これもよく見たら「右大山道」の大きな文字が
それに従って右へ入って行くと
能徳寺前へ
お寺をまわりこむと相模川、磯部の渡しへ出ます。
磯部の渡し跡付近
前方が相模川、青いものがたくさん突き出して見えますが、水門の開閉器がいくつも並んでいます。ここは磯部頭首工と呼ばれる、相模川左岸用水、右岸用水の取水口になっています。
左に現在の用水の前身「五ヶ村用水」の碑
この用水は、江戸時代後半に磯部村、新戸村など五ヶ村の水田に水を引くためにつくられました。また、その用水の取水口がある、このあたりは「すいとうくち」と呼ばれています。
磯部頭首工の堰
堰をつくって川の上流側に水を貯め、取水口へ水を導きます。
ちょうどこの堰の付近に磯部の渡し、渡し場があったようです。対岸は猿ヶ島村(現、厚木市猿ヶ島)、向こう岸では猿ヶ島の渡しと呼んでいました。
堰の上流側から
現在、渡し舟は存在しませんが、橋もこの周辺にありません。
対岸へは川を渡れば数百メートルの距離ですが、迂回して4~5キロも歩かなくてはなりません。(そのあたり迂回の足あとは上記の地図を)
上流へ向かって一番近い昭和橋を渡り、対岸を再び下って、猿ヶ島の渡し場に出ます。
厚木市猿ヶ島側からみた磯部頭首工の堰
このあたりが渡し場跡です。
堰の向こう側に用水の取入口が見えてましたが、写真ではよくわからないですね。
渡し場から街道の続きへ
道のわきに「猿ヶ島の渡し」の碑
猿ヶ島の渡し
江戸時代から昭和初期までこの地に渡船場があった。猿ヶ島村民は相模川中洲の耕作地に通うため利用した。また対岸磯部村とを結ぶ大山道の渡しでもあり、大山参りの旅人に利用されたという。
昭和初期まで、相模川を往来する物資運搬の帆かけ船の発着地でもあった。
猿ヶ島側、平地は一面田んぼです
農地整備はそれほど古くないようで、ここも古い街道の道すじは田んぼに埋没して残っていません。
そして道の続きは段丘崖を上がっていく坂道から再開します。
馬坂
「大山参詣に通った道である」との一文が横の解説に入ってました。道は間違っていないようです。
馬坂の途中から
隣りは圏央道、並行して川が流れ、猿ヶ島の田んぼです。
不動明王をのせた屋根つき、大きな大山道道標です。台座には「右 大山道」などの文字。
立て札には「厚木市内で最大の道標」とありました。
道標前の道を100mほど行くと突き当り、そこを左折します。厚木から八王子へ向かう道の旧道に合流して少し南(厚木方向)へ進みます。
八王子道の旧道から(厚木市山際)
周辺も古くからの集落で、古い道の雰囲気が残っています。ただ、1本隣りは国道129号、交通量が多く騒音が響きます。
この道にも古い石塔などがよく残っていました。
大山道の分岐点に道標
厚木方面と大山方面へ道が分かれるところにありました。「右大山道」(反対面を見るのを忘れました。)
西に方向を変え、国道を渡り、次は中津川を渡るために段丘を下ります。
長坂を下る
坂の途中から西側
前方を流れる中津川の氾濫原、相模川同様水田中心の農業地帯です。
左に少し写っている中津川大橋を渡りますが、その前に中津川の渡し跡へ向かいます。
渡し場は中津川大橋の2~300m上流側にあったようです。
渡し場のあたり河川敷から、三田(さんだ)の渡し
今は痕跡もありません。中津川本流も見えてないし…
さてここから中津川大橋を渡るのですが、橋へのアプローチがよくないです。車ならさほど気にならないと思いますが、歩行者も車と同じようにたどっていかないと橋へ上がれないので、結構な大回りを強いられます。
橋へのアプローチ中
正面前方左右に通る道で一度橋の下をくぐってからループを描くようにUターンして橋の上へ出ます。
中津川大橋から中津川上流側
橋を渡った先が三田、かつての三田村です。
対岸の渡し場跡へ行く予定でしたが何もなさそうなので省略、そのまま街道の続きへ出ました。
旧道跡に復帰するとすぐ大山道の道標がありました
正面に大きく大山道の文字、左上に「方」とあるのでまだ何か書かれていたようです。左に置かれているのは不動明王像と思われ、かつては右の道標の上にのっていたのでしょう。
先へ進むと上り坂、その途中には最近建てられた「大山道」の石柱もありました。
その先、意識していないと見逃してしまいそうな場所で道を左に折れて細い道に入ります。
道を折れて、来た方を振り返り
そろそろ荻野新宿、八王子通り大山道との合流点です。
終わりが近づいてきたので、このへんで大山を1枚と狙うも障害物が多くて、というところです。
荻野新宿交差点・日吉神社
左から来る道が八王子通り、神社を挟んで右端が府中通りです。合流して背後に荻野新宿の宿場が伸びていました。
この先は八王子通り大山道を歩いた時の記録にリンクして、府中通りはここでおしまいにします。
日吉神社の奥のほうから荻野新宿交差点方向
〆の大山ってことで
府中通り その1、その2