府中通り大山道、前回、甲州街道と交わる府中まで歩いてきました。引き続き大山方面を目指し、先へ進みたいと思います。
府中通り大山道その2 足あと地図《府中~相模原麻溝台》
街道は現在のJR府中本町駅近くで線路を横切る格好になります。前回歩いたときは東側から駅に入ってきたので、今回は駅から西側へ出て行きます。
はじめは西へ進みます。
本町2丁目交差点
歩いている道は都道18号(通称、鎌倉街道)、見たところ普通の通り(ストリート)です。
この先の分梅駐在所交差点で鎌倉街道上道旧道の道すじに合流します。
その交差点を左折して、
分梅橋付近
合流してすぐは旧道とはいえ普通の道路です。前の信号が分梅橋交差点です。分梅橋は府中用水の流れに架かっていた橋、用水は現在遊歩道になっており、そこへ入ると”分倍河原古戦場碑”があります。
鎌倉街道を歩いたとき、簡単に紹介しました。
分梅橋の先から京王線中河原駅前にかけては、別途古い道すじが少しだけ残っています。
古い民家の建物を背景に
手前の道路が古い道。
中河原駅前で片側2車線の都道18号新道に合流し、関戸橋へ進みます。
そこで多摩川を渡りますが、昔は”関戸の渡し”、渡し舟でした。
関戸橋北詰から
関戸の渡しは関戸橋近くですが、少し上流側にあったようです。
関戸橋は現在架け替え工事中、写っている上り線は仮橋になっています。
渡って対岸(多摩川右岸)、渡し場のあたりから来た方を見返して
多摩川河原、右側が関戸橋、その上流側、この正面付近が渡し場だったようです。背後に街道がのびていました。
渡し場付近、現在は住宅地で道筋がはっきりしませんが、街道は大栗橋(大栗川)へ、そこから都道18号旧道の道すじを進みます。
関戸の戦い、関戸古戦場跡
鎌倉街道として歩いたときの写真再掲。
関戸の戦い
1333年(元弘3年)5月16日、新田義貞は鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原の戦いで勝利し、同日に多摩川を越えた。
一方、分倍河原から退いた北条泰家(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の弟)は鎌倉幕府の関所である霞ノ関一帯で防衛戦を行った。この戦いでは新田軍側が勝利を収め、北条泰家は家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって一命を取り止め鎌倉に逃走したが、横溝八郎、安保入道父子は関戸で討死をしている。
翌17日、関戸に一日逗留して体勢を立て直した義貞は鎌倉へ攻撃を開始した。この関戸の戦いから6日後の1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡した。
Wikipedia 「関戸の戦い」から抜粋
また、この周辺には鎌倉幕府による街道の関所がありました。近くの熊野神社内の参道から乞田川にかけて”霞ノ関南木戸柵跡”という関所の長い柵跡が発見されているとのことです。
(大山詣でが盛んになる江戸時代にはここの関所は廃止されています。)
鎌倉街道でもあった古い道すじをたどると、そのまま多摩市役所の敷地へと入って行きます。
多摩市役所入口付近・鎌倉古道の標識
市役所庁舎前を通過して行きます。
市庁舎前から
この先、多摩ニュータウン地区を横切ります。
乞田(こった)交差点などを通過し、再び都道18号(鎌倉街道)新道に出ます。
一応、昔の道すじは現在の都道18号新道に沿っていますが面影はありません。
都道18号から”さんかく橋”(多摩市永山3丁目)
このやや手前に”瓜生一里塚”がありました。付近の地名が”瓜生”です。
隣を並行している遊歩道にその碑があります。
瓜生一里塚跡の碑拡大
瓜生一里塚跡
一里塚は、一般的には旅の目印や休憩のために榎などの木を植えた塚を一里(約四キロメートル)ごとに設けたものである。
瓜生一里塚は、多摩市内では唯一の一里塚で、ここから西南七〇メートルほど離れた鎌倉街道を挟んだ両側に、径四・六メートル、高さ三メートルほどの塚が存在していた。
江戸時代初期の元和三年(一六一七年)、駿河国久能山(現在の静岡市内)に埋葬されていた徳川家康の遺骸を日光東照宮に移すために街道の整備を行い、この一里塚が造られたと言われている。家康の柩が通ったことから「御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)」とも呼ばれている。
また、一里ほど離れた町田市小野路にも、この時に造られたと思われる一里塚が残されている。
平成七年三月 多摩市
都道18号新道はさんかく橋の先、多摩卸売市場前へ出ますが、旧道は途中で西寄りへそれます。恵泉女学園大学前からはさらに細い道になります。大学近くには「鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)跡」の標柱が立っています。
細い道に入ると多摩ニュータウンのエリアからも外れます。
鎌倉古道と大山道分岐
この先の小野路でいったん分かれた道がここで再び合流している場所です。左上から来るのが鎌倉古道跡で右下から大山道(府中道とも)です。
ここへ出てくる鎌倉古道跡は、道がよく保存されていて歩くのにおすすめなのですが、右下へ行くことを指示されてますのでそれに従います。
鎌倉古道側はこちらで(ちょっとしかないけど)
右下へ行くとしばらくして南側がひらけ、小野路(おのじ)へと出てきます。
小野路の手前で
煙をいれてみたかっただけです。
下へおりると小野路宿、鎌倉時代からの宿駅だったといわれています。
宿内にて(2枚)
ここも鎌倉街道の時など、何回か歩きました。ずっと道路整備工事中でしたが、その工事も終わってすっきりしました。
小野神社交差点角には江戸時代の旅籠を改修、整備した小野路宿里山交流館があります。
小野路宿里山交流館内をのぞく
交流館隣には小野神社
小野神社は鎌倉街道を歩いた時に寄ったので、そちら(上記リンク先)に若干何かあります。
小野路の歴史、解説案内から小野路宿略図部分拡大
解説文
小野路の歴史
「小野路」の地名の由来には諸説あります。
『大日本地名辞書』によると、平安時代の牧場地帯「小野牧」(現在の八王子市から日野市・府中市・稲城市・町田市北部を含む地域)への入口、『武蔵名勝図会』によれば、武蔵七党の一つの横山党の祖である小野氏との関係によるものと考えられ、『鶴川村誌』では、「小野郷」(現在の府中市域内)への道筋ともいわれています。
小野路は、長い歴史を通じて交通の要所で、江戸時代に東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、また江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行き来する人々で賑わう宿場となっていました。
江戸時代には近隣の三十五ケ村をまとめる組合村の寄場として見張番屋が置かれ、明治時代には登記所や郵便局などの公的施設ができ、小野路は地域行政の中心的な役割も果たしました。
この案内板は、江戸時代に法令を板面に記して村民に周知させるために高札場(現在地)に設置された「高札」をイメージして、作製・設置したものです。
町田市
小野神社前交差点を右折して坂を上がっていくと小野路の一里塚があります。
小野路の一里塚
奥へ行く道の両側にひとつずつ、東海道などのものよりはだいぶ小さめです。
(解説板の内容は瓜生一里塚とだいたい同じなので省略します)
大山道とは無関係ですが、ここから左側間近にサッカー、町田ゼルビア本拠地の町田市陸上競技場が見えます。
一里塚の間を先へ進み、残っている旧道をたどって丘陵から下ります。
旧道と拡張された都道との合流(町田市図師町)
左側の道を向こうから来ました。
東村山のあたりから重複したり並行したりしてきた鎌倉街道上道とはこのへんで分かれていきます。
この先で鶴見川を渡り、また丘陵をのぼります。
途中にあった由緒ありそうな家
このあたりの地名「図師」といいますが、こちらの庭に「図師地名発祥ノ家」碑なるものが建っています。どんな経緯があったのかは自分の知恵足らずで読み解けていません。
先ほど下りてきた丘陵を向こうに見る(町田市忠生2丁目)
住宅地のなか、断続的に残る旧道をたどると上宿交差点へ出ます。ここで浜街道、神奈川往還、絹の道などと呼ばれる、横浜と八王子を結んだ街道と合流して木曽宿に入ります。
木曽宿内の街道
宿内の一直線の道が印象的です。
ここを浜街道を歩いた時にも通過しています。
下宿側で浜街道と分岐するところに覺圓坊(木曽観音)があり、そこを右折します。
すぐのところに木曽一里塚があります。
木曽一里塚(2018/9撮影)
別のノートに解説文字起こしもしてました。そのまま引用。
町田市指定史跡
木曽一里塚
所在地 町田市木曽西四丁目一四番
指定 一九六九年(昭和四十四年)九月二日
徳川家康は秀忠に命じて慶長九年(一六〇四)に、日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者の目印として一里(約四キロメートル)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰で休憩がとれるように、榎や松が植えられた。
町田市内には、木曽町、小野路町に一里塚が残っている。元和三年(一六一七)に徳川家康の遺櫃が駿河の久能山から日光東照宮へ移されたとき、東海道の平塚宿から、厚木、座間、木曽、小野路、府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた。一八世紀になると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣する大山講が盛んになり、この道も大山道として利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えた。木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあったが、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。
二〇一一年二月設置 町田市教育委員会
一里塚前の道を先へ進むとやがてまた下り坂です。
この先は境川
この川を渡ると神奈川県、相模国に入ります。(現、相模原市南区)
渡ってすぐ、街道のかたわらに「古淵一本松跡」と書かれた立て看板の解説があり、石塔が2つ。その解説ではこの道は「木曽街道(別名 磯部街道)」と記されています。場所と時代が変わると道の名前もころころ変わるのです。
さらに行くとJR横浜線の踏切を渡ります。
古淵駅の近くで旧道はしばらく消滅、国道16号を渡った先で復活します。
横切っている歩道(たぶん用水路跡)側に置かれています。
旧道が大野台中学前を通過するところに「道者みち」の新しい石碑があり、
大山参りの人々(道者)がよく利用した道だったので、このように呼ばれていました。また「大山道」「磯部道」「木曽道」などともいいます。
この先、道は広い雑木林に入って行きます。
相模野の雑木林の道
ある意味、昔の様子をそのまま留めているのではないでしょうか。
ただし旧道の道すじはこの林の中で消滅してしまいます。そしてかなり先まで痕跡が残っていません。
雑木林を通過して麻溝台という住宅地を通りぬけていきますが、この周辺は太平洋戦争前に陸軍によって演習地として、戦後は農地として大規模に開発され、その時に古い道筋が消えてしまったようです。
その頃できた道路をジグザグに歩いて行きます。
南区麻溝台3丁目付近
通っているのは戦後できた道路です。
大山道とは直接関係ありませんが、途中「相模野基線北端点」の近くを通ります。日本で最初に設置された測量の基準点です。
相模野基線北端点
そばに詳細な解説があったのですが、長すぎるので右の文字を
相模野基線北端点
一等三角点 下溝村
当基線場は、日本の近代測地測量を実施するにあたり、明治15年日本で最初に設置されたものです。
南、北両端点間の長さ、5209.9697mをもとにして我が国の地図は作られました。
最近では、この長さの変化を精密な繰り返し測量で見つけて、地震予知等に利用している大切な測量基準点です。
建設省国土地理院
「建設省」とあるようにちょっと古い解説です。地震予知とありますが、詳細な解説のほうを読むと、大地震前後の長さの変化を追ったりしていることが分かりました。
解説文の下には「土木学会推奨土木遺産 2010 相模野基線」のプレートがはめこまれています。
街道も消滅している区間で、周囲にもあまり見るものもない場所ですが、ここでいったん休憩いれます。
この日は目指す大山の姿もうすぼんやり、写真には写らないほどでした。
府中通り大山道 その1