散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

文京区・茗荷谷の坂道を巡る

今回は茗荷谷(みょうがだに)近辺にある名前付き坂道を訪ねます。

茗荷谷は古く小日向(こひなた)村の一部でしたが、江戸時代に茗荷谷町ができ、1966(昭和41)年まで存在していました。
現在一帯は再び小日向(こひなた)*1となり、茗荷谷という町名はなくなりました。
茗荷谷は小石川と小日向の台地にはさまれた、文字通り「谷」にあります。現在はその谷筋、地上を東京メトロ丸の内線が通り、茗荷谷駅車両基地が存在しています。

今回訪ねたのはいずれも谷底と台地を結ぶ坂道で、茗荷坂、蛙坂、(切支丹坂)、庚申坂、藤坂、釈迦坂の6坂です。そのうち、切支丹坂はすでに取り上げているので、そちらへのリンクとしています。

 

◆茗荷坂〈みょうがざか〉

茗荷谷の谷底には拓殖大学の正門があり、隣りに「茗荷谷」と記された大きな看板があります。
茗荷谷」の看板など

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下部には茗荷谷の由来などが書かれています。(内容は以下の坂道解説板の内容と重複するので省略)

看板後ろは拓殖大学の入口、前の道路が茗荷坂の坂下あたりで、右側見切れてますが坂名標識があります。

 

茗荷坂標識

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茗荷坂(みようがざか)
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「……むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。
文京区

標識説明によれば、谷底から駅方面へ向かう坂と逆の南西方向、小日向台へ上る坂、2つの茗荷坂が存在することになります。一方、坂学会の説明によれば「駅に向かう道」のみになっています。
今回は迂闊にも坂標識をきちんと読んでおらず、駅方面へ上がる坂のみ辿りました。

 

坂下付近からさらに下方向

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正面三差路付近が坂下、その右側に拓殖大学正門、道路左側には坂標識が立ち、その上は深光寺境内です。

 

少し上がって坂上(駅)方向

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左側は拓殖大学です。

駅方面へ上がる坂道は、全般に傾斜は緩く、長さは約200m、だらだら上がるかんじです。

 

さらに先へ行くと道幅はせまくなります。
坂下方向をふりかえって

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もう少し上って、坂下方向

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このへん左側はちょっとした崖になってます。

 

ほぼ同じ位置から上方向

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正面つきあたって坂上、正面建物は茗荷谷駅(の駅ビル)です。

 

坂上、駅出入口付近から春日通り方向

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正面で春日通り(国道254号)に出ますが、そこまで少し上がってる、でしょうか?

 

《追記》

拓殖大学正門前から南西、小日向台に上がるほうの茗荷坂、過去に通ったときの写真が1枚見つかったので最後に添えておきます。
坂道なかほどあたりです(2017年6月)

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左に折れて少し先まで坂が続いてます。

 

 

◆蛙坂〈かえるざか〉

別名:復坂〈かえるざか〉

茗荷坂の坂下となる三差路を丸の内線ガードの方へ進み、その手前で右折してすぐ蛙坂です。
丸の内線ガード手前から

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左の穴をぬけると釈迦坂、まっすぐ抜けた先、左側に藤坂です。
蛙坂へはガードをくぐらず、Pマーク後ろを右に入ります。

茗荷谷」とは目と鼻の先ですが、現在立っているところはかつて「清水谷」とも呼ばれていたようです。

 

Pの後ろを入ったところに小さな稲荷神社があります

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さらに右に曲がって坂下

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蛙坂は坂下から上まであちこちで折れ曲がり、道幅もせまいです。そして急坂。

 

上がりはじめて、右に折れるところから

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上に向かって右側は貞静学園短大です。

 

次に左へカーブするところから下を

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この左側に坂名標識があります。

 

蛙坂標識

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蛙坂 (復坂)   小日向一丁目23と25の間
「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或いは復坂ともかけり、そのゆへ詳(つまびらか)にせず」(改撰江戸志)
『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂へ通じている。
文京区教育委員会    平成12年3月

 

標識を背に、坂上方向

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あと数十メートルで坂上、小日向台、その先はしばらく平坦です。

 

坂上付近から坂名標識のあたりを振り返り

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複雑に折れ曲がる急傾斜の坂道ですが、長さは70m程度と短いです。

 

 

◆切支丹坂〈きりしたんざか〉

別名:幽霊坂〈ゆうれいざか〉

蛙坂の坂上で平坦になった道を150mほど進むと「切支丹屋敷跡」の石碑や解説板などがあり、その30mほど先を左(東方向)に折れて下るのが切支丹坂です。

こちらはすでに訪問済みですのでそちらへのリンクを置きます。

坂道探訪 幽霊坂を巡る(4) 北区・文京区 - 散歩の途中

この日も通りましたという証拠で小日向台の坂上から1枚

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◆庚申坂〈こうしんざか〉

切支丹坂坂下で丸の内線ガードをくぐった先、すぐに庚申坂坂下になります。2つの坂は谷をはさんで相対していますが、そんなスリバチ地形の底を丸の内線線路と車両基地が埋めていて、お互いの坂道は見通せません。

丸の内線ガードをぬけたところ
階段坂の庚申坂

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階段ということで急坂、ただし短い坂道(約50m)です。
上に見えている建物は茗台中学校校舎。

 

上り始めてから振り返り

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丸の内線電車、ガード下は通路出口、向こう側には切支丹坂があります。

 

途中の踊り場

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坂上近くから

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坂上、階段への出入口

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こちら側は小石川台地、背後は平坦な道で、春日通りにつながります。

階段下り口の隅に坂名標識が立ってます。

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庚申坂
「小日向第六天町の北、小石川同心町の界(さかい)を東より西へ下る坂あり…略…この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名”庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり……」 『東京名所図会』
庚申信仰は庚申(かのえさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。 従ってキリシタン坂この坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
「…両側の藪の間を上る坂あり……これが真の切支丹坂なり」 『東京名所図会』
   とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
       春の暮れがたの切支丹坂  (金子薫園)
文京区教育委員会    昭和60年3月

上の解説では否定されていますが、江戸切絵図ではこの坂と思われる場所に「キリシタンサカ」の文字が見えます。
坂学会資料では本坂の別名、切支丹坂とあるほか、『切支丹坂考』というコラムがあり、周辺の様々な坂道が切支丹坂と呼ばれているとの記載があります。

以上、庚申坂でした。

 

 

◆藤坂〈ふじざか〉

別名:富士坂〈ふじざか〉、禿坂〈かむろざか〉

傳明寺(でんみょうじ)、通称『藤寺』北側にある、短いけれど急坂で、坂上で春日通り・小石川五丁目交差点に出ます。

坂下から

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ほぼ直線ですが、上に向かってやや右に曲がります。長さは80mほど。
坂下に20%の勾配標識。

 

そのまま右を見ると
藤寺こと傳明寺

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背景がなんというか…小石川台縁の崖がビルに化けて巨大化してます。

左端のコンクリート塀手前に坂名標識があります。

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藤坂(富士坂・禿坂)   小日向四丁目3と4の間
「藤坂は箪笥(たんす)町より茗荷谷へ下る坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』) 藤寺とは坂下の曹洞宗伝明寺(でんみょうじ)である。
『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光は、牛込高田辺放鷹(はなしたか)(鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
昔は、この坂から富士山が望まれたので、富士坂ともいわれた。
「続江戸砂子」に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には 名木の藤あり、一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
    藤寺のみさかをゆけば清水谷
       清水ながれて蕗の薹(とう)もゆ (太田水穂
文京区教育委員会    平成11年3月

 

坂半ばから

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カーブして坂上近くから下方向

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ほぼ同位置から上

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もうひと頑張りで
坂上、春日通りの交差点

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春日通りは小石川台の尾根上を通っています。通りを渡った先は播磨坂の下りです。

 

 

 ◆釈迦坂〈しゃかざか〉

茗荷谷谷底から蛙坂へ向かう途中、2つの穴をもつ丸の内線ガードがありました。
再掲

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左の穴をぬけたところが釈迦坂下です。

 

坂下付近から

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坂はジグザグに細かく何度も折れ曲がり、切通し様で道幅せまく、見通しがよくありません。
傾斜はやや急、長さは90mほどです。

 

次のカーブから坂下方向

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右側には丸の内線とその車両基地、坂を下った先、右側が例のガード下となります。

 

さらにあがって上方向

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この右側は徳雲寺境内。

 

次の角まであがって振り返る

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本堂下、カーブミラー脇に坂名標識。

 

拡大

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釈迦坂    文京区小日向4-4 徳雲寺
春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
徳雲寺臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺になっている。
文京区教育委員会    平成14年3月

 

もう1度角を折れ、次の角(正面)で坂上です。

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この坂道のジグザグは古くからそのままなようです。

小石川台に上がる坂道はだいたい坂上で春日通りへ出ますが、この道は直接通じていません。とはいえ正面建物の向こうはすぐに通りです。

 

坂道地図・茗荷谷

 

*1:小日向1丁目、4丁目などが元の茗荷谷町域