東京23区の幽霊坂の名を持つ坂道を巡ってます。4回目は北区と文京区から3坂です。
◆幽霊坂〈ゆうれいざか〉 北区田端1丁目
山手線西日暮里と田端駅の中間あたり、線路西側は道灌山と呼ばれる上野台地の一部ですが、この付近は幅が狭く、その西側ですぐに落ち込んでいます。田端1丁目にある与楽寺の南側にこの崖を東から西へ下る坂道があり、幽霊坂の名があります。
坂の手前、上野台地(道灌山)上から
正面が幽霊坂、左側は坂下にある与楽寺の駐車場です。
下りはじめて
道は切通しの間を通り、左右わずかにカーブします。
坂下が見通せるところまで下りて
左右崖の間、切通しのはじまり付近です。
下右側が与楽寺境内です。
坂途中から上を振り返って
同じく坂下から
坂の傾斜は上部でやや急、それほど長い坂ではありません。(長さは70m)
坂下からその先を
もう少し先までゆるく下っています。
塀の向こうは墓地です。
現在は坂の周囲にも住宅が多く建っていますが、崖地で昔は寺院以外何もなく淋しかったようです。
この坂道に標識はありません。坂名は坂学会のリストから取得しました。
お寺の裏側、淋しく細い坂道、幽霊坂と呼ばれる材料は十分です。
田端から小石川へ寄り道しつつ向かう途中、
通りすがりの曙坂(あけぼのざか)(文京区西片2丁目)
坂下の欠けた石の坂名標がよかったのでおまけしてみました。この坂は幽霊とは関係ないと思います。
文京区は坂道多く、小石川はもう少し先。
◆湯立坂〈ゆたてざか〉 文京区小石川5丁目、大塚3丁目
坂学会の坂リストにはありませんが、同学会のコラム中に別名として湯坂、暗闇坂とともに幽霊坂の記載があります。そのほかにも幽霊坂の名称が一般に使用されているようなので取り上げました。
千川通り窪町東公園交差点を南西に入ると坂下、筑波大学東京キャンパスの南側を上がっていき、春日通り茗荷谷駅前交差点手前で坂上となります。
勾配は全体に緩やかですが坂の距離は330mあります。
千川通り窪町東公園前交差点から
向こうへ行くと湯立坂です。
ちなみにこの背後には小石川植物園と簸川神社、その間を網干坂が上がっていきます。
千川通りを折れて次の交差点から
このあたりが坂下付近、すでに道はゆるく上がっています。
右は窪町東公園、奥へ筑波大キャンパスへと続いています。
3分の1くらい上がって
坂はなかほどでゆるく右左とカーブ。右側公園内前方はちょうど段丘崖、階段がつけられてます、が見にくい。
この付近は目白台などの台地が小石川(別名氷川、千川、礫川など)の開削した谷に落ちていくところ。湯立坂のほかにも多くの坂が存在します。
カーブ中ほどでふりかえって
あまり上がった感がありません。
カーブの先へ
道路向こう側は崖の上になってこちらより土地が高くなりました。このあたりは下の土を削って道を通してます。
立ち木の枝はらい作業中でした。
ほぼ坂上から
右の門は旧磯野家住宅表門。
明治末期に建設され、主屋は銅板張り、銅板葺き屋根などから銅(あかがね)御殿と呼ばれた、磯野敬氏の住宅があります。〈国重要文化財〉
内部は窺えず。
門を向こうに反対側歩道上に坂名標識
「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てゝ渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」(御府内備考)
坂下の大河は小石川(氷川…)の流れ、氷川の明神は現簸川神社、湯花とは湯の沸騰時に上がる泡のこと。神社で巫女などがこれを笹の葉につけ,参詣人にかけ浄めた。この儀式を“湯立”と呼ぶ。ほぉ…
春日通り交差点付近から振り返り
この「湯立坂」を推す方が多いようです。
今回訪ねたときは緑も少ない時期で、またあちこち工事、作業中な事もあり条件が良くなかったですが、たぶん幽霊も出ないので、この近所を訪ねる機会があれば再訪したいと思います。
◆切支丹坂〈きりしたんざか〉 文京区小日向1丁目
湯立坂の坂上、春日通り茗荷谷駅前交差点から南へ5~600m、茗台中学校前交差点を西側に入って、庚申坂を下り丸の内線車両基地のガードをぬけたところから上っていく坂道です。
が、江戸古地図では途中の庚申坂位置に「切支丹坂」の記載があり、実際は諸説あるようです。
ここでは坂学会と文京区教育委員会の支持する坂道を取り上げています。別名として幽霊坂です。
周囲は昭和40年頃までは茗荷谷(みょうがだに)町と呼ばれ、台地の挟間、坂の多い地域です。
自分は茗荷谷駅前から茗荷坂を下り、蛙坂を上がって切支丹屋敷跡を通り、この切支丹坂坂上に出ました。
切支丹坂坂上から
前方赤いのは車両基地の丸の内線電車、あの下までが切支丹坂です。
都旧跡 切支丹屋敷跡
東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡
キリシタン屋敷は正保三年(一六四六)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されていました。
最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保九年(一七二四)焼失し、以降再建されず、寛政四年(一七九二)に屋敷は廃止されました。
平成二四年三月 建設 東京都教育委員会
坂なかほどまで下って上方向
坂の途中で右、左に分かれる道があります。それぞれの先も坂道になってました。
坂下のガードあたり
ガードのトンネル付近から上を見て
見てのとおり、直線の坂道です。
長さは80m、傾斜はそこそこあります。
ガードをぬけた反対側に庚申坂があり、どちらが本当の切支丹坂なのかはっきりしていませんが、こちらの切支丹坂、江戸時代には存在しません。明治になって地図に現れてくるので、明治時代にひらかれた坂道のようです。
あれ?、なんで別名幽霊坂なんだっけ?
幽霊坂マップ 今回分は12~14
文京区の幽霊坂がもう少し存在します。そちらは次回。
次の幽霊坂へ向かう途中、出会ってしまった急坂、おまけでもう1つ。
鳥尾坂、途中から
(文京区関口3丁目)