散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

代官坂トンネル・見晴隧道 横浜の古いトンネルを訪ねる その3

横浜にある古いトンネルを訪ねる。今回その3は中区にある代官隧道(代官坂トンネル)、見晴隧道です。

まず代官隧道。
元町ショッピングストリート(元町通り)途中で直交する代官坂通りに折れ、代官坂を上がる途中の側道がトンネルにつながります。トンネルをぬけると元街小学校前に出て、上野町あたりの谷戸を下って本牧通りへ出ます。
山手が外国人居留地だったころにはすでに存在していた道すじ、今回は上野町側からアプローチしました。

トンネルに向かう道の半ばにマリア像

道端のお地蔵様や道祖神の類はよく見かけますがマリア様。正面坂道途中にある聖母愛児園のものでしょうか。

トンネルへは左に進みます。

 

小学校校門を背後に道がいくつか分岐。
正面に代官坂トンネル

右正面から下ってくるのはトンネルができる前からあった旧道、上がると丘尾根には「代官坂上」交差点、のちほどそちらをまわります。
トンネルは尾根まで上がって山越えをしなくて済むようにバイパスとして建設されました。また建設当時は世界恐慌による不況で、失業対策事業でもあったようです。

坑門前(南側)

トンネル前面は化粧石が施されています。山手隧道と同じ種類のようです。(新小松石)
左右擁壁もよく目にするタイプのものですがトンネルまわりに重厚感を与えています。

さらに近づきます

信号機があります。トンネル内の道幅が狭く交互通行なのです。〈それほど交通量は多くないです〉
トンネル正面上には右から「代官隧道」と書かれた銘板が掲げられてますが信号機は「代官坂トンネル」です。

正式名は銘板にある「代官隧道」だと思いますが、「代官坂トンネル」の使用割合が多いようでしたのでタイトルは「代官坂トンネル」としました。

トンネルの開通は1932(昭和7)年、延長は121.2m、幅は5.45m、高さは標識にもあるので3.1m。(長さも幅も山手隧道の約半分です)

トンネル入ってすぐふり返り

正面奥は元街小学校校門。

トンネル内部は補強のため鉄板が巻かれ建設当時の様子はうかがえません。

奥(北側坑門方向)へ向かって

歩道側壁面に額のようなものがいくつもあり一部は照明が点灯されてます。通ったときには何もなかったのですが、元街小学校児童の絵が飾られていたという情報もありました。普通にギャラリーになりそうです。

北側坑門付近

外側は南側と同じく脇に旧道とその擁壁があります。

トンネル出てふり返る

トンネル北側も南側とほぼ同じ造りです。

 

すぐ横には特徴的な建物があります。

老舗のダンスホール「クリフサイド」

1946(昭和21)年、はじめは山手舞踏場の名で開店し、現在も現役で営業中です。

代官坂旧道からクリフサイドの建物

和洋折衷というか東南アジア的な雰囲気も感じられる様式の木造建築です。
内部は100㎡の吹抜けダンスフロアとステージ、2階に小ホール、バーカウンターなどがあるそうです。

だいたい同じ位置から代官坂トンネル


代官坂、坂下方向

代官坂を下っていくと元町へ出ますが、その途中にもクリフサイド同様レトロな建物、老舗の商店などがいくつか残っていて、個人的に横浜で好きな場所のひとつです。〈風景が変わるまえに記録しておきたい〉

 

代官坂、トンネルの上をのぼって行くと尾根で山手本通りと交差します。

代官坂上交差点

横切る山手本通り、その部分だけが一番高くその向こうはすぐに下り坂です。真下は代官坂トンネル、左側建物は横浜ユニオン教会です。

交差点を渡り

代官坂を上りきった続きの下り坂は「箕輪坂」といいます。
正面がユニオンチャーチの建物、その他付近にあるものは道しるべを参照..

箕輪坂下りつつトンネルの真上


代官坂トンネル南側坑門上付近


一周してまた元へもどってきました

 

続いて見晴(みはらし)隧道へ向かいます。

中区北方町と新山下を結ぶ見晴隧道は代官坂トンネルと同じ1932(昭和7)年に初代トンネルが造られました。
規格も似ていて当初は延長118m、幅5.7m、車道幅の関係から片側交互通行になっていたのも同じです。
その後道路拡幅等により隣りに2本目のトンネルが掘られ、初代トンネルも断面を広げて拡幅するという大工事が実施されて1995(平成7)年に完成しています。

なので昭和初期に造られたトンネルの面影は残念ながらありません。でもやって来ました。
北方町側トンネル入口

左が下り線(北行き)で初代トンネルを拡幅したものです。
右は上り線(南行き)、平成になって新たに掘削されました。
前の信号には「見晴トンネル」の表示、こちらも信号機は『トンネル』が使われてます。
左の坂道は「聖坂」、上がると山手町です。

坑門付近

左側の坑門上部にある〈たぶん御影石の〉銘板には「見晴隧道」。

トンネルは中で新山下へ向かって右カーブしています。
カーブ先は直線になって出口です


新山下側

明治末頃までトンネル出口付近は波打ち際でした。その後埋立てられて新山下町ができてます。

 

外へ出てふり返ると切り立った崖


その崖に沿っては現在URの団地建物がいくつも並んでいます


2本目のトンネル側へまわって

こちらも車の入っていく坑門の上に銘板が掲げられてます。

1本目と反対向きに歩くのでトンネルは左カーブ


北方町側へ戻ってきました


いちおうここまでです。
トンネルを通る道路は北方町の先500mほどで本牧通りにつながってます。

最近のごく普通の道路トンネルになってしまったので正直あまり興味をひかれなかった見晴隧道ですが、訪れた後になって平成の改修工事の概要を専門誌で見る機会がありました。
初代トンネルの延長が118mだったのに改修後154mになったことをはじめ興味深い事がたくさん書かれてました。
〈いろいろ事情を知ると別の見方ができるようになり、訪れたのは無意味じゃなかったと考えなおしております〉

 

ところでトンネル名称の『見晴』について、由来はよくわかりません。
トンネルの真上、山手の丘からみえる眺めがすばらしく見晴しがよいのでというのをいくつか目にしました。ならば検証。

見晴トンネル真上から新山下(海側)の眺め

ちょうど中央、草が高く覆い隠されてしまいましたが、下を見晴トンネルからぬけてきた道路が通ってます。

少し方角をずらしてみる

初代トンネル開通からはだいぶ年月が経ち、景色も変わってますがどんなもんでしょう。

 

丘の上の道、もう少し歩くと港の見える丘公園前を通ります。以下おまけになりますが
山手111番館建物付近

 

大して巡ってませんが、横浜の古いトンネルはここで一段落とします。