散歩の途中

散歩しながら観察して記録してちょっと調べて書くノート

中原街道を歩く その1 江戸城桜田門から西五反田あたり

東海道が整備される以前から存在した古い道、中原街道を歩きます。

最初から引用ですが

江戸と平塚の中原を結ぶ道は中原街道と呼ばれました。また相模を通るので「相州街道」、平塚で造られた酢が江戸城へ運ばれたので「お酢街道」などとも呼ばれました。やがて東海道が整備され、大名行列東海道を通るようになると、中原街道脇往還となり、以前の賑わいを失っていきました。しかし中原街道は沿線の物資や農作物の輸送などに欠かせない大切な道として、その後も人々の生活に深い係わりを持ち続けてきました。(川崎歴史ガイドから)

街道の発祥は古代といわれ、小田原北条氏時代にほぼ直線的に土地を切り拓いて道を通す本格的な整備が行われたそうです。
そのためでしょうか、現代に至るまでその道筋はあまり変化がなく、旧道として別ルートが残る区間は少ないように思えます。(個人的な印象)

中原街道」の名称は徳川家康入府後のものといわれます。名前の由来は、徳川の御殿が平塚中原と途中の小杉にあり、中原御殿と江戸城を結ぶ道からきています。

(先の引用と見解が異なりますが)東海道脇往還となってからも、江戸までの距離が短く、バイパスとして多くの人が利用していたという説もあります。ただ、途中の宿場は整備されなかったようです。

現在に至っても中原街道は大変交通量が多く、膨大な数の車がいつも行き交っています。
いまも道路拡張工事は進められていますが、歩道のない区間もあったり、危険な箇所も多数あると思われ、実は個人的にこの街道を歩く事を躊躇しています。(まだ全区間歩ききっていません)

でもとりあえず、江戸側の起点から歩き始め、多摩川を越えて、徳川御殿のひとつがあった小杉のちょい先、現在の川崎市中原区上小田中、川崎の”中原”までは歩いたのでノート化します。
ノートその1は江戸城桜田門から途中の五反田付近まで。ここまでなら道は整備されて、歩くにもさほど支障はなさそうです。

中原街道足あと地図(桜田門~川崎の中原)

 

江戸側の街道起点は、拡張された江戸城外濠にあった城門の虎ノ門といわれますが、それ以前は(外)桜田門だったようです。
現在も門が残り、江戸城から出発するみたいで調子がよさそうなので、桜田門を今回のスタート地点としました。

と言いつつ、天気良く、きれいだったものでこんなところから
内濠から皇居外苑、丸の内方面

f:id:miwa3k:20191014180921j:plain

 

桜田門は外桜田門と内桜田門、2ヶ所存在します。
桜田門は西の丸南側にあり、桔梗門とも呼ばれます。
桜田門は二重の門で、外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)、その間は外枡形という構造の防御性の高い城門になっています。

桜田門の2つの門を通って城外へ出て行きます。
城内側から渡櫓門遠景

f:id:miwa3k:20191014180926j:plain

現在はジョギングする人で賑わってます。

 

高麗門、城内側から

f:id:miwa3k:20191014180932j:plain

 

外側から

f:id:miwa3k:20191014180938j:plain

高麗門、渡櫓門は1961(昭和36)年に「旧江戸城桜田門」として国の重要文化財に指定されています。

 

桜田

f:id:miwa3k:20191014180958j:plain

桜田門を出た正面は警視庁、桜田通り(国道1号)をまず霞ヶ関方面へ歩きはじめます。
そういや桜田門外の変というのもこのあたりで起こったのですね。

 

警視庁を背にして法務省旧本館

f:id:miwa3k:20191014181008j:plain

(逆光甚だしいですが)赤レンガの建物、1895(明治28)年の完成、1994(平成6)年修復されて現在図書館として使用されています。

 

霞ヶ関2丁目交差点から皇居方面を振り返って

f:id:miwa3k:20191014181019j:plain

正面右は農林水産省、その向こうの高い建物は東京地方裁判所、左手前には外務省建物がわずかに、向こう側は総務省

閑散としているのは、週末、土曜日だからです。しかし、人っ子一人ってレベルですね。

 

霞ヶ関のお隣りは虎ノ門
虎ノ門交差点近く

f:id:miwa3k:20191014181025j:plain

相変わらずこの付近は工事中です。

ここはかつて江戸城の外濠があり、虎ノ門(虎御門)の城門が存在しました。そのため、中原街道の起点がこことされるようですが、江戸城の外濠がここへ拡張されたのは1636(寛永13)年以降ということで、家康入府時には存在せず、道も桜田門まで続いていたということになります。
江戸城築城以前へ遡るなら、道はさらにどこかへと続いていたのかもと想像しますが。

 

虎ノ門交差点で桜田通り(国道1号)からほんの一時的に離れます。現在は一直線の桜田通りですが、昔このあたりで道は細かくジグザグに折れていたということです。それらの道はほとんど残っていません。

1本隣りの道に入り、金刀比羅宮の横を通過します。
ビル谷間の拝殿

f:id:miwa3k:20191014181032j:plain

ここは元、讃岐丸亀藩主京極家の屋敷があり、1660(万治3)年江戸藩邸内に讃岐の金刀比羅宮を勧請したのがはじまりだそうです。

 

すぐに桜田通りに戻り、虎ノ門2丁目交差点。
虎ノ門ヒルズを見上げて

f:id:miwa3k:20191014181040j:plain

この周辺も相変わらず工事が続きます。

近くには愛宕山とか、昔はそびえているのが見えたのでしょう、けれど建物の背丈が山よりも高くなって桜田通りからははっきり確認できません。というかちっとも見えねぇ

 

そのまま神谷町を過ぎて先へ進み、飯倉へ。
飯倉交差点付近はちょっと高くなって、右側は麻布台、左は愛宕山から続く小さな台地、その鞍部、”峠”に交差点があります。

飯倉交差点やや手前から

f:id:miwa3k:20191014181049j:plain

飯倉のひとつ手前、麻布台1丁目交差点から西側へ入る細い道、ちょっとの区間が古い道の名残りらしいです。

 

突き当たりは雁木坂(がんぎざか)の上り階段です。(階段は街道の道すじではありません)
雁木坂

f:id:miwa3k:20191014181101j:plain

 

街道は雁木坂手前で左に折れ、すぐ飯倉交差点に出てまた桜田通り合流です。

飯倉交差点の先は下り坂(土器坂:かわらけざか)

f:id:miwa3k:20191014181108j:plain

(何だかガラス越しに写したようになってしまいました)

 

下りると赤羽橋へ出ます。

赤羽橋交差点から爽快な青空に東京タワー

f:id:miwa3k:20191014181135j:plain

 

慶応大学東門付近からも振り返って

f:id:miwa3k:20191014181147j:plain

 

こちらが慶大東門

f:id:miwa3k:20191014181155j:plain

 

桜田通り(国道1号)は次の三田2丁目交差点で右折、中原街道はその次の三田3丁目交差点で右折です。

三田3丁目交差点を右折し、この先進む聖坂方面

f:id:miwa3k:20191014181202j:plain

 

聖坂を上がります

f:id:miwa3k:20191014181211j:plain

標柱には「ひじりざか 古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。」

国道から一時的に離れたこの道は古奥州街道鎌倉街道、etc…と多くの名前で呼ばれ、古くからの道です。
江戸時代になって開かれた東海道はこの坂を通らず、海側の低地を通って品川方面へ向かっていますが、それ以前そちらはまだ波打ち際、しぶきをかぶって道をひらけず、こちら丘の尾根を通っています。

 

坂の途中、亀塚稲荷神社には中世の板碑が残されています。
表面が風化して見にくいですが、梵字が刻まれた板状の青い石碑です

f:id:miwa3k:20191014181220j:plain

鎌倉街道下道として歩いたときも取り上げましたが

解説板

f:id:miwa3k:20191014181229j:plain

東京都港区指定文化財 歴史資料 弥陀種子板碑
全国でも中世の関東地方に著しい信仰の特徴といわれる板状の秩父青石、すなわち緑泥片岩に刻まれた供養塔である。弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切りだした秩父型の板碑三基には、それぞれ「文永三年(一二二六)十二月」「成和二年(一三一三)八月」「延文六年(一三六一)」の造立年が陰刻されており、特に文永三年の刻銘は、港区に現存する板碑のなかでは最古である。これらの板碑は、以前は当神社付近にあったものとも、荏原郡上大崎(現品川区上大崎)にあったものともいわれている。なお、境内には他に二基の板碑があるが、これらは摩耗がはげしく、造立年などを知ることはできない。
平成七年九月二十六日   東京都港区教育委員会

 

亀塚稲荷神社のちょっと先は、ユニークな形の建物
クウェート大使館

f:id:miwa3k:20191014181237j:plain

以前、建て替えるという噂を耳にしましたが、まだ使用されています。

 

大使館の少し先で坂道は尾根筋に出て平らになります。
海側はすぐに亀塚公園、内側から

f:id:miwa3k:20191014181249j:plain

通りに面した塀が立派ですが、元は華頂宮(”課長飲み屋”と変換されるのはいかがなものか)でその名残り。宮邸跡の公園内では”亀塚”が古墳の可能性を指摘され、付近では貝塚も見つかっています。

 

聖坂の通りから横へ下る幽霊坂はこの好天で幽霊の出る幕もなく、まっすぐ進むと伊皿子(いさらご)。

伊皿子交差点先の和菓子店松島屋さん

f:id:miwa3k:20191014181258j:plain

お店の存在は知っていたのですが色々疎いものでこういうことになるとは知りませんでした。豆大福

すぐ隣りは平成の上皇夫妻の御屋敷となる、今は無人高輪皇族邸、それ以前は高松宮邸。通りに表門が面していますが、見た目は以前と変化ないようでした。周囲の商店街には「奉迎」の提灯が下げられていて、そろそろこちらへ移られるのでしょうか。

 

伊皿子交差点の先、現在は二本榎通りと名前が変わり、高輪。
一帯は特に歴史好きの方々には見どころ満載と思います。(自分はもっと勉強してから出直したいと思います。)

高輪警察署前交差点付近の二本榎通り

f:id:miwa3k:20191014181310j:plain

この付近の街道に昔、2本の榎があったので二本榎というのだとか。

左端に見える特徴的な建物、高輪消防署二本榎出張所、現役の消防署です。

 

以前歩いたときに建物正面からの写真を出したので、今回は内部に飾られていた古い消防車を

ニッサン180消防ポンプ自動車

f:id:miwa3k:20191014181318j:plain

本格的な国産消防ポンプ自動車の第1号といわれています。昭和16(1941)年に製作した後、高輪消防署に配置され、昭和20年5月から昭和39年10月までの19年間、地域の安全を守り続けました。戦時中には、空襲火災の消火活動でも活躍しました。 東京消防庁高輪消防署二本榎出張所

消防署建物正面の写真はこちらの中に

鎌倉街道を歩く 下道その3 丸子から大手町 - 散歩の途中

 

二本榎通り、もう少し先へ進みます。

高輪3丁目交差点で右折。ここをまっすぐ行くのは鎌倉街道下道、一旦分かれますが中原街道はずっと先で再び合流します。
右折するとすぐ桜田通り(国道1号高輪台交差点、また国道に戻ります。

高輪台交差点

f:id:miwa3k:20191014181340j:plain

ここを左へ行きます。交差点は高輪台、道路向こうは白金台で、たしかに台地の上ですが端っこ。坂を下りて五反田へ向かいます。

 

国道1号の坂を下ると五反田(品川区東五反田1丁目)

f:id:miwa3k:20191014181352j:plain

現在の地名的には港区から品川区へ入りました。

 

すぐ横は雉子(きじ)神社、この日はお祭りでした

f:id:miwa3k:20191014181414j:plain

雉子神社御祭禮、細い歩道は露店の準備でいっそうせまい。
社殿は現在ビルの中にあるとかで、よくわかりません。

 

五反田駅付近

f:id:miwa3k:20191014181424j:plain

古い道は正面のガードをくぐらず、駅前を斜めに横切って南隣りの山手通りへ。

 

駅前を横切り山手通り側へ出て、目黒川を渡ります。

目黒川、大崎橋から

f:id:miwa3k:20191014181428j:plain

東急池上線五反田駅、向こうに山手線も。

 

大崎広小路交差点

f:id:miwa3k:20191014181442j:plain

左の山手通りから来て、横切る道も山手通り。とりあえずそういうことになってます。

 

先へ進むと中原口交差点

f:id:miwa3k:20191014181448j:plain

ここで再度国道1号に出ますが、斜めクロスに交わる変形交差。左下から来て先で右向こうに入っていくのが中原街道(東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線)になります。

ここではじめて現在の中原街道の名前が出てきて、国道1号とはここで分かれます。

この付近で都道2号は中原街道新道ですが、旧道がその1本北側の道としてしばらくの区間残っています。
中原街道に入って(品川区西五反田6丁目)

f:id:miwa3k:20191014181453j:plain

右向こうにお地蔵様がいます。
ぐっと細い道になりますが、こちらを歩きます。

 

でも長くなったので、この先は次回ノートとします。