散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

目黒川・深堀川・小沼・大沼とさかのぼって歩く

目黒川、深堀川(ふかぼりがわ)、大沼と小沼、自分の中で漠然と独立に存在していた水辺が、実は一連の流れとしてつながっていた事を最近知りました、というか気づきました。
大沼の水は小沼へ、さらに深堀川を経て目黒川へ流れていく(実は過去形で『流れていた』が正しい)のです。

そんなことに気づいたら俄かに興味が湧いてしまい、下流から上流へとたどって歩いてきました。

まず最初『目黒川』ですが、東京目黒で桜の名所ともなってるあの川ではありません。横浜市瀬谷区目黒町で境川に合流する小さな川、流れているのは隣りの大和市内です。

最初は合流点、目黒町側からです。

正面の橋が目黒川管理橋といい、手前境川が横浜市大和市境界。

ちなみに背後はすぐ近くに国道246号〈車の走行音が結構響きます〉、近くに『目黒交差点』が存在します。

 

400mさかのぼると街道の宿場跡へ
大山街道(矢倉沢往還)下鶴間宿

前を横切るのが大山街道。〈江戸青山と相模国大山、その先足柄等にのびていた街道で現在の246の旧道にもあたります〉

街道側から

右の柵の下を目黒川。

ここは下鶴間宿の古い建物などがいくつか保存されています。
段丘崖上に見えるお寺(鶴林寺)もそれらと調和してよい風景になっています。

〈だいぶ苦しいけど〉下鶴間ふるさと館(旧小倉家住宅)から鶴林寺の方向

いちばん高いところにちょこんとお寺の屋根が写ってました。

右は再現された高札場〈けど、よくわかりませんね〉

 

大山街道の交差から250mほど上流、さらに坂の途中から下流方向

正面道路の間、目黒川暗渠(トンネル)出口です。
手前はちょっとした起伏があり、川はかつてその谷間をながれてましたが住宅開発で整地、暗渠化されてます。

 

200mほどさかのぼったところに暗渠入口があります。
その上から上流方向


これよりしばらく『つきみ野』の住宅地域内を通ります。
住宅地内から(大和市つきみ野)

V字になった谷底を右から左に目黒川が流れてます。川の左右両岸にははっきりした谷地形が続いてます。

東急田園都市線線路と交差

一帯が宅地開発された1970年頃、川も梁つき3面コンクリート張り(現在の姿)に変わったようです。

線路をくぐるとまたしばらく暗渠区間、いわゆる蓋がけした暗渠道ではないのですが『谷底』地形をたやすく追って行けるので地図は不要です。

また流れが顔を出して
つきみ野3号公園脇

正面はまた一段高くなってますが、横浜水道みちと交差します。

水道管との立体交差

左の太い管は横浜市上水道となる水が通ってます。(計4本の水道管が通っていますが見えているのは1本)
下をくぐる目黒川はこの左(上流側)からまた暗渠。

明治20年頃、日本近代水道のはじまりとして相模川から水をひいた『横浜水道みち』、現在水道管を埋設した地上部は遊歩道、公園となっています。


目黒川は水道みちとの交差より上流は完全に暗渠になり流れは見えません。

つきみ野2号公園横から

ここも立派なV字の谷、かつては谷底に川の流れがあったはずです。今は流れが見えないどころか、この上流側にある深堀川と分断されてしまったので水の流れがここに存在するのかわからなくなってます。

ただ、川跡と推測できる道路の蛇行カーブと意外に深い谷間は残っています。

 

さかのぼっていくとまもなく大和市から相模原市南区へ。

ややひらけた場所へ出て
深堀中央公園

深堀(ふかぼり)川の流域にはいってきました。

この公園は深堀川の調節池でもあります。公園正面奥から右に向かって深堀川が流れ、公園との境界部に馬の背のような越流提が見えます。(深堀川洪水時に越流提を越えて水が公園内にプールされます)

右へ流れていく深堀川はトンネルに吸い込まれます。

深堀トンネル入口

1968(昭和43)年、トンネルの完成により深堀川はここで台地をくぐり、相模原市内(南区上鶴間本町)で境川へ放流されるように流路が変更されました。
トンネル建設目的は相模原市の下水道整備と大和市内つきみ野地区宅地開発事業とされています。

結果深堀川は相模原市内で流路が巻き取られ、目黒川とは分断されることになりました。

 

深堀トンネルは国道16号の下などを通り、境川の段丘崖に出てきます。延長は約310m。

ここが運悪く境川調節池造成などを含めた河川改修工事中。
深堀トンネル出口付近

前に橋がありますが、その下にトンネル出口があるはずです。崖面のすべり台的カバーは川の流れとは直接関係ないはずですが詳細は不明です。

境川への放水路部分を覗く

トンネルから出てきた深堀川はこの背後すぐのところで境川に放流されてます。

まわりみんな工事中のため、ここは撤退。

 

深堀中央公園まで戻ります。

下谷戸橋から公園内への越流提など

右側護岸が少し低い部分が越流提。

背後上流へ進みます。

流れは細かく蛇行しながらしだいに左右狭くなっていく谷の底を流れます。
東林間橋上から下流方向

谷底をもう一段掘り下げたような場所。かつてこのあたりは護岸から湧水も豊富にあったと思われます。

 

東林間橋から流路距離的には800mほどさかのぼったところ(南区相模大野)

深堀トンネルから上流はずっと流れが見えてましたが、これより上流は暗渠となります。
またここまで来ると水面まで近くなり、周囲の谷も浅くなったように見えます。

 

暗渠上は道路になりその先は自転車置き場

少しの坂をあがってここへ。ここまで来ると川が削った谷間はなくなり周囲は平らになります。

暗渠になったあたりが深堀川の実際の起点だったといえるのではないでしょうか。おそらくそのあたりで周囲の湧水などをたくさん取り込んで水量が増加していったのかと思います。

自転車置き場の先で大きな道路にぶつかると暗渠の痕跡は消えてしまい、相模大野駅前へ。
小田急線相模大野駅南口から

正面の道沿いに小さな流れがあったようです。流れはちょうど駅ホームの下を横断して北口へ出ます。
そちらもまったく痕跡はありません。

今は都市開発されて大きな街になっている相模大野周辺ですが、以前は森林とわずかの畑で人家もほとんどなく、その中を大沼、小沼からの細々とした流れが時にあったり、涸れたりしていたと想像されます。

相模大野付近の環境を変えたのは昭和初期の小田急線の開通もありますが、同じころできた日本陸軍関連の施設も大きく影響しています。
現在の駅北側には陸軍通信学校、陸軍病院などができ、その敷地内を通過していた細流は施設の完成後地図から消えてしまいました。

現在もそれら施設跡地の正確な流路は確認できないのですが、それより上流側にあたる場所には痕跡が残ってました。

駅から北へ4~500m、相模大野中央公園内部

陸軍病院、戦後接収され米陸軍病院があった場所の一部です。このあたりの流路は今もまったく不明。

 

旧軍用地北側へ出ると現在は住宅地、そこから市道を渡ったところにあったすき間を見逃しませんでした。GJ
この建物の間が大沼、小沼からの流路跡(相模原市南区文京)

相模大野駅南側から消えていた流路跡がまた現れました。
すき間が狭いので先へまわって

 

文京交差点近く

蓋をかけられた暗渠水路が現れました。この背後がすぐ小沼のあった場所、そこから流れ出た水がここを通っていました。
現在は小沼もなく、水が流れているとすれば雨水下水道としてでしょうか。

市道をはさんで同じ場所を

小さな橋になっていたようです。

ここからふり返った上流側も蓋をかけられた暗渠が続き、埋立てられて住宅地となった小沼の外周をまわっています。

 

小沼西公園に立つ碑

この公園もかつての小沼外周部にあり、手前道路には暗渠が通っています。

 

沼の外周道路?を一周しているところ

円形に近かった沼の形に沿ってほぼ一定の曲率で道路がカーブしています。

沼の外側へ出ていく道

沼の外側とはこのように段差が明瞭になっているところがあります。

つまり小沼はピット状に凹んだ窪地(差し渡し150~200mほど)に水が溜まってできたのです。(次に向かう大沼も同じ)

 

小沼から大沼へ向かう途中も暗渠道があります。大沼が最初の水源であふれた水が小沼へつながっていました。

小沼側の流入口は「小沼」の碑があった公園付近。そこから西へ、隣接する若松3丁目の住宅地内を通って
若松3丁目住宅地内の痕跡

左側歩道部分、宅地開発で直線に整形されてますが大沼小沼連絡水路の跡かと。〈途中マンホールもある〉

 

さらに大沼に近づくと
歩道にもなっている暗渠道

歩道入口には「国有水路用地につき~」なんていう立て札がたってました。

くねくね蛇行しながら約400m

前方の(ネットのある)グラウンド先が大沼からの流出口。

 

このあたりから水が向こうに流れ出ていたようです(相模原市南区東大沼2丁目21)


こちらも現在沼は埋められて住宅地などに変わっています。沼の淵に沿って一周してみました。

沼の外へ出ていく道との分岐点

小沼同様ここも沼の外へ向かって土地が高くなってます。ピット状に窪んだ土地に水が溜まって沼になったのでしょう。
大沼は差し渡し300m程度のほぼ円形の窪地だったようです。

 

沼の北西端には大沼神社があります。


内部は本殿を囲む堀がめぐってます


背後から失礼


神社脇に大小『大沼』碑

大きいほう上部「大沼 水田記念」とあるようです。

大沼神社周辺が今回たどった流れのはじまる場所。
最近自分の脳内で一本につながった水の流れをたどった記録はここまでとします。

 

ところで大沼、小沼があった相模原台地(相模野台地)にはほかにもたくさんのピット状窪地(「一級スリバチ」地形と言う人も)が存在します。
大半は水の溜まることもなく沼とも池とも呼ばれなかったようですが、逆にたくさんの水をたたえていたら武蔵野台地上の井の頭池や善福寺池のようになっていたのかもと興味深いところです。

また大和市の中央林間駅はそんな窪地(一級スリバチ)の底にあります。小田急線が窪地の上に盛り土をしてレールを通し、駅ホームも盛り土の上にあります。
駅前にあるマンションなども同じ窪地底に建ってますし田園都市線ホームに至っては窪地の底をさらに掘り込んだ地下にあります。
そんな無駄知識を最後に披露して終わりにします。