羅漢寺川(らかんじがわ)は目黒川の支流のひとつで、東京目黒区内を流れます。
1960年代にはその支流も含めて暗渠化され、現在一部は緑道(羅漢寺川プロムナード)として整備されています。
羅漢寺川流路・写真撮影位置(丸囲み番号と文中番号が対応)
梅雨で出掛けそびれた日の近場、往復とも徒歩で行ってまいりました。交通費0円。
勝手知ったる、知ってたはずの道を歩いてましたが、狙いから微妙に逸れた場所へ出現しました。
(1)品川区小山台2丁目付近の住宅地内
道路前方が下り坂、正面向いた軽自動車あたりを羅漢寺川が横切っています。
坂を下りたところは羅漢寺川プロムナードから支流の六畝川(ろくせがわ)プロムナードが分かれる場所、つまり羅漢寺川と六畝川の合流地点でした。
ちょっと中途半端な場所なので、まず羅漢寺川、川の上流端へ飛んでそこから下る方向ではじめます。
(2)羅漢寺川上流端
車止めから下流方向。傾斜を少し下り、細い路がはじまっています。
元はこの近くに湧水があって川の源となっていたそうです。
(3)下へおりて振り返り
都道にぶつかって、その上流方向には何も痕跡はありません。
道路向こうは目黒区目黒本町4丁目。
(4)少し下った地点
ここもいちおう羅漢寺川プロムナードの一部なのでしょうか、非常にせまくてもはや”通路”です。羅漢寺川の最初はU字溝を流れる程度の水量しかなかったのでしょう。
ちなみに右側手前は暗渠化前の護岸がそのまま残っているようです。
(5)”ひとの家の裏”感も強いです
六畝川との合流地点まで戻ります。
(6)合流地点の交差点
左の白い車止めの向こうから羅漢寺川、自転車が入っていく、にぎやかなタイルが敷かれた道が六畝川(プロムナード)、水は向こうから流れてここで合流していました。
支流の六畝川をたどってさかのぼります。
こちらは流れが道路と並行していたからか、”表側”な場所を通ります。
(7)にぎやかタイルの六畝川プロムナード
羅漢寺川上流よりもこちらの川幅のほうが広そうです。
(8)流れの向こう側、土地が高く階段がついてます
このへん川と交差する一般道も下り傾斜になって川側へ下りてきます。やはり川は低きを流れるのです。
(9)しばらくさかのぼると横の車道がなくなり、歩道が奥へ入っていきます
ここを入って行くと道は左に曲がり、その先に清水稲荷神社があります。
(10)清水稲荷神社と六畝川の歩道
清水稲荷神社 目黒本町1-1
この稲荷は明治30年(1897)頃から、東急バス駐車場のあたりにあったといわれ、その付近に真夏の旱天(かんてん)でも清水が涌き出していました。この涌き水が稲荷の社名の源となったと思われます。
大正12年(1923)の大震災以後、このあたりにも多くの移住希望者があり、地主さんたちはその要請に応えて、計画的な土地分譲をしました。土地分譲事業は、この稲荷様を基にし、土地の発展を祈念しました。そのため、京都伏見稲荷より御霊代を拝受し、社殿や鳥居も奉納されました。
その後、昭和27年(1952)に篠福太郎氏が39.7㎡(12坪余)の土地を寄進されましたので現在地へ移築されました。また、この年、太田喜八郎氏が鷹番小学校へ寄進したご真影奉安殿を、大へん苦労して移築し拝殿としました。この稲荷は、家内安全、商売繁盛、芸能上達などのご利益があるとともに、縁結びの神としても有名で、初午には甘酒がふるまわれ、盛んな祭りが行われます。
平成5年3月 目黒区教育委員会
清水が湧き出していたという東急バス駐車場というのは、もうちょっと上流、そこの湧水が六畝川の源流になっていたそうです。
(11)上の写真から背後に少し行くとこんなところへ
右側フェンスにぶつかって道が途切れます。その向こうは稲荷の解説に東急バス駐車場と書かれていた、東急バス目黒営業所と車庫です。
(12)目黒通りに出てバス営業所方向
立体駐車場になっているところからバス営業所の敷地、清水車庫です。
そちらに現在湧水の痕跡は残っていません。
支流の六畝川はここまでです。
また羅漢寺川と六畝川の合流点へ飛びます。
道幅というか川幅、広がりました。
プロムナードはこの先”林試の森公園”の北側を通っていきます。
林試の森は1978年まで林野庁林業試験場があったところ。当時試験場にあった樹木が今も残されています。
ここから流れ出す羅漢寺川の小さな支流があり、公園の南側から中央部にかけて谷地形ができています。
(14)羅漢寺川プロムナード
右側は小高くなっていて林試の森公園、左側は住宅地で、地形的には谷戸地形の谷底部分です。
運悪くプロムナードに接して工事をしている箇所があり、車輛の進入や通行規制がありました。そのあたりは急いで通過です。
とりあえず川を下って目黒川との合流まで行き、あとでまた戻ってくる形にします。
羅漢寺川本流となるプロムナードは林試の森公園の縁に沿って進みますが、途中で一般道に吸収され、暗渠的にあまり見所はありません。
ひとつ北側の路地に入ります。そちらは並行する支流(入谷川)の川筋になりますが、あまり整備されてなく、いかにも暗渠の道、となっています。
下って行くと
(15)非常に強力そうな擁壁が現れます
足元が暗渠道。
そうかと思うと結構アバウトなのも残ってました。
(16)瓦礫、廃材積んだのでしょうか?
だんだん「裏側」的風景になってきました。
(17)マンホールの羅列
(18)崖下から湧水です
(19)近寄って
最近少し水量減ったようにも思いましたが、鉢の手前で直接地面に落ちている水もありますね。
(20)途中一般道と接している箇所
水は車止めの向こうから手前に流れ、道路との境界に古い護岸の跡が頭を出しています。
背後へ細い暗渠道が折れ曲がりながら続き、目黒不動尊のなかへと入っていきます。
(21)目黒不動尊脇へ出る
風情のある?暗渠道は一応ここまで。この先不動尊前を暗渠になった流れが通過し、羅漢寺川本流とも仁王門前で合流しているのですが、その痕跡ははっきりわかりません。
本尊の手前、崖下に
(22)水掛不動、独鈷の滝、垢離堂など
目黒不動尊、正式名は泰叡山瀧泉寺と称し、天台宗の寺院。開創は808(大同3)年、円仁(慈覚大師)によると言われています。昔は江戸庶民の一大レジャースポットでもあった場所ですね。
(23)龍の口から流れ出ている独鈷の滝
崖からの湧水を下の池に落としています。昔は行者の水垢離の場だったそうです。
ここの水も羅漢寺川へ導かれていると思われます。
一方、仁王門とバス通りを挟んだ反対側にも池があります。山手七福神のひとつ恵比寿神を祀る、三福堂の池といいます。
(24)三福堂の池
見たところこちらは井戸水をくみ上げているようです。
手前の水鉢は立て札に「金明湧水・福銭洗い」とありましたが、だいぶ鉄錆び色がついています。湧水としても独鈷の滝に湧く水とは違うものでしょう。
羅漢寺川(の暗渠)は目黒不動尊仁王門前を通過し、阿弥陀堂などの周囲をその敷地に沿って流れていきます。
痕跡が薄いですが流路上と思われる外周の道路を行きます。
(25)目黒不動尊外周の道路
先の角を曲がると一般道に出て五百羅漢寺(羅漢寺)の前を通ります。
(26)羅漢寺前付近から
羅漢寺川の由来はこちらです。
現在は目黒不動のほうがずっと名が通ってますが、川はここから名前がつけられています。
こちらの羅漢寺には現在305体の羅漢像があるそうで、いずれも製作は元禄時代、松雲元慶によるものです。
(27)山手通り羅漢寺交差点
川のほうはだんだん痕跡がうすくなってしまいます。実際はこの交差点直下に羅漢寺川の流れはなく、少しずれたところから山手通りを横断しています。
(28)正面の横断歩道を渡り、流れの先へ
背後が山手通り。通りの向こう、延長線上にも建物の隙間に流路跡らしきものが見えますし、ここで間違いないでしょう。
道なりに先へ進むと目黒川が見えてきます。
(29)目黒川手前にて
緑の街灯の先で一般道を横切り、フェンスの向こうで目黒川と合流しています。
川向こうは目黒雅叙園ビルです。
目黒川の対岸へ渡って合流点を確認しました。
(30)羅漢寺川暗渠出口、目黒川合流
羅漢寺川本流はここまでです。
支流の入谷川上流へさかのぼっていきます。入谷川は崖下の湧水や整備されていない暗渠道が続いていた川です。
(31)林試の森公園せせらぎ門近く、目黒区下目黒5-34
入谷川全長の半分くらいまで戻ってきました。
川の下流方向を見ています。この付近は最近改修されたようです。暗渠感がないですね。
上流側にさかのぼっても同じような風景が続きます。
(32)先に車止めがないと川跡とはわからないかもしれません
しかもこの付近、軽く坂道です。
(33)その先、向こうの細道へ入ります
鉢植えの向こうが暗渠道、その上流側は道路を渡りますが、その先微妙に上り坂になっている以外痕跡は見つけられませんでした。
横切る道は元競馬場通り、細道の中は昔の目黒競馬場の敷地、馬場になります。
馬が走る馬場を小さいながら川が流れていた、というか競馬場近辺が川の源とされるので、水が湧いていた可能性もあるのですね。
まさか川の流れのため、コース途中に凹みがあったとは思えませんが、どういう処理をしていたのでしょう。
当時の風景を見てみたいです。
目黒競馬場は1907(明治40)年から1933(昭和8)年まで存在していました。
ここからはおまけです。
目黒競馬場跡、現在は住宅地になっていますが、当時のコース外周部分に沿って弧を描いた道が残っています。
(34)(35)(36)
1時から6時くらいまでの角度、円弧が道として残っているのが地図を見てもわかります。