川をよく歩きますが、人工的に開削された水路も歩きます。水路歩きのカテゴリーが『水のみちをあるく』です。
東京の代表的な水のみち、玉川上水は川、水路歩き最初の頃に歩きました。
江戸時代前期1653(承応2)年に開かれた玉川上水は現在の羽村市、多摩川に設けられた羽村堰で取水し、武蔵野台地上を流れて(現)新宿区四谷三丁目、四谷大木戸に達します。その延長43㎞、開通当時は1本の水路でした。
その後、野火止用水を手始めとして上水水路途中あちこちに新たな分水路が設けられます。もっとも多い時には33の分水が存在したそうです。とてもそのすべてを訪ねることはできませんが、いくつか代表的な分水路に足を伸ばしたのでそちらも併せて振り返ってみます。
訪問した分水路は野火止用水、品川用水、千川上水です。
時代が下ってから整備された淀橋浄水場への新水路や羽村堰近くから村山・山口貯水池への東京水道導水管路、貯水池からさらに東村山、境浄水場への導水管が通る境・狭山緑道も羽村堰からの水が流れているので含めました。
今回水路を取り上げましたが、水路と河川で異なる特長など書いてみると
自然の河川は上流いくつもの小さな流れがしだいに集まって大きな1本の本流を形成しますが、人工水路はまったく逆で、先へ行くほど流れが枝分かれして多くの流れができます。水を利用する目的地が流れの先端(末端)にあるからです。
また川は流れが土地を削るため谷底の低地を流れますが、人工水路は高い位置を保つように流路を設定していることが多く、玉川上水はそれが特に顕著で武蔵野台地のなかでもちょっとした尾根筋に水路をひらいていたりします。ポンプ設備などない時代に台地上で水を使うには低地に下ろさない工夫が必要でした。
玉川上水と分水路など、流路地図
玉川上水〈たまがわじょうすい〉
多摩川羽村取水堰から四谷大木戸(新宿区四谷三丁目)まで江戸時代に開削された人工水路です。
羽村堰から小平監視所(玉川上水駅付近)までの水路は現役で大量の水が上水路を流れているのが見られます。その先は東村山浄水場へ地下送水管が伸びています。
小平監視所から玉川上水下流側は現在も水路が残され清流復活事業により通水されています。多くの場所で緑道も整備されています。
初めて全区間を歩いたこの時は四谷大木戸から遡って羽村堰へ歩いてます。
四谷大木戸から三鷹
井戸ポンプがこんなところにあったのですね。
三鷹から拝島
小金井公園付近五日市街道沿いの水路
立川市砂川4丁目金毘羅橋上・現役の水路
拝島から羽村堰
宮本橋から(福生市加美)
野火止用水〈のびどめようすい〉
玉川上水小平監視所から分岐して埼玉県新座、志木市方面へのびる水路。玉川上水開通直後に分水の許可を受けて工事を開始、2年後には完成通水しています。当時の川越藩主松平伊豆守信綱によって開削がなされ「伊豆殿堀」の別名があります。
現在用水路としての利用はありませんが清流復活事業により水路跡に水が流されています。
春、花爛漫の時期に歩きました。
東村山市富士見町付近 ずっとせせらぎが続きます。
都県境から志木駅付近まで
本流と平林寺堀分流点・野火止用水史跡公園付近(埼玉県新座市本多1丁目)
下流の方では堀がいくつかに分岐しています。
平林寺境内林脇の歩道から(新座市野火止3丁目)
志木市に入って新河岸川柳瀬川先まで用水路が続いていますが途中水路跡が不明瞭で末端まで辿れていません。最下流部にはいくつか史跡も残っているのでいつか繋げて歩きたいと考えています。
品川用水〈しながわようすい〉
玉川上水から現在の武蔵野市境3丁目付近で分水され、現在の品川区内各所へ供給された農業用水路です。素掘りの水路で開通は1669(寛文9)年。明治以降は都市化がすすみ戦後廃止されて跡は道路などに変化、分水口跡と品川区内以外はほぼ痕跡も残っていません。
2回に分けて歩きました。
玉川上水分水口から
品川用水取水口の堰跡、流れは玉川上水
ここからは武蔵野、三鷹、世田谷、目黒とひたすら道路を歩きました。水路痕跡なし。
主に品川区内、支流含めてあちこち
こちらの屋敷へも品川用水から水がひかれていたようです。大口ユーザー。
品川区内も目ぼしい痕跡はあまり見つけられなかったせいか用水とはあまり関係ない羅漢寺川暗渠をこの日後半歩いてました。
千川上水〈せんかわじょうすい〉
玉川上水から現在の武蔵野市桜堤付近で分水し、江戸城北地域(小石川、本郷、上野、下谷、浅草など)の上水、農業用水として使用された水の水路です。開通したのは1696(元禄9)年、明治以降は工業用水としても利用され1971(昭和46)年まで現役でした。
現在は上流部に玉川上水から分けられた水が流れ、下流部は(水は流れていない)暗渠、その上は千川通りとなっています。
上流部、水路に流れが見える範囲
玉川上水からの分岐点近くは五日市街道上下線の間に水路と緑道があります。
〈交差する道路があると先へ横断しにくくて閉口したのを思い出します。横断歩道コの字に3回渡らなきゃなんない〉
正面、短い区間ですが水路跡が歩道として残っています。この手前では大山ハッピーロード商店街アーケードを斜めにばっさり横切っています。
玉川上水新水路〈たまがわじょうすいしんすいろ〉
明治の頃、玉川上水を代田橋付近で分水し当時新設された淀橋浄水場に導くために築堤して造られた水路です。
関東大震災で損傷し、1937(昭和12)年新たな水路を建設したので利用期間は短かったようです。水路跡は築堤などが残り道路になっています。
これの後半部です。
上を横切るのが新水路(現在は道路)、築堤の一部がぶち抜かれてトンネルになってます。これは本村ずい道
ここには元々川の小さな流れがあったためトンネルを設けたようです。
上部の道路(通称水道道路)沿いには長い区間に渡って古い都営住宅がほぼ一列に並んでいます。
東京水道導水管路〈とうきょうすいどうどうすいかんろ〉
現在、多摩川羽村堰で取水した水の一部は堰近くに設けられた水門からポンプアップされ、地下導水管で山口貯水池(狭山湖)へ運ばれます。
その工事では導水管埋設地の上にレールを敷設し鉄道で資材運搬を行いました。その跡は緑道(自転車道)となって現在も残っていて、そこを歩きました。緑道地下の導水管は現存しています。
玉川上水を羽村堰へ歩き、続けて東京水道導水管路を狭山湖へ歩きました。
ずっと自転車道、緑道が続きますが途中横田基地内を横断していて迂回を強いられます。
羽村市神明台神明緑道
道は途中、狭山丘陵の横っ腹に掘られたトンネルをいくつかくぐります。その先に
狭山湖(山口貯水池)
狭山・境緑道〈さやま・さかいりょくどう〉
狭山湖、多摩湖(村山・山口貯水池)に運ばれた多摩川の水はそこに接続された導水管で東村山浄水場、境浄水場へと運ばれます。その地下導水管上が「東京都道253号保谷狭山自然公園自転車道線」の直線部、10.7㎞にわたる直線道路(狭山・境緑道)が続いています。
水道施設としての工事は大正12~14年(1923~25)に行われ、のちに緑道(自転車道)として整備しています。
この道は玉川上水を歩くより前に歩きました。ごく初期の頃です。
村山貯水池(多摩湖)取水塔〈絵が傾いてますね〉
ここから水が浄水場へ運ばれます。
導水管路途中の『馬の背』
石神井川との交差地点です。川が谷になって窪んでいるため導水管の高さを確保するため土手を築きました。土手はせまく危険なので自転車道は右側を地形に倣って通されています。
今回は以上です。
東京水道導水管路や狭山・境緑道は近代になってから造られた玉川上水のバイパスですね。東村山、境浄水場からは現在も都内各所へ上水道が分配されています。