今回から文京区・白山台地にかかる坂道をいくつか巡ります。
白山台地は前回まで辿った小石川台地の北側に位置し、小石川(千川)の谷が間を通ってその川跡は現在千川通りの道路になっています。
白山台地北東側にも谷があり、そちら側に向かっても坂道があります。そちらの谷間には現在白山通りが通っています。
今回たどる坂道は千川通りから折れて北東方向に台地へ上がっていく、猫又坂、砂利場坂、宮坂の3つです。
地名ではいずれも千石3丁目になります。
◆猫又坂〈ねこまたざか〉
別名:猫股坂〈ねこまたざか〉、猫貍坂〈ねこまたざか〉
不忍通りと千川通りの千石3丁目交差点から不忍通りを東に上がっていくのが猫又坂です。
西に上がると白鷺坂、この交差点で2つの坂道が対向しています。
昔は細い道でしたが、不忍通りに東京市電を通すにあたって道路改修されたため幅広く、その際に傾斜も緩やかにされたことが見てとれます。
白鷺坂側から千石3丁目交差点と猫又坂方面
交差点からすぐに上りとなりほぼ直線、傾斜は緩やか、傾斜の変化は坂道通してありません。長さは250mほどです。
交差点・坂下から望む猫又坂
坂をあがりはじめてすぐのところに坂名解説標識があり、その隣りに『猫又橋 親柱の袖石』とその解説板があります。
坂名標識
猫又坂(猫貍(ねこまた)坂、猫股(ねこまた)坂) 千石二丁目と三丁目の間
不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
むかし、この辺に狸(たぬき)がいて、夜な夜な赤手拭(てぬぐい)をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。
文京区教育委員会 平成11年3月
解説文中の「氷川下交差点」は「千石3丁目交差点」に名前が変わったようです。
猫又橋親柱の袖石、標識と
猫又橋 親柱の袖石(そでいし)
この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれた。
江戸の古い橋で、伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は猫貍橋(猫又橋)といわれるようになった。猫貍は妖怪の一種である。
昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。
大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。それで昭和9年千川は暗渠になり道路の下を通るようになった。
石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。
ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。
騒がしき蛙(かわず)は土に埋もれぬ
人にしあれば如何に恨まん
文京区教育委員会 昭和58年1月
猫又橋跡は坂を少しだけあがったところにありますが、これは道路改修で坂下側に盛り土をしたためと思われます。
猫又橋があったと思われるあたり
ちょうどこの目前に橋がありました。道路両側には川跡が確認できます。現在は細い道になっています。
坂半ばから上方向
坂の半ばから上は両側が切通しになっています。
道路反対側から見ると
切通しの壁面、その際(きわ)を通っている道のガードレールなどから改修前の地形がわかります。以前はもっと傾斜のきつい坂道でしたが、坂上側を切通し、坂下側を盛り土して傾斜を緩くしています。そのため坂長は伸びましたが。
坂上近くからその先
不忍通り、目白通りとの分岐点から坂道ばかりでしたがこの先は白山台地に上がって本駒込の先までは平坦な道です。
◆砂利場坂〈じゃりばざか〉
猫又坂と白鷺坂が対向する千石3丁目交差点から千川通りを北方向に200m弱、右(東)に折れる細い道の先にあります。
長さは150mくらい、坂上付近で傾斜があまりなくなりますが、その先もゆるーく上がっていきます。一方坂下側には傾斜のややきつい部分もあります。
標識はありませんが、文京区の資料「ぶんきょうの坂道」に『名のある坂道』として掲載されています。
それによると元々この一帯は伝通院の寺領でしたが、護国寺造営の際に砂利をここの斜面でとった《砂利場》であったことに由来しているようです。
坂下の手前、千川(小石川)川跡あたりから
正面へ上がっていくのが砂利場坂です。
背後は20mほどで千川通りです。
上りはじめ
半ば
このあたり一番傾斜があります。もう少し上がると道が右に折れています。
その先
『く』の字に曲がって少し先でほぼ坂上です。
大体同じ位置から坂下方向
上から下を見るとだらっと下がっていく感じに見えます。
坂上近くからその先
道路右側のカーブミラー付近から傾斜が緩くなりますが、そこからもわずかに上がりながら先へ続きます。
◆宮坂〈みやさか〉
千川通り千石3丁目交差点から通りを北へ330m、砂利場坂の坂下から150m、千川通りを右(東)に折れたところにあるのが宮坂です。
猫又坂、砂利場坂、宮坂は3つ平行に並ぶ姉妹坂〈なんて言い方あるのか?〉。昭和になって開かれた道が宮坂で、三姉妹の末妹になります。
標識はありませんが、文京区の資料「ぶんきょうの坂道」に『名のある坂道』として掲載されています。それによれば坂名の由来は、明治時代より有栖川宮の屋敷があったところを昭和になって宅地開発し、その際に開かれた坂道を有栖川宮にちなんで『宮坂』と呼んだことによります。
直線の坂道で長さは200mほど、傾斜はさほどきつくありません〈『緩い』との差が微妙ですね〉。
道路中央が豊島区南大塚1丁目と文京区千石3丁目の境界になっています。
坂下の小さな交差点から
左側白い塀の先端付近から道が傾斜になってます。
上がりはじめてふり返り
一番先で千川通りに突き当たります。坂下から交差点まで100m弱。
坂半ばから
右側石積みは昭和はじめの宅地造成時からのものでしょうか?
坂上の交差点から
この背後は真っ平。
少し後ろから
坂の境界がとてもはっきりしています。
坂道位置地図
今回分:1.猫又坂、2.砂利場坂、3.宮坂
前回分、小石川の坂道(3)
続き・白山台地の坂道(2)