前回に引き続き小石川の坂道、台地の尾根を通る春日通りから折れて下る坂道を辿ります。
今回は団平坂、湯立坂、加えて地名では大塚に入りますが白鷺坂の3坂です。
◆団平坂〈だんぺいざか〉
別名:丹平坂〈たんぺいざか〉、袖引坂〈そでひきざか〉
前回紹介した播磨坂の1ブロック北側を並行する坂道です。
小石川台地の尾根筋を通る春日通りには直接接続しておらず、そちらからも1ブロック離れた区立竹早公園南側から下り坂がはじまり、小石川図書館前を通って次の十字路までの短い区間、傾斜もゆるく、あまり特徴のある坂道ではありません。
坂上から
右正面の道が団平坂、左は竹早公園です。
坂上真正面から
道は直線、先でつきあたる手前ですでに平坦になります。
右側図書館入口前に坂道の標識があります。
寄って
団平坂(丹平坂・袖引坂) 小石川5-9と10の間
「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者舂米(つきまい)商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
椽先(えんさき)にまくら出させて、
ひさしぶりに、
ゆふべの空にしたしめるかな 石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
文京区教育委員会 平成5年3月
坂下の十字路を南(播磨坂)方向へ入ったところに「石川啄木終焉の地」石碑がたっています。
坂下近くから
道路右、上側の建物が図書館、その向こうが竹早公園です。
この背後はほぼ平坦
横断歩道のある交差点まで坂道範囲に含めて延長140mです。
◆湯立坂〈ゆたてざか〉
春日通り茗荷谷駅前交差点のすぐ隣りの交差点から北東側に折れ、筑波大学東京キャンパスの南側を下る坂道です。
ちなみに茗荷谷とは逆方向に下ります。
途中左右にカーブがあり延長は約330m、傾斜は全体に緩やかです。窪町東公園などに沿って緑豊かなところを通ります。
坂下では千川通り窪町東公園交差点に出て、さらに直進すると白山台地に上がる網干坂に達する、いわゆるスリバチ地形になってます。
坂上で春日通りとの交差点を望む〈小さいけど〉
湯立坂の道路、この反対側はカイザースラウテルン広場。
彫刻作品が置かれています
文京区はドイツ・カイザースラウテルン市と姉妹都市で同市在住の彫刻家の作品をこちらに設置したということです。一角獣、魚、アンモナイトの3作品がここにあります。
左はカイザースラウテルン広場の並び、窪町東公園。この公園が湯立坂に沿って坂下まで続きます。
正面通学路の交通標識前に湯立坂と書かれた標柱がたてられています。
近くから
湯立坂
「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てゝ渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」(御府内備考)
平成十八年三月 文京区教育委員会
訳すと
昔この坂の下は川があって氷川神社に渡ることができなかったので、神社の氏子は川の手前で湯花を捧げたためこの名がついた。(『湯花』とは湯の沸騰時にあがる泡のこと。神社で巫女などがこれを笹の葉につけ参詣人にかけ浄めた。この儀式を『湯立』と呼ぶ)
以前は文京区標準の標識があったようですが変わっていました。〈標識はだいぶ古かったようで〉
公園の植え込みから坂を望む
道路右側は「旧磯野家住宅」の表門。
前にある解説文を
旧磯野家住宅 国指定重要文化財 小石川5-19-4
実業家の磯野敬(1868~1925)が建設した住宅で、銅板葺の屋根や銅板が張り廻された外観から通称「銅(あかがね)御殿」として知られる。主屋および表門の2棟が国の重要文化財に指定されている。
主屋は明治末期に着工、大正元年(1912)に竣工された。車寄を備えた書院棟、3階建ての応接棟、旧台所棟などからなる。表門は大正2年竣工で、尾州檜の太い丸太材を用いた四脚門である。主屋、表門ともに材料にはよく吟味された木材がふんだんに使われており、建具や欄間などの意匠や造作から熟練した木造建築技術の一端が窺われる。
伝統的な木造建築の技術と明治以降の大工技術の創意とが融合した近代和風建築の作品であり、東京に残る明治末期から大正初頭にかけての数少ない邸宅建築のひとつとして貴重な文化財である。
文京区教育委員会 平成23年3月
これは公園側から電線ごしに
階段を下りて坂道に戻ります。
坂上方向
この坂道、谷が切れ込んだ場所に通されているので道路両側が高く、切通しのようです。両側の木々も背が高く日中でも薄暗ささえ感じます。
坂下方向
道は右、左とカーブします。
カーブ直前で上方向
反対側の歩道からです。
坂下近くから
その下の交差点から〈突然季節変わってますが〉
右側は窪町東公園入口。奥へ行くと占春園という日本庭園もあります。筑波大学敷地など含めて江戸時代には陸奥国守山藩上屋敷がここにあり、現在の占春園はその庭園の一部でした。
この交差点の背後80mほどで千川通りに突き当たります。
湯立坂を境に小石川から大塚に地名が変わります。
◆白鷺坂〈しらさぎざか〉
不忍通りと千川通りの千石3丁目交差点から不忍通りを南西方向に上がる坂が白鷺坂です。
少しずつカーブしていて、長さは550mほどあります。坂上大塚3丁目交差点で春日通りと交わります。
道幅広く坂道の傾斜は全体を通して緩やか、2段になっていて中ほどにはほぼ平坦な区間があります。
不忍通り白鷺坂下、千石3丁目交差点から
道は少しずつカーブしてます。
少し上がって千石3丁目交差点をふり返り
交差点から不忍通りを先へ進むとすぐ猫又坂の上りにかかります。
道路反対側、区立大塚小学校脇の歩道植え込みに坂名標識が立ってます。
白鷺坂
このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は、池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが、「古木老樹がうっそうとしげり白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである。」とは土地の古老の話である。
この白鷺にみせられたアララギの歌人 古泉千樫(こいずみちかし)は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。
明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため往時をしのぶものもなく、そこに出来たこの長い坂道にも坂名のないままであったが誰れいうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。
大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。
鷺の群 かずかぎりなき鷺の群
そうぜんとして寂しきものを 古泉千樫(1886~1927)
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
地図で確認すると、大塚小学校敷地を含めた一帯が伊達家屋敷跡で、その端を道路整備で不忍通りが通過するようになったというのが正確なようです。
坂下から150mほど上がると一旦傾斜がごく緩やかになります。
坂道の踊り場あたり(坂下方向)
ほぼ平坦な区間が約200m、大塚4丁目交差点から坂下方向
この交差点からまた少し傾斜があって
本伝寺前から坂下方向
坂上となる春日通りとの大塚3丁目交差点近く
不忍通りをそのまま西へ直進するとすぐに富士見坂の下りに入ります。
護国寺前あたりまで続く富士見坂のその先には清戸坂もあり、不忍通りは坂道だらけです。
今回の坂道 12.団平坂 13.湯立坂 14.白鷺坂
前回小石川(2)
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