今回とたぶん次回は小石川台地の尾根を通る春日通りから北側の谷底を通る千川通り、そこはかつての小石川(別名はたくさんあって礫川、谷端川、千川、氷川、西大下水などなどきりがない)の流路、そちら方面へ下る坂道をいくつか辿ります。
今回は小石川3~5丁目あたりに存在する播磨坂、吹上坂、三百坂の3坂です。
◆播磨坂〈はりまざか〉
春日通り小石川5丁目の広い交差点から北東方向へ折れる、これまた広い道路が播磨坂です。
坂道部分現在は都道319号となっていますが、終戦後の復興計画で建設決定されたものの全面開通しなかった『環状3号線』の一部なのです。したがって播磨坂が開かれたのは戦後です。
主要道路となる予定で盛大に用地を確保(道路幅は40m)していることがわかります。坂道部分のほんの少ししか開通できなかったので、道路になるべきだった中央部分には桜の木を植え、現在は桜並木の遊歩道になっています。
播磨坂の長さは460m、道は坂下に向かって右にややカーブし、勾配は全体に緩やかです。
春日通り小石川5丁目交差点ごしに
向こう側が播磨坂の坂上、その手前を横切るのが春日通りです。別の日(2020年11月)の撮影です。
ちなみにこの写真の背後にも坂道『藤坂』が茗荷谷方面へ下っています。
背後が小石川5丁目交差点、前方へ桜の遊歩道、坂を下っていきます。
坂下へ向かって右側歩道から
中央だけでなく両側の歩道にも桜が植えられてます。
坂の真ん中付近の《播磨坂桜並木》交差点から坂下方向
同じ交差点から坂上方向
〈ここ、遊歩道から遊歩道へ直接渡れず、3回横断歩道を渡らなきゃならないのがなぁ…〉
坂道中央にある標識の解説、「環三通り桜並木の由来」となってますが播磨坂の解説ともダブっているので。
環三通り桜並木の由来 文京区小石川4・5丁目の境 播磨坂
かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃(たんぼ)」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成7年には装いを新たにした桜並木が完成した。
昭和43年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。
文京区教育委員会 平成8年3月
播磨坂の標識も坂下近くに存在します。昭和53年とだいぶ前にたてられたものでした。解説の内容は先に紹介したものと大体一緒です。〈文体が昭和でして〉
右端、植え込みのなか。
坂下近くの歩道から上方向
このあたりは彫刻なども配置されてます。遊歩道、坂下のほうが植え込み、舗道の雰囲気など充実しているような気がしました。
千川通りとの交差点名は「植物園前」、小石川植物園の真ん前ではありませんが1ブロック手前といったところ。この交差点には隣りに吹上坂からの道も合流して5差路になってます。
◆吹上坂〈ふきあげざか〉
別名:禿坂〈かむろさか〉
春日通り茗台中学校前交差点を北東方向に折れる道に入ると吹上坂です。
茗台中学校前交差点は播磨坂の小石川5丁目交差点の1つ南隣りになります。
春日通りとの交差点付近は傾斜がなく少し先から下ります。坂道としての長さは350mほど、地図ではほぼ直線ですが現地で見ると多少カーブしています。坂部分の勾配は全体に緩やかです。
吹上坂坂下では播磨坂の道路と合流するように千川通りに突き当たります。
最初に坂上近くにある標識の解説を
吹上坂(ふきあげざか) 小石川4-14と15の間
このあたりをかつて吹上村といった。この地名から名づけられたと思われる。
「…吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり。」(改撰江戸志)
なお、別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内六ヵ所あるが、いずれもかつては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
この坂も善仁寺前から宗慶寺極楽水のそばへくだり、坂下は『播磨たんぼ』といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。
雑然と鷺は群れつつおのがじし
あなやるせなき姿なりけり 古泉千樫(1886~1927)
東京都文京区教育委員会 平成元年3月
この道を江戸切絵図から推測すると松平播磨守屋敷の東側境界を通る入り組んだ路地のようです。のちに区画整理されたのでしょう。
坂上の平坦部から坂下方向
坂上付近からその先、上を見て
正面奥で春日通りに突き当たってます。
解説標識付近
少し下ると信号機のある交差点
先で右にカーブし
坂下近く宗慶寺前あたりから坂上方向
宗慶寺の前には「茶阿の局墓碑」の、かつてその境内だった隣接するマンション入口付近には「極楽水」の解説がたてられてました。極楽水とは湧水なのですが、1415(応永22)年に了誉聖冏上人(りょうよしょうげいしょうにん)が伝通院の元となった庵を結んだ所といわれています。
この付近伝通院をはじめとして多数の寺社がいまも残っています。
坂下千川通りとの植物園前交差点付近
先を横切るのが千川通り、小石川の流路跡に相当します。その向こうに大雲寺の建物が一部見えます。
左側はすぐ播磨坂の道が合流しています。
◆三百坂〈さんびゃくざか〉
別名:三貊坂〈さんみゃくざか〉
春日通り伝通院前交差点の1つ西隣り、信号機のある無名交差点から北側に入っていく細道を200mほど行ったところが坂上、都立竹早高校北門付近になります。
そこからごく緩い下り坂となり、坂下T字路で突き当たるまで180mほどの長さです。道は最後に千川通りまで出ずに終わってしまいます。とても地味な坂道です。
先に見えるのが竹早高校北門
北門手前で道路がクランクになっています。門につきあたって坂上、右折して下っていきます。
右折したところ
坂道と認識できないくらいの勾配。
道は最初真っ直ぐで坂下近くで右にカーブします。
下っていくと隣りは竹早高校から学芸大附属幼稚園の敷地となります。そちら一帯はかつて松平讃岐守の屋敷でした。〈こちらにあった屋敷は播磨守でなく讃岐守です〉
また三百坂に沿っては旗本御家人(?)武家屋敷が両側に並んでいました。(江戸切絵図)
幼稚園入口近くに例の標識があります。
標識付近から坂上方向
拡大↓
〈足が曲がってます、そんなすごい傾斜でもないけど〉
三百坂(さんびゃくざか)(三貊坂(さんみゃくざか))
『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒(かち)の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役に立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。
主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。
文京区教育委員会 昭和55年1月
さらに下がってカーブ付近から上方向
背後、工事の車が駐車中かつ作業中で立ち止まれませんでした。
カーブして坂下付近
向こうの道路につきあたって終わります。
そちらの道を左に行くと吹上坂の途中に出ます。
今回の坂道、地図の9.播磨坂 10.吹上坂 11.三百坂
前回の小石川
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