散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

辻堂海岸から大庭城址公園へ歩く

真夏の湘南、辻堂海岸から同じ藤沢市内の大庭城址公園へ歩いた記録。

このところ3回藤沢市を歩いたノートが続きますが、今回は2019年8月、3年前に歩いて放ってあったものです。
前々回ノートで大庭城址のことに少し触れたとき思い出し、いまさらながらまとめを試みることにします。

最初は辻堂海岸の砂浜からです。

 

かすむ江の島

波が高いです。たしか台風接近で風も強く、遊泳禁止になっていたと思います。〈すでに記憶がところどころ曖昧、繕いつつ手短にまとめます〉

 

海岸の背後は辻堂海浜公園です。

 

一部は交通公園になって子供用の遊具、展示施設などもあります

 

こちらは海浜公園入口付近の花壇

花壇に立て札がありますが、園内には大きなプールもあります。夏休み中、コロナ禍前ですから当然賑わってました。

 

こちらは海浜公園から辻堂駅方面へ向かう道路

 

公園北口から一直線に進むと駅のまん前へ出ます。

駅写ってないけど駅前(南口)

正面が海浜公園へ向かう道路。距離は1500mくらいあります。

 

細道を歩いていると神社の祠と「京、鎌倉往還12(鎌倉街道)八幡神社」と書かれた札が目に入りました

くねくねと細かくうねる道でしたが京都と結ばれた鎌倉街道の一部のようです。右が八幡神社。

たしか、街道がどのように続いているのか知りたくなり、それらしきところを辿ってみたもののすぐにわからなくなってしまったという記憶があります。

これはまだ辿れているとき『14番三ツ叉』標識

中央に写る案内板

三ツ叉
元禄十三年(1691年)検地の四十四小字(こあざ)の中に三ツ叉がありました。古道(鎌倉道と光明真言道場道)がここから三本に分かれていたのが由来です
平成24年10月 【問合先 辻堂市民センター】

 

東海道線や東海道(国道1号)を越え北の方へ飛ぶと
田園地帯へ

前方で斜めに架かっているのは大庭(おおば)大橋。

その向こう正面にある上が平らな丘に大庭城址があります。そちらを目指します。

 

大庭大橋の下あたりから

 

もう少し近づき引地川と小糸川の合流点、橋の上から

大庭城は2つの川に挟まれた間の高台にありました。川を天然の要害として利用していたかもなどと勝手に想像。

 

いまは城址公園となっている高台へ上がりました。現在は北西側と南側に入口があり、北西側からアプローチ。

公園の中に案内板があります。

大庭城址
大庭城は、平安時代の末期(12世紀末)、大庭荘(おおばのしょう)を本拠としておこった関東平氏の雄、大庭氏の拠点であったと伝えられますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃(15世紀後半)になって、扇谷上杉定正の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったとされています。
その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後、小田原北条氏の支配下に置かれました。そして、天正15年(1587)、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は、廃城となったようです。
現在残されている土塁・空堀などの城址の構えには、小田原北条時代の改修があったものと考えられますが、雄大でかつ綿密に設計されていたことは、築山(つきやま)、裏門、二番構(にばんがまえ)、駒寄(こまよせ)などの地名からもしのばれます。

ただ、公園内施設は芝生や花の広場などがメインで目立ち、大庭城遺構に由来するものは〈私のように知識がないと〉やや見えにくい気がしました。

予備知識でも仕込んでおけば少しは違ったはずですが行き当たりばったりでどうも...
カメラに写っていたのは公園の広場だけでした

〈竪穴式住居跡もあったのですね、全然見てなかった〉
ここにはいつか改めて訪れることにしましょう。

 

この時は城址公園でひと休みしてまたその先を歩きましたが、その後の記録もありません。
すでに書きましたがこの日は台風接近中、歩いている途中で急激に天気が変化し最後はバケツを叩きつけるような激しい雨に見舞われた事思い出しました。ナンカチガウナ...

そんなこんなで中途半端、記録をまとめてなかったのでしょう。〈と言い訳〉