散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらあれこれ観察したノート

鎌倉街道を歩く 上道その5 国分寺から狭山

鎌倉街道上道(かみつみち)、その5は、国分寺(西国分寺)から狭山へ。

前回こちらの続き

今回の行程

「その4」を歩いてから出直して、スタートはJR西国分寺駅から。
JR西国分寺駅南口

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武蔵野線ホーム下をくぐりぬけて府中街道に出て左折、北へ。

といっても中央線を渡った先ですぐに府中街道を右に折れ、すぐ横にある鎌倉街道旧道を通り越して「姿見の池」へ寄り道。

姿見の池

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鎌倉武士であった畠山重忠と恋ヶ窪宿の遊女夙妻太夫(あさずまだゆう)との恋ヶ窪伝説なども残っている池。

www.city.kokubunji.tokyo.jpかつては付近の湧水がこの池をつくっていた。地形的な凸凹を見ると野川の源流のひとつと推定できるが、昭和40年代に池はいちど埋め立てられ、平成にはいってから恋ヶ窪用水の水を使って復元されている。現在湧水は枯れてしまっているらしい。

池の東側には古代の道路である東山道武蔵路の跡が発見され、発掘調査も行われている。

東山道武蔵路跡の解説(一部)

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鎌倉街道の道筋と完全には一致していないようだが、鎌倉街道、現在の府中街道に至るまで、この付近では東山道武蔵路の道筋が引き継がれていると思われる。

姿見の池に流れ込む、恋ヶ窪用水(再現したもの)

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恋ヶ窪用水の解説板

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鎌倉街道へと戻る、大した距離じゃないけど。

北へ向けて歩きだすとすぐ、夙妻太夫の墓が残る東福寺、恋ヶ窪熊野神社が街道左右に続く。

恋ヶ窪熊野神社

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「当社は旧鎌倉街道とされる道路に西面し、社伝では新田義貞の兵火で焼失して応永(1394~1427)年間に社殿再建、天正18(1590)年兵火により再度焼失し、慶長2(1597)年に社殿が再建再勧請され…」と由緒にあった。

このあたり一帯「恋ヶ窪」というところ、ちょっと変わった名前ではある。昔は恋ヶ窪村という村や、鎌倉街道の恋ヶ窪宿があったということで結構古い地名だ。由来は先の「恋ヶ窪伝説」からともいわれるが、所詮はっきりしないらしい。

熊野神社の先では恋ヶ窪用水の流れに沿って少しすすむとすぐに西武国分寺線の線路にぶつかる。
正面の道路が旧道だが、渡れない

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府中街道(都道17号)に出て踏切を渡ると、旧道もすぐに合流する。この先府中街道をすすむ。

府中街道恋ヶ窪交差点

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このへんでまた鎌倉街道旧道は消滅しているらしい。

上水本町交差点まで府中街道を行き、右折して五日市街道を少し歩いてからまた左折する。国分寺市を出て小平市に入る。

途中を横断している砂川用水

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その先で玉川上水とぶつかる。そこにかかっている橋は
鎌倉橋

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鎌倉橋のうえから玉川上水

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玉川上水を渡るとまっすぐな道路をずんずんと北へ進む。

道路途中に「鎌倉街道」の標識

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標識の矢印は鎌倉の方向を指していた。

調子よく進むが、工場の敷地にぶつかって街道は消えてしまう。
ブリジストン工場手前で

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旧街道は工場の敷地のなかを通っているらしく、こちらは府中街道に出て迂回する。

西武拝島線高架下を通り、八坂交差点へ。
九道の辻と下は野火止用水

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八坂交差点は別名九道の辻(くどうのつじ)と呼ばれ、かつては9つの道が交差する9差路になっていたそうで、現在も7本の道が通っている。ちなみに九道は、江戸街道、引股道(ひきまたどう)、宮寺道、秩父道、御窪道、清戸道、奥州街道大山街道鎌倉街道だそうだが、そうだとするとこの辻ですべての道が名前を変えることになってしまう。別資料から勝手に持ってきた説明によれば、南北に鎌倉道ー奥州道、東西に江戸道ー秩父道、野火止用水に沿って中神へ向う大山道ー清戸・引股道、西北の宮寺・飯能へ向う道。東南・西南へ向う野道を御窪道(字窪への道)と呼んだそうだ。

この交差点で鎌倉街道は復活しているが、それに沿っている現代の府中街道を進む。この交差点からは東村山市に入る。

西武多摩湖線八坂駅下をくぐり、北へ進むと
八坂神社

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境内石碑による由緒

祭神は素盞嗚命牛頭天王)である。
創立は別当正福寺の火災で記録が焼失し詳らかでないが正福寺の建立された弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃と考えられる。
宝暦4年11月の野口村柄様子銘細書上帳に「村内鎮守牛頭天王 別当正福寺 五反七畝弐十弐歩御除地」とあり、また明治三年十一月の神社書上帳には「社号 往古より天王宮と唱え来候処 明治二年奉願上八坂大神と改替仕候」とあって、同年八坂神社と改め村社に列せられる。(以下略)

神社の北側で空堀川を野口橋で渡り、新青梅街道西武新宿線踏切を越える。
野口橋と空堀川

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府中街道をさらに進むと東村山駅東口を過ぎて少し先のところで左に分かれる細い道がある。こちらが鎌倉街道旧道。
府中街道鎌倉街道旧道の分かれる地点(東村山市本町2丁目)

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左に入ってすぐのところで「旧蹟鎌倉古道跡」

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この道を歩くとほかにも鎌倉古街道の解説板や標柱がある。この区間は車も少なくて静かだ。

そのうち西武新宿線線路が左から寄ってきて並行する。途中で踏切をわたって右折し、少し広くなった道路を先へ進む。面影はまったくないのだが、そのあたりが久米川宿という宿場であったらしい。また周囲一帯はかつての久米川古戦場である。

久米川の戦い
鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月12日に、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。
前日の小手指原の戦いで敗れた幕府軍が久米川(現柳瀬川)で新田軍の進軍を食い止めるため迎えうったものだが、このときには幕府軍には勢いはなく、戦いは新田軍優勢にすすみ、幕府軍分倍河原府中市)まで撤退することになった。

久米川宿といわれるところをすすんでいくと柳瀬川(かつての久米川)に出る。
二瀬橋上から

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ここが東京、埼玉の都県境。2つの川の合流点でもあって、前方からこちらに柳瀬川、左から前川で、合流して右に流れて柳瀬川。

埼玉県所沢市に入り、住宅地のなかを歩いて行く。途中、専門学校のある手前三叉路で左折するところを次の交差点まで行ってしまい、そこを左折して勢揃橋北の交差点まで行く。

遠く勢揃橋(せいぞろいばし)を望む

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向こうに車がいるあたりが橋。道を間違えたせいで橋の間近を通っていない。
ごく普通の橋だが、名前は新田義貞が鎌倉攻めの時に自軍をこのあたりで勢揃いさせたことにちなんでいるとのこと。本当かどうかよくわからないけど。

勢揃橋北交差点近くに長久寺という寺院がある。
長久寺

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門に「時宗」とあり、神奈川県藤沢市清浄光寺遊行寺)の末寺。鎌倉幕府滅亡前後に開山したとのことで、この付近が戦場となったときの犠牲者供養などで開かれたお寺なのかもしれない。

長久寺正面左手が緩い坂道になっていて、そこが鎌倉街道旧道。上っていくと西武池袋線線路で分断されているものの、その先にかけてほぼ直線の道がずっと続いている。

所沢市元町と星の宮1丁目境界の鎌倉街道旧道

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この先ももう少し旧道がつづき、途中に所沢市によって立てられた鎌倉街道の案内板があった。

そして小金井街道を渡る手前に
実蔵院

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号は野老山(ところさん)、解説によれば「宥圓(元和2年1616年寂)が開山したといいます」。古くは「野老沢」と書いて「ところざわ」と読んでいた。

小金井街道の先にはまた新光寺という寺院がある。山門は竜宮門で門前には旧鎌倉街道の標柱も立っているのだけれど、あいにく門前が道路工事中で何も記録できなかった。

新光寺の先で旧道は現在の埼玉県道6号(川越所沢線)に吸収されてしまう。ここから道はずっと一直線だが、6号、50号、227号と県道歩きが続き、歩道のない区間もあっておもしろくない。
川越所沢線に出てすぐ坂道となり、上がると峰の坂交差点。

峰の坂交差点手前の緩い坂道

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(緩い坂道を坂道にみえる写真を撮るのは難しい:ひとりごと)

ずっと進んで
新所沢駅近くの県道

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ごく普通の一般道なのだけど、旧鎌倉街道なのだと主張は忘れない。

その先、県道と西武新宿線線路がほぼ並行し、途中踏切でクロス。線路がなかったころの街道はこんなに急なS字カーブは描いてなかったはずではある。
線路を渡る県道

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このあたりまでくると畑が広がり、のどかな風景になってくる。
県道脇から畑と雑木林

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所沢市から狭山市に入るあたり。

狭山に入ると名産のお茶の畑も目立つ。
道路の向こうは茶畑

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交差する通りは「茶つみ通り」

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その先に入間野神社

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鳥居前にあった解説から

入間野神社(いるまのじんじゃ) 所在地 狭山市大字南入曽六四一
入間野神社の主祭神大山祇命(おおやまづみのみこと)と木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、合祀神として天照大神(あまてらすおおみかみ)ほか六神を祀っている。
社伝によると、当社は建久二年(一一九一)の創建と伝えられ、石造の御神体には天正六年(一五七八)の年号が刻まれている。旧号を国井神社、後に御岳大権現と称し、社領として慶安二年(一六四九)に十石の御朱印を賜っている。
明治元年の社号改正につき、御岳神社と改称したが、明治四四年に大字水野にあった浅間神社を合祀し、現在の名称となった。大祭は毎年四月十五日、十月十五日、十一月二十三日に行われるが、特に十月十五日には県指定文化財の「入曽の獅子舞」が奉納される。当社には宝暦八年(一七五八)の獅子舞の絵馬があるので、それ以前から伝承されているものと思われる。
昭和六十年三月 埼玉県 狭山市

神社脇には埼玉県内の鎌倉街道の地図や見どころを書いた大きな案内板もたっていた。

入間野神社の向こうはすぐ不老川が流れ、橋を渡るとその隣りに七曲井がある。
七曲井

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解説

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「まいまいず井戸」などとも言われるこのような井戸は武蔵野台地上ではまだところどころに残っている。

ここを過ぎてさらに県道となっている鎌倉街道をひたすら直進すると狭山の街中にはいっていく。狭山市駅近くで県道が右に曲がっていくところには白山神社がある。

白山神社

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この神社の後ろ側はすぐに西武新宿線狭山市駅で、鎌倉街道旧道はここで駅の反対側へ出て、近くを流れる入間川を渡っていたようだ。

狭山市駅周辺は街道上の見どころとしてはあまりないようだが、今日は20km以上も歩いてきたし、この先街道は鉄道と離れ、行き来が面倒になっていくので本日はここまでとした。でも入間川まで行けばよかったかもと後から思った。

狭山市駅入口

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上道その1からその3はこちらから

miwa3k.hatenablog.jp