印旛放水路・花見川を歩く(1) 河口から花見川大橋

千葉へやってきました。今回歩いたのは印旛放水路(いんばほうすいろ)、その下流部分となる花見川(はなみがわ)からです。

最初はずっとさかのぼった先にある印旛沼のことから。〈前置き長いです。ごめんなさい。〉

利根川南側から千葉県の北部一帯を占める下総台地、そのほぼ中央部に印旛沼(いんばぬま)があります。

印旛沼の形成はWikipediaから

印旛沼は、およそ2万年前、海面が著しく低下していた際に形成された下総台地の侵食谷が起源で、縄文海進時には地盤沈降により溺れ谷となり香取海(古鬼怒湾)と呼ばれた海の一部であった。奈良時代頃には香取海の海退とともに、鬼怒川から洪水によって運搬された土砂が沼へ向って流れ込むなどして(三角州の形成が認められる)、次第に出口がせき止められ沼が形成された。

昭和の干拓以前の印旛沼は面積25.8㎢(周囲約60㎞)、W字形をしていました。(現在は干拓の結果、面積9.43㎢、北印旛沼と西印旛沼に水域が分かれてます。それでも千葉県内最大面積。)
水は沼北側から流出して当時の鬼怒川(または常陸川、現在の利根川)へ合流していました。

江戸時代の利根川東遷事業により北側を利根川が流れるようになったことで水量が増加し、たびたび利根川から水が逆流するなど印旛沼周辺は水害を受ける頻度が高まりました。
そこで沼の水を現東京湾へ流すための掘割工事や干拓がはじまります。
西端から印旛沼に流れ込んでいた河川流路を人工の掘割で拡張して、その流れを逆にし、元々の最上流部からは台地を掘削して新しい流路を当時の花見川最上流部に接続して印旛沼の水を東京湾へ導く工事が行われます。

結局江戸時代のこれら工事は中途で失敗に終わるのですが、その後も事業は継続され、すでに掘削が完了していた流路等を利用、拡張した上、途中に大和田(排水)機場を建設して『印旛放水路』が完成したのは1966(昭和41)年のことです。

印旛放水路はユニークな構造になっています。水路ではありますが、印旛沼の西端から大和田機場まではその水面の高さは変わりません。つまり印旛沼がそのまま先へ延長された、流れのない水路になっています。この部分は通称『新川』(または印旛疎水路)と呼ばれています。

大和田機場は排水用ポンプ場になりますが、印旛沼のダムと考えたほうが分かりやすいです。印旛沼、新川の水位が上がった時にだけ排水機を稼働し、下流の花見川へ水を流します。それ以外のときは閉鎖されて水の移動はありません。

先に『ダム』と言いましたが大きく違う点があって、排水機場上流側の水位が下流側の水位よりも低いのです。〈ここ大事〉
つまり花見川への放流は水をポンプアップして押し出す必要があります。その水位差は4.6m、ポンプによる揚水を行い、下流側へ放流します。
その理由は、大和田機場から河口までの河川勾配が小さく、東京湾満潮時に河口から排水ができなくなるおそれがあったからです。あらかじめ十分な高さまで水を揚げてから流下させているのです。(といっても機場から普段は放流しないので花見川もほとんど流れはありません。支流河川や湧水の水程度。)

 

今回はまず花見川河口から上流へさかのぼって歩きます。

アプローチはJR京葉線海浜幕張駅から

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駅から南へ約2㎞、花見川の河口に到着します。

美浜大橋と河口(千葉市美浜区美浜)

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遠くは千葉、市原方面。

 

少しアングルを変えて

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河口を背にして反対方向

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こちらは船橋、東京方面になります。

 

花見川右岸側、遡上開始してすぐ
振り返って美浜大橋

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次の磯辺橋を越えたところ
上流方向

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まだ河口から500mくらい、周囲は埋立地。川の両岸に緑が続き細長く公園になっています。対岸には『花見川サイクリングコース』が検見川の浜から通っています。しばらく先からはサイクリングコースを歩きます。

 

京葉線橋梁と若葉第一号橋

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下流方向を見て、河口から約1400m。水路近くへ下りてます。

 

場所によりイガイ、カキの貝殻が大量に付着してます

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このあたりは川と海の水が混じった汽水でしょう。さほど汚れてないように見えますが水の富栄養化の影響は出ています。

 

真砂大橋下流側から

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手前、真砂大橋、向こうに東関東自動車道(東関道)とその両サイドを通る湾岸道路、さらに千葉街道と花見川はここで多くの橋を越えます。

左端に写る右岸側の歩道はここで終点っぽく、真砂大橋を渡って左岸の花見川サイクリングコースへ移ります。

実は右岸側をそのまま行けると見込んでいましたが進めず、結構長いこと迷ってました。(この地点、道路が上下複層で交差地点に接続する道がなかったり、下層地下部の道路情報が書き込めなかったりと全情報を地図平面に落とすのが難しいと思います。現場に案内図なんかを出しといてほしいですね。)

 

サイクリングコースの地下通路を通って何とか橋の密集地帯を越え、幕張橋まで到達。通る道は街道の旧道?。

幕張橋上から花見川下流方向

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前方にあるのが迷い道の元になった橋梁群、手前の水色の橋は千葉街道国道14号)・新幕張橋。
新幕張橋付近が1960年代頃までの花見川河口でした。
ちなみに当時の海岸線の海側が千葉市美浜区、陸側が千葉市花見川区、境界になっています。これより花見川区を歩きます。

 

幕張橋のすぐ上流側には房総往還・新花見川橋が架かります。古い街道が通っているということは昔から陸地だったことの証拠です。

新花見川橋から上流方向は鉄道橋梁が2つ

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手前は京成千葉線、遠くにJR総武線

 

JR総武線橋梁間近から花見川上流方向

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橋の向こう住宅地の高台、台地が現れてきました。見えているのは下総台地東京湾側の縁ということになるでしょうか。

 

総武線橋梁をこえてすぐ
浪花橋と先ほどの住宅地

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この橋には川名「花見川」と記されてますが「印旛放水路」と書かれている橋もあります。印旛放水路が開通したのが1966(昭和41)年、それ以前も下流側のこの付近は今よりずっと細いですが花見川が存在していました。

 

浪花橋上から流路拡張された花見川上流方向

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昭和30年代に川幅拡張のうえこの付近は流路も直線化されてこの風景になりました。

 

浪花橋から200mほどさかのぼったところ

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川の両岸は緑が豊かになってきます。でも全体的に周囲は住宅地です。

 

次の瑞穂橋を越えて

花見川区役所近く、花見川千本桜緑地を通るサイクリングコース

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自転車道ですがこのへんは住宅地内なので生活道路にもなっていて通る人も多いです。

花見川区役所の東側、台地に谷が切れ込んだあたりは草炭(そうたん:peat)と呼ばれる泥炭が分布し、戦後燃料事情の悪い頃には盛んに採掘がおこなわれたということです。古くは大量の植物が存在する沼地などであったのでしょう

 

そこから川の上流に向かうとほどなく京葉道路、高架下を横切って200mくらい行くと汐留橋。そのすぐ下流側には高潮などでの海水逆流を防ぐための制水門が設けられています。

汐留橋上から長作制水門

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見にくくてすみません、前方通路の真下に水門があり堰になって水面高さが異なってます。この下流に堰は存在しないのでここが文字通り海水逆流を止める汐留の堰、制水門となります。『長作(ながさく)』は付近の地名です。
また、左上陸上は京葉道路です。

 

汐留橋から上流側です

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にわかに緑が色濃くなります。この先はしばらく田園風景になります。

 

緑が多いのは癒されますが川面があまり見えなくなりました。
花見川サイクリングコースから(花見川区畑町)

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左端の鳥居、丘の上は諏訪神社

 

その先小さな支流、長作川の合流点を見てから少し行くと亥鼻橋。

亥鼻橋上から下流方向

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橋は交通量の多い県道が通っていました。

 

川と反対側には奥深そうな谷戸が見えてきて、思ったとおり小さな流れが花見川へ合流していました。
谷戸の向こうから『畑川(はたかわ)』は蓋をされた暗渠

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この背後で花見川に合流。

実はこの少し先でも同じような風景がリピート、そちらには『犢橋川(こてはしがわ)』の流れがありました。

 

橋上以外から久しぶりによく見えた流れ

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のどかな風景になりました。

 

その先少し高い位置で谷間を跨ぐのは
天戸大橋

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横切る道路は御成街道、東金街道などの名をもつ、現在は千葉県道69号(長沼船橋線)。古い道で徳川家康が1613(慶長18)年に命じて造らせた船橋と東金を結ぶ往還だそうです。
橋は上流側に真っ赤な水管橋を従えていました。川沿いのサイクリングコースは橋の下をくぐります。

 

天戸大橋付近から川は狭い谷間に入っていきます。

少し進むと天戸(あまど)制水門、また堰が現れます。

天戸制水門下流側から

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こちらは海水遡上防止用ではなく、農業用水を取水するための堰となっているようです。

 

上の写真奥にもちょっと写ってますが、そのすぐ上流に真っ赤な水管橋、その隣に花見川大橋が架かります。

天戸水管橋と花見川大橋

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花見川大橋は天戸大橋同様高い位置から谷間を跨ぎます。現在は道路橋ですが、かつては軍用鉄道の線路が通る橋でした。戦後鉄道軌道跡を道路にしています。

手前の自転車は釣り人と思われます。釣りをする人がとても多い川でした。

 

間近から天戸水管橋

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花見川大橋まででいったん休憩。

 

歩いた足あと地図

印旛放水路・花見川→赤色ライン