散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

小石川から谷端川へ 水の見えない川歩き

東京都文京区の地名に小石川(こいしかわ)がある。かつての東京市小石川区で、ここの台地(小石川台と白山台)の間の谷を流れる川は礫川(れきせん)とも呼ばれ、砂や礫(れき=小石)の多い川だった。これが地名の由来で、流れていたのが小石川である。しかしこの川はたくさんの名前を持っており、氷川(ひかわ)、千川(せんかわ)、小石川大下水とも称され、上流へさかのぼれば谷端川(やばたがわ)となるものの、下流域でもそのまま谷端川と呼ばれていたり。ややこしい。

とりあえずここでは下流域は小石川、中、上流域は谷端川と呼ぶことにして、今回はこの小石川と谷端川をさかのぼって歩いてみた。
ただし現在は全区間が暗渠の下水道または埋め立てられていて、水の流れを見ることはできない。

小石川・谷端川足あと

小石川の流れは神田川に合流して終わる。その合流地点は現在のJR中央総武線水道橋駅ホーム北側あたりにあった。市兵衛河岸(いちべえがし)という河岸、現在は市兵衛河岸防災船着場となっている場所である。

市兵衛河岸の元合流点付近

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足元が合流点。現在は船着き場、川は神田川、向こうはJR水道橋駅

小石川についてはふれられていないが、市兵衛河岸の解説板を書き出してみる。

市兵衛河岸(いちべえがし)
河岸(かし)とは、物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場(ものあげば)などの施設のことである。この河岸の名は、江戸時代の中頃まで、現在の後楽2-1-18あたりに、”岩瀬市兵衛”の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は、飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの名が見える。
この河岸は、明治8年から昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった”砲兵工廠”の荷揚場(にあげば)としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は、昭和39年の住居表示の施行により後楽1丁目となり、この名は消滅した。
東京都文京区教育委員会 平成元年3月

そこから後ろ側を振り返ると
外堀通りをはさんで東京ドームシティ

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ここから遡上開始する。まず道路を渡って東京ドームシティへ。

人工的に造られたせせらぎ、水路は小石川の流路と重なっている。

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川跡はさらに東京ドーム直下を通り、北側の後楽園駅交差点から千川通り(都道436号)へとつながる。

丸の内線後楽園駅付近

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向こうへ伸びている道路が千川通りとなり、この通りと小石川の流れがほぼ沿っている。

富坂下交差点

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左右に横切っている通りが小石川流路跡で、それに直交する道路は川が削った谷へ下りてくるために、どこも坂道になっている。ここは正面向こうへ富坂(とみざか)、通るのは春日通り(国道254号)。

現覚寺・こんにゃくえんま門前、えんま通り商店街付近千川通り

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戦災で焼け残った古い商店街ということだが、さすがに現在は風景も変わっている。看板建築の古本屋(大亜堂書店)さんが現存。
交差点名は「こんにゃくえんま前」、この一帯が現在も文京区小石川1丁目、2丁目である。

えんま通り商店街の先で通りが少し西に折れ、その先念速寺手前の交差点を右に入る。川は千川通りをそのまま行くと解説されているものもあるが、どちらが本当かわからない。水路は二筋、三筋に分かれていることもままある。

右に入って道なりに進むと小石川植物園入口前に出て、植物園の塀に沿ってそのまま先へ行く。
植物園入口付近は道路工事中だったので、途中から

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右側塀のカーブは流路跡に沿うものなのだろうか。

植物園のいちばんはずれにある、東京大学総合研究博物館(小石川分館)の建物

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山手線の内側とは思えない風景で写ってしまったな。建物は東京大学前身の旧東京医学校本館で、1969年に移築復元されたもの。

小石川植物園の隣り北西側には
簸川神社(ひかわじんじゃ)

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創建は西暦473年と伝えられ、ってそれ古墳時代ですよね。
永く氷川神社を社号とし、小石川、巣鴨の総社であった。現在の社殿は坂をあがった台地の上にある。神社横の坂道は氷川坂(簸川坂)。

鳥居の右側に「千川改修記念碑」が立っている。1934(昭和9)年暗渠化されて千川通りとなった記念だそうだ。先ほども書いたが、千川、簸川=氷川とも小石川別名。千川の名は、かつて上流域で千川上水から分水を受けていたため、千川分水とも呼ばれていたことに起因しているらしい。

さらにさかのぼると、不忍通りに交差する。そこにはかつて猫又橋がかかっていた。
猫又橋の親柱が残されている

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交差する不忍通りの猫又坂

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写真に写っていない解説板の文字を

猫又坂(ねこまたざか)(猫貍坂、猫股坂) 千石二丁目と三丁目の間
不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
また、「続江戸砂子」には次のような話がのっている。
むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。
文京区教育委員会 平成11年3月

不忍通りは谷底で猫又橋を渡ると反対側は白鷺坂。地形は千川(小石川)に沿ってV字の谷である。猫又坂の北側にも砂利場坂、宮坂、さいとう坂とGoogleマップでは名前がふられている。

川跡の細い道路を北の方へ進むとまもなく大塚へ。

大塚あたりまでくると谷端川(やばたがわ)の呼び方が主流になってくるようだ。この先は谷端川と呼ぶことにする。

豊島区南大塚1丁目付近の川筋跡

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道路右側は料亭、左側は金春湯という銭湯。この付近はかつて花街であったということで、現在も独特の雰囲気が残っている。

もう少し行くと山手線の下をくぐり、大塚駅前に出る。

駅付近の歩道の植え込み

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植え込みの下が川跡、のような気がする。

千川通りに出て北大塚3丁目交差点まで進む。

北大塚3丁目交差点付近

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左側が千川通り。ここで右側へ分かれている歩道が谷端川流路跡か。

その先へ続く道路へと入る。
道はゆるく蛇行しながら先へ進み、明治通りを越え、豊島区と北区の境界上を行く。

北区滝野川7丁目、豊島区上池袋4丁目境界、下流方向

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中央線のある道路が川跡。この付近ほとんど川の痕跡らしきものもないが、谷端公園、谷端小学校と川名になった「谷端」の名前がこのあたりにまとまっている。

JR板橋駅ホーム下通路

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ホーム下のせまい通路が川跡。向こうから流れが手前に出てきて左へ谷端川本流、右側へも一時期分水があって、石神井川まで続いていたらしい。

板橋駅の反対側へ出ると途端に川跡は緑道、公園となって主張をはじめる。

駅西側の歩道、谷端川児童遊園

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道路との交差地点にはかつてあった、一の橋、二の橋などの橋跡が再現されている。

すぐに東武東上線下板橋駅前を通過

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自転車置き場の下が流れの跡、向こうが下流方向。左に曲がって線路下をくぐっていた。踏切の横には、川があったという雰囲気が少し残っている。

ここの上流側(後ろ側)から谷端川緑道(北緑道、南緑道)がはじまり、この先西武池袋線と交差するところまで約3km続く。下板橋駅側から歩くと、最初は谷端川北緑道。

豊橋”がかかっていたところ

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手前の車止めは、昔の橋の欄干を一部加工したように見える。向こう側の車止めに「豊橋」の橋名標あり。

谷端川緑道の上が豊島区と板橋区の境界となってしばらく続く。

北緑道前田橋跡付近

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前方首都高速の高架の下が川越街道(国道254号)で、そこを境に谷端川北緑道から南緑道になる。

谷端川南緑道に入る(豊島区池袋4丁目、板橋区中丸町境界)

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同じ緑道でも表情は様々

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要町通りを渡ったところから振り返って

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谷端川南緑道終点近く

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西武池袋線線路に突き当たって緑道はおしまい。

線路を直接渡れないので迂回して反対側へ回り込む。

行き止まりの道路と遊具ひとつだけの「目白四丁目仮児童遊園」

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「仮」だそうだ。いくらなんでもこれで児童遊園を名乗るのはおこがましいと…?

緑道が尽きた先は一般道路となり西へ方向をかえて進む。道なりにたどっていくと西武池袋線椎名町駅前へ出る。

椎名町駅近くの川跡

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右へカーブしていく緑の歩道?が川跡。ここは古い航空写真を見た時、小さな川が流れているのがわかった。

駅横の踏切を渡って今度は北へと上がっていく。

椎名町サンロード商店街

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ここが川跡だが、現在痕跡はない。

この道をずっと真っ直ぐ行くと正面に鳥居がみえてくる

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粟島神社弁天池

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ここが谷端川水源の池。

境内の神社由緒によると「往昔 ここは清水の湧出するせい静謐(せいひつ)の地であった。泉は溢れ川となってこの地を潤し、のちに谷端川の源泉ともなった。清泉をめぐって樹木が鬱蒼と茂り、神韻の地として畏敬された。(以下略)」

現在の弁天池は井戸水をくみ上げているそうだが、昔も水量は多くなく、千川上水から分けた水と併せて谷端川に水を流していた。(用途は農業用水)
千川上水玉川上水から分水した用水路のひとつである。

粟島神社横から

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左側に少しだけ写っている道路が千川上水の分水が流れていたところ。

要町通り地下鉄千川駅近く

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この先、地下鉄駅付近に分水口があり、ここの足元付近を通って後方へ流れていた。

小石川・谷端川はここまで。