前回、目白台から雑司が谷をまわった続きになります。東へ移動して護国寺界隈を歩きます。
文京区大塚5丁目は護国寺を取り巻くエリア、その外周部といったところに3つの名前つき坂道が存在します。
富士見坂、開運坂、希望の坂、今回はこの3坂を順に巡ります。
◆富士見坂〈ふじみざか〉
不忍通り清戸坂を下りきった先、東へ200mほどで護国寺前に出ます。そこを坂下としてまた東へ、緩く長く、ほぼ直線の坂道が富士見坂です。所在は大塚5丁目と2丁目の境界です。
長さは450mほど、坂上は春日通り(国道254号)との大塚三丁目交差点になります。坂上近くはやや傾斜がありますが、護国寺前からしばらくはほとんど平坦、というより逆に下り気味にも見えます。
不忍通り護国寺前交差点が富士見坂下、ですがこの付近はほとんど傾斜はありません。
突然の思いつき 「南角斎 仁王門」はこちらの門とはまったく無関係です。無視してください
坂下付近から東へ坂上方向を
そのすぐ先は護国寺惣門
続いて豊島岡墓地入口。
道路反対側から望む
豊島岡墓地は皇族専用の墓地で、見えているのはその正門です。通常なかへ入ることはできません。
護国寺前交差点から200mほど進んで坂下というかんじになります。
この先は傾斜がはっきりします
さらに100mほど上がると坂下通り入口交差点
護国寺や豊島岡墓地などをのせている段丘の裾をまわりこんで通る道が「坂下通り」といいます。こちらの通りに入ってしばらく行くと「開運坂」下に出ます。
まず富士見坂上へ、もう少しです。
最後に軽く右カーブして坂上、大塚三丁目交差点
横切るのは春日通り、不忍通りはこの交差点の向こうではすぐ白鷺坂の下りになります。
交差点横断歩道から不忍通り・富士見坂坂下方向を向いて
こちらの坂名標識は護国寺前と大塚三丁目交差点の中間あたり、北側の歩道にあります。
坂名標識
富士見坂 大塚二丁目と五丁目の間
坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。
とりかごをてにとりさげてともとわがとりかひにゆくおほつかなかまち
会津八一(1881~1956)
この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根
窪田空穂(1877~1967)
文京区教育委員会 平成14年3月
この日の天気は上々ですが富士山は未確認です。不忍通り周囲の建物も相当高く、今もこの富士見坂から富士は望めるのでしょうか?
◆開運坂〈かいうんざか〉
富士見坂の途中、坂下通り入口交差点を折れて坂下通りを北へ500mほど行ったところに「開運坂下」交差点信号があります。そこから西へ折れて上がる道が開運坂です。大塚5丁目6丁目境界にあります。
なお、坂下通りは水窪川(音羽川)の流路を埋めてひらかれた道で、通り沿いが(緩いですが)谷筋になります。
開運坂を上がっていくと最初左、続いて右に道がクランク状に折れ、その先で坂の上に達します。
坂の長さは全体で130mほど、坂下から左折するあたりまで傾斜が急です。
開運坂下交差点から
わりといろいろ主張する路面
少し上がったところ、反対側歩道に坂名標があります。
開運坂 大塚五丁目と六丁目の間
この坂名は、講道館の創始者で教育家の嘉納治五郎(1860~1938)によって名付けられたとされる。かつて坂上北側に講道館の道場があり、開運坂道場と呼ばれた。また、坂上突き当りには嘉納治五郎邸もあった。
講道館とは、嘉納治五郎によって明治15年(1882)に創設された柔道の道場であり、柔道の研究教授ととの普及振興をはかる教育機関として発展し、現在に至っている。
開運坂道場は、嘉納邸に隣接した場所に下富坂道場(小石川区下富坂町。現、文京区小石川一丁目)の建物を移築し、明治42年に開場した道場である。
開運坂道場には、全国から多くの柔道家が集まり研鑽が積まれた。また、大正期には、ここで女子への柔道指導が本格的に開始された。
その後道場は、昭和8年(1933)に水道橋へ移転した。
文京区教育委員会 平成26年3月
坂と言うより道場の解説でした。先代坂名標の文が見つかったので併せて載せておきます。
開運坂
坂名の由来についてはよくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう。
このあたりは、富士見坂(大塚3丁目交差点から護国寺前)の下であるところから、旧町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。
坂の上の南側には、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いで建てられた護国寺がある。護国寺の東側には、明治6年(1873)に開かれた豊島岡墓地(皇族墓地)がある。
豊島岡墓地の東側は、大塚先儒墓所である。江戸時代の高名な儒学者である、木下順庵(きのしたじゅんあん)、室鳩巣(むろきゅうそう)、尾藤二州(びとうにしゅう)や古賀精里(こがせいり)などの墓がある。
”護国寺に住みている鳩 屋根はなれ
高く飛びおり 春日の空に” 窪田空穂(1877~1967)
文京区教育委員会 昭和56年7月
こちらも周辺案内がメインでしたね。
開運坂の由来は、古い標識では「よくわからないが」とされていますが、新標識では嘉納治五郎が命名したように記されています。
道が折れる地点から坂下方向
勾配は10%の標示、急坂です。
ただしこれより上は傾斜も緩やかです。
同じ場所から坂上側
次の角から下方向
ほぼ坂上からその先
正面の道を奥へ行くと護国寺、豊島岡墓地の北縁を通って小篠坂の道路、その坂上地点に出ます。
現在、あまり特長のない坂、道路ですが、古くから存在していた道です。
◆希望の坂〈きぼうのさか〉
小篠坂と清戸坂の坂下が出合う護国寺西交差点のすぐ東隣り、不忍通りから入ってこの坂上にある小学校への通路としてひらかれた坂道です。「希望の坂」の命名は1978年と比較的最近です。
大塚5丁目の坂道、すぐ西側は豊島区雑司が谷1丁目になります。
坂下、不忍通り歩道から
ほぼ直線で長さは学校校門までが70mほど、その先も含めると150mくらいです。傾斜はやや急です。
入ってすぐ、不忍通り側を見て
上がりはじめて
左側は護国寺の墓地、さらにその左方は小篠坂です。
校門前にて
門を入ってすぐ右側に坂名標識板が立ってます。
文京区の坂名標識は数も内容も充実していて、このような新しい坂にも存在しています。
希望の坂 文京区大塚五丁目40
この坂の名は青柳小学校のみなさんからの募集により、昭和53年(1978)につけられました。青柳小学校は大正3年(1914)旧西青柳町に開校し、町名を校名としました。
小学校は昭和35年(1960)高速道路建設のため、現在地に移転されました。坂上には新校舎記念碑が立ち、坂道は子どもたちが楽しく学べる通学路であり、希望にみちた子どもたちの将来を願って、坂の名を「希望の坂」としました。平成6年(1994)開校80周年記念に「希望の坂」の歌の発表がありました。
”希望の坂の上から元気な声が聞こえる 青い空に 白い校舎 明るく歌う声
緑に囲まれた 青柳小学校 この坂道は ぼくの宝だ いつまでも忘れない”
文京区教育委員会 平成12年3月
学校移転前、この場所は護国寺の墓地の一部だったようです。
標識のあった付近から上
校内ですが、門が開いていたので曲がり角までお邪魔させてもらいました。
坂上近くから振り返り
左側は幼稚園です。
坂道地図は前回と同じものを使用しました。今回分は番号7、8、9です。
坂道地図
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