散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

坂道探訪 音羽の谷に下りる坂道(1)

文京区音羽あたりの地形はおよそ南北に細長くのびる谷筋です。入口は神田川が横切る現在江戸川橋交差点あたり、谷を奥に行くと突き当りは護国寺です。左右の台地から下りてくる坂道はいくつもあります。そんな中で名前のついた、大小さまざまな坂を訪ねてきました。

音羽谷は弦巻川と音羽川(別名:水窪川、東青柳下水)、小さな2つの川がつくった谷戸です。護国寺下である時は合流し、またある時はせずに2つの流れが関口の神田川まで続いていたり。現在川は暗渠ですが音羽川〈水窪川の名称が一般的?ですが、個人的にしっくりくるのでこの川名を使用〉の流路跡はよく残っています。
現在は谷筋を音羽通り(都道435号)と首都高速5号池袋線が貫き、地下を東京メトロ有楽町線が通ります。

音羽谷両側の台地、西側は目白台、東側は小日向台(小石川台)となります。それらの台地とを結ぶ坂道、今回(1)では谷の北側(奥側)から付属横坂、三丁目坂、鼠坂の3坂を取り上げます。

 

◆付属横坂〈ふぞくよこざか〉

音羽通り大塚警察署前交差点で東に折れて小日向台側へS字にカーブしながら上がっていく坂道です。長さは250mほど、わりと急坂、わりと最近できた坂道です。
坂上お茶の水女子大学筑波大学付属中学高校の間を分ける道となります。
『付属横坂』の名称はいつ頃ついたのか不明ですが、こちら筑波大付属中高校からきているのでしょう。坂に解説板標識などはありません。
これら学校の敷地、明治から戦前は日本陸軍の兵器支廠(大塚弾薬庫)で、間を通る道は存在しませんでした。昭和22年発行地図にこの道がはじめて現れます。
明治以前は陸奥磐城平藩主安藤長門守の下屋敷がありました。

坂下から

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大塚警察署前交差点の先から。前を横切る道は音羽川の川跡です。

 

上り始めて坂下方向

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道路反対側から坂上方向

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もう少し上から坂下方向

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切通しと銀杏並木が印象に残る道、坂上まで続きます。

 

坂上に近づき
上方向

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向かって左側がお茶の水女子大学、右側が筑波大付属中学高校です。

 

筑波大付属中高校入口前から

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道がほぼ平坦になったところから坂下方向

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左が付属中学高校、右が大学。

背後、坂の先へすすむと区立音羽中学、跡見学園中学高校などがあり、春日通り大塚一丁目交差点へ出ます。

ちなみにこちらの坂道、坂下付近にコクリコというレストランがあり、「コクリコ坂」という別名が使われているのを見かけました。ジブリの「コクリコ坂から」は横浜が舞台〉

 

 

◆三丁目坂〈さんちょうめざか〉

音羽通り大塚警察署前交差点を西に折れ、首都高池袋線の高架下を通り、目白台3丁目方向へほぼまっすぐ上がっていくのが三丁目坂です。交差点をはさんで付属横坂の対面になります。

坂下付近はわりと急坂ですが途中から平坦に近い緩さ、長さはあわせて250mほどです。
三丁目坂の三丁目はかつての町名、『音羽町三丁目』から来ています。

 

坂下付近から

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正面高架で横切るのが首都高、その高架道路下はかつての弦巻川流路ですが、痕跡は現在完全に消えています。

 

高架をくぐった先から大塚警察署前交差点方向

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交差点からこちら側へいきなり勾配になってます。

坂道標識が足元歩道の脇にあったのですが、いつの間にかなくなっていました。
そこに書かれていた文字はネット界隈に…拝借。

三丁目坂(さんちょうめざか)
音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。
坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(権三橋)がかかっていた。
音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、また徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより町名となれり」と記している。
文京区教育委員会   昭和53年3月

 

坂上方向

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道は途中ゆるいカーブが1か所、その上は直線です。

 

坂半ば

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傾斜の度合いが変化するあたり

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その上へ上がって

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この先はほぼ平坦ですが、ゆるーく次の交差点近くまで上がっています。〈この先は省略〉

右側建物は東京大学目白台インターナショナルビレッジ~「東京大学において研究・教育に従事する日本人学生、留学生 及び外国人研究者のための宿泊施設」つまり寮ですね。昔は東大医学部付属病院の前身でもある『永楽病院』のあった場所です。

 

道路反対側から坂下方向

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現在は開けた斜面を通る、あまり特徴のない坂道ではあります。坂上から先へすすむと薬罐坂からの道と出合い、さらに日本女子大目白キャンパスに突き当たります。

 

 

鼠坂〈ねずみざか〉

別名:水見坂〈みずみざか〉

森鷗外小説『鼠坂』の舞台になった坂です。
音羽谷の東側、小日向台へ上がる、現在は一部、階段と手すりもついた急坂、車やバイクは通れません。
戸切絵図にも音羽町六丁目裏に「子ツミサカ」の文字が見えます。ただし現在は音羽通りから細い路地を入ったところとなり、わかりにくい場所になっています。

 

足元、音羽川暗渠道の上から

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坂下、足元から上っていますが、最初は普通の坂道。

 

階段の手前付近

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ふり返って音羽通り方面

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階段にさしかかり

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途中分岐する方も階段

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左、少し上に解説つき標識がたってます。

 

坂中央付近にあります

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鼠(ねずみ)坂    音羽一丁目10と13の間
音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。
鼠坂の名の由来について『御府内備考』には「鼠坂音羽五丁目より新屋敷へのぼるの坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。
森鷗外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説『鼠坂』でこの坂を描写している。
また、”水見(みずみ)坂”とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻(つるまき)川の水流が眺められたからである。
文京区教育委員会    平成17年3月

 

坂上に近づきつつ

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左下にバンクシー発見!!

 

坂上、台地上はほぼ平坦

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坂上から下方向

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音羽川暗渠から坂の長さは110mです。

急傾斜の未舗装の細道であれば上り下りは難儀したでしょうけど、明治の頃にはそのような坂道はあちこちにあったはずで、鷗外さんの表現には何か別の感情がこもっているような気がします。
またこの坂には夏目漱石の逸話もあるそうですが、ここには記しません。Wikipedia鼠坂(文京区)からどうぞ。

 

音羽の坂道地図 今回分は1~3

 

 

時系列的にはこれに続きます。 

miwa3k.hatenablog.jp

その2,3

miwa3k.hatenablog.jp

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