文京区から豊島区、新宿区にかけて、目白台や豊島台の台地南側から神田川と妙正寺川が削った谷に落ち込む目白崖線、落合崖線といわれる崖にある坂道を訪ねました。
しかし坂道探訪の半ばでCOVID-19騒ぎが発生して中断、探訪のノートも中途半端な内容で8月に一度だけ出したままとなっていました。
このほどようやく周辺を再訪し、全体を網羅してまとめられそうな形になりました。
改1回目の今回は前回と同じタイトルのまま、新たに訪問した坂道を加筆、既出部分の内容も一部改め、出しなおすことにしました。
坂道は東側から西へ向かう形でたどったので、それに沿っていくことにします。〈改〉1回目は目白台から神田川方向へぬける、胸突坂から(幽霊坂)、豊坂、小布施坂、日無坂、富士見坂まで。
◆胸突坂〈むなつきざか〉(別名 水神坂〈すいじんざか〉)
江戸川橋から神田川に沿って西へ、椿山荘の下を過ぎるところに駒塚橋があり、胸突坂の坂下が神田川に出合うところとなります。
椿山荘の下にある会席料理店裏手、江戸川公園の遊歩道から
左側は神田川が流れ、坂道はもう少し先。
ところで隣りを流れているのは江戸川ではなく神田川ですが、江戸川橋、江戸川公園と「江戸川」の名称が使われてます。昔このあたりから江戸市中へ上水が引かれ、その堰から上流を神田上水、下流を江戸川と呼んでいた名残りです。
駒塚橋を背に坂下の入口
車止めから左へ、塀に沿って上がっていく坂道が胸突坂です。
塀の奥に見えるのは関口芭蕉庵内の建物の一部。この地には松尾芭蕉が延宝5年(1677)から8年(1680)まで住んだといわれます。
坂下に文京区による解説板、その前に「胸突坂」と刻まれた小さな石標もあります。
解説の文字を
胸突坂
文京区関口2-11と目白台1-1の間
目白通りから焦雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上がれないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
文京区教育委員会 平成10年3月
坂沿いは解説にもあるように、焦雨園、永青文庫、芭蕉庵、和敬塾と有名な建物などが並んでいますが、間を通る道は現在でも細くてうす暗い階段つきの急坂です。車両の通行はできません。また、古くから存在する坂道です。
坂下の車止めを入ったところから
少し上がってから下を
坂下の先に見えるのが神田川にかかる駒塚橋。
左は水神社(すいじんじゃ)
社には「水神神社」と記されています。
神田上水の守護神です。
坂上が見えてくるあたり
坂上の車止めから下を
左側一帯は焦雨園、明治30年に建造された旧田中光顕伯爵邸(非公開、講談社グループが所有、管理)。
少し先から垣間見る。
こちらは永青文庫建物の一部
(白く飛んでしまいました。)
永青文庫は肥後細川家が蒐集した、南北朝時代から現代に至る歴史資料、文化財、近代日本画、中国考古品、陶磁器等の保存のため設立されました。現在は博物館となって一般公開されています。
胸突坂の西側一帯は肥後細川家下屋敷(明治時代は本邸)のあったところで、永青文庫、現在の肥後細川庭園などは屋敷の敷地の一部です。
坂上の道が目白通りに出るところには学生寮である和敬塾(こちらも細川家屋敷の一部)があります。
◆幽霊坂〈ゆうれいざか〉
目白台1丁目、和敬塾と目白台運動公園の間を下って肥後細川庭園の西側へ出る幽霊坂は
の中で取り上げましたのでこちらは省略します。
◆豊坂〈とよさか、別名:ゆたかざか〉
文京区目白台1丁目の坂道。幽霊坂から目白通りを西へ350mほどの距離、目白通り日本女子大前交差点を南側へ折れるとすぐに豊坂にかかります。古くからある坂道です。
道は坂途中でクランク状にカーブしています。
傾斜は中ほどから坂上にかけて少し急になりますが、坂下側はゆるやかです。長さは200mほど。
屈曲するあたりから坂上交差点方向
同じく下方向
その先を曲がったところから坂上方向を振り返り
その付近から坂下
背後に文京区による説明板があります。
豊坂〈とよさか〉
目白台一丁目7と9の間
坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上がると日本女子大前に出る。
目白台に住んだ大町桂月(おおまちけいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
「目白台に上れば、女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴(えびちゃばかま)をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
坂下の神田川は井之頭(いのかしら)池に源を発し、途中、善福寺(ぜんぷくじ)川、妙正寺(みょうしょうじ)川を合わせて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰(おおあらいぜき)を築いて分水し、小日向台地の下を素掘りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。
文京区教育委員会 平成12年3月
ついでに旧町名案内も。(文京区にはあちこちに旧町名案内板があります。)
旧高田豊川町(たかだとよかわちょう) (昭和41年までの町名)
もと、小石川村の内である。延享(えんきょう)年間(1744~48)以前に町屋を開き、小石川四ッ家町(伝通院領)といった。
明治2年、町内の豊川稲荷神社の豊川と、付近一帯を下高田と呼んでいたので、町名を高田豊川町とした。
同5年、旧大岡主膳正(しゅぜんのしょう)、稲垣摂津守(せっつのかみ)、小笠原信濃守(しなののかみ)などの大名屋敷地及び武家地を併せた。
同34年、元小石川村飛地字豊川、高田村字神明下を合わせた。
明治34年、日本女子大学校(日本女子大学)が目白台2丁目に、成瀬仁蔵によって創立された。成瀬記念講堂は、コンドルの孫弟子田辺淳吉の設計により建てられた。
文京区
◆小布施坂〈こぶせざか〉
目白通り、豊坂の坂上が交差する日本女子大前交差点から西へ100mほど、小さな公園があり、そこを南側へ入る細い道があります。
小布施坂坂上付近から下方向
同じく上方向
坂上に車止めがあり、上部一部は階段のため、車で通過することはできません。(坂下から途中まで上がってくるのは可能)
坂上付近にある解説
小布施坂
江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守(せっつのかみ)の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正(しゅぜんのしょう)の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた、その道がこの坂である。
坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
坂半ばから下を
道は途中でわずかに〈く〉の字に曲がっています。
さらに下ってから上方向
坂下近くから
坂上から中間あたりまでは急勾配ですが、坂下近くは緩やかになります。
また、この坂道のすぐ横は新しい道路用地が確保されていて、都道25号?が拡張、延長されるようです。小布施坂の運命はどうなるのでしょうか。
◆日無坂〈ひなしざか〉(別名:東坂〈ひがしざか〉)
目白通りと不忍通りが交差する目白台二丁目交差点から南側に入る細い道の先に2つの坂道があります。富士見坂と日無坂です。
富士見坂の坂上近くで道が分岐し、一方が日無坂となります。
分岐点から左が日無坂
どちらも急勾配の坂ですが、日無坂の坂上近くは階段です。
富士見坂との分岐を振り返って
数段下ってから
上方向
坂名の由来は文京区によれば「ごく狭い坂で、両側の樹木の枝葉で日光も差さなかったので日無坂という。」とのこと。
坂はちょうど文京区と豊島区の境界になっています。上の写真だと左が豊島区高田、右が文京区目白台。
少し下ると勾配はゆるやかになっていきます
勾配の特徴などはすぐ東側(20m程度しか離れていない)の小布施坂と似ています。
坂の標識、解説板などはありません。
◆富士見坂〈ふじみざか〉
目白台二丁目交差点から南側に入る細い道
手前の道路は目白通り、古い建物の酒屋と写真館、その間へ入っていきます。
再び富士見坂、日無坂分岐
分岐点付近に「富士見坂」の標識
塀にはめ込まれて意外に目立たないです。何回か訪れていてはじめて気づきました。
富士見坂、ちょっと下って
こちらの坂名は富士山が見えたからとされていますが、方角的に正面ではなく、下るときの右横方向になります。現在は建物などでまったく見えないそうです。
代わりに坂の正面には新宿あたりの高層ビルが良くみえます。
中ほどから上を
勾配はかなり急で、標識があれば20%程度の値が記されていたでしょう。
坂下付近から上方向
坂下付近で勾配は緩やかになってゆき、のち平らになります。スキーのジャンプ台の傾斜と似ているような気がしました。
今回はここまでです。
今回とりあげた坂道は下の地図1から6になります。(2は別途幽霊坂特集にて取り上げました)
地図
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