今回は表記のとおり、雑司が谷と目白台北側に位置する名前付き坂道をまとめました。
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鬼子母神堂のある豊島区雑司が谷。「谷」という文字の入った地名ですから周辺に坂道も多いのか思いきや、地形図でみると緩やかな谷筋が1本通っているくらい。さほど目立った坂道はなく、名前のついているのは3つほどです。
今回はその3つ、御嶽坂、南坂、小篠坂を訪ねます。
◆御嶽坂〈みたけざか〉
坂の所在地は雑司が谷ではなく南池袋になりますが、雑司ヶ谷霊園の南西側に隣接しています。
南池袋4丁目、霊園南側の清立院という寺院の前から東へ上がっていきます。
最初は清立院本堂とそちらへ上がる細い階段
御嶽坂の道は階段上と本堂の間を左から右へ上がっていきますが、ここには写っていません。
階段途中に白鳥稲荷の鳥居と祠があります。
御嶽坂から坂下方向
左側が白鳥稲荷。
少し下へ戻って上方向
左は清立院へ上がる階段。
少し上がって振り返る
坂道には立派な並木。
坂上に近づき
左側一帯は雑司ヶ谷霊園、木々の葉が色づいてきました。天気もよくてとても良い雰囲気です。
坂上付近から振り返って
坂は上がるにつれて左へ軽くカーブ、穏やかな傾斜で長さは約120mです。
標識などはありません。
坂名の由来は清立院の山号が御嶽山といい、そこからきているようです。
読みは同じで「三丈坂」と書かれることもあるようです。
◆南坂〈みなみざか〉
雑司が谷1丁目。昔の川筋を埋めて通した弦巻通り、弦巻通り商店街の途中から横へ入り北へ上がっていく坂道です。
坂下・弦巻通りから
登りはじめて
坂の途中でいくつか道が分岐しています。
細い道になって、少し先が坂上
坂上付近から振り返って
細い地味な坂、長さは70mほどでしょうか。傾斜はさほど急ではなし、そこそこ。
標識などはありません。坂名の由来も不明ですが、豊島区が発行した「雑司が谷まち歩きガイドマップ」のなかに記載があるそうです。
記録に残していないのですが、この坂を上がりはじめてすぐ右に折れる道の片側に、古い擁壁と橋欄干のようなコンクリートのガードが残っています。暗渠化前の坂下、弦巻川を含めた風景を想像逞しくする遺物に思えました。
◆小篠坂〈こざさざか〉
別名:小笹坂〈こざさざか〉、乞食坂〈こじきざか〉
豊島区と文京区の境界線と首都高池袋線にはさまれた、都道435号音羽池袋線の坂道です。辛うじて雑司が谷の坂ですが、一部は文京区側にもかかり、坂名標識は文京区が建てたものが存在しています。
不忍通りとの護国寺西交差点が坂下、護国寺の墓地西側に沿って上がる、緩く長く道幅の広い坂道です。
坂上付近からその先
横断歩道の向こうへ続く左カーブは小篠坂の先、まだ傾斜も若干残ってますが、そちらは戦前、東京市電を通すために開かれた道路です。つまりここが元は坂上の位置です。
少し坂下方向へ進み、首都高下から下を
道幅が広く、一方の歩道は首都高高架下にあります。そちらは眺望が期待できないので歩いていません。
坂道途中から下りつつ2枚
坂下付近、護国寺墓地へのアプローチから
坂道はこの左側で護国寺西交差点です。左下に標識板が見えます。
標識と解説
小篠坂(こざさざか) (小笹坂)
豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった”幕府の御鷹部屋御用屋敷(おたかべやごようやしき)”から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る道として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ「窪田空穂」は、次のようによんでいる。
雑司が谷 繁き木立に降る雨の
降りつのりきて 音の重しも
東京都文京区教育委員会 平成元年3月
護国寺西交差点近く、坂下
交差点歩道橋上から小篠坂坂上方向
道は多少カーブありますがほぼ直線、長さは約400mです。
昭和40年頃まで、この坂道に都電が走っていました。
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目白台北部
文京区目白台では目白崖線にかかる坂道を少し前にまとめましたが、今回は目白台北側に位置する坂をいくつか。清戸坂、薬罐坂、(幽霊坂)の3つ。幽霊坂は既出でリンクのみです。
◆清戸坂〈きよとざか〉
別名:清土坂〈せいどざか〉
不忍通りの坂道です。坂上は目白通りとの目白台二丁目交差点、坂下は小篠坂下でもある護国寺西交差点。ほぼ一直線、道幅の広い(4車線)、緩く長い(延長650mほどの)坂道です。
傾斜はとても緩いですが、とりあえず向こうへ上がってます。
同じく坂下付近から下方向を
この背後、南(右)側から薬罐坂が出てきます。
坂途中、坂上まではまだあります
この歩道橋をくぐってもう少し
道路反対側は日本女子大目白キャンパス。
その向こうで幽霊坂と出合います。
幽霊坂合流
正面の細い道が幽霊坂。
坂上と歩道橋の中間あたりに清戸坂の標識があります
清戸坂 (清土坂) (目白台2-9と2-10)
延宝4年(1676年)御三家、尾張徳川家の御鷹場が、中清戸(現 清瀬市)につくられた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。
首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から目白通りに向っての広い道は 昔から”清戸道に登る坂”ということで『清戸坂』といわれた。
江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。
明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。旗竿には、『官許の牛の乳』と假名(かな)と、ローマ字で書かれていたという。
文京区教育委員会 昭和62年3月
現在の目白通りが清戸道と呼ばれ、清戸道に合流するこの坂道が清戸坂です。清戸坂の道も古くから存在していました。江戸切絵図では町はずれとの境界みたいなところに存在しています。
坂道標識付近から坂下方向
◆薬罐坂〈やかんざか〉
目白通り和敬塾の門近くで北側の住宅地に入る細い道を進んでいくとこの坂上に、さらに坂を下っていくと不忍通り清戸坂の途中に抜けます。
坂途中にある解説の文字を
薬罐坂(夜寒坂) 目白台2丁目と3丁目の境
江戸時代、坂の東側は松平出羽守(でわのかみ)の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
やかん坂のやかんとは、野豻(やかん)とも射干(やかん)とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
この坂を挟んで、東西に大町桂月(おおまちけいげつ)(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(くぼたうつぼ)(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
この道を行きつつみやる谷こえて蒼(あお)くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)
文京区教育委員会
江戸切絵図を見ると、坂の東側に松平出羽守下屋敷はなく青山百人組深地と記されています。いずれにしても昔は淋しく、周辺の道の数もとても少なかったようで、このような小さな坂道にも名前がついたのかもしれません。もちろん現在、周辺一帯は住宅に埋めつくされています。
坂の下り口より手前
下りはじめてすぐ
坂道は直線で傾斜もゆるく、長さも100mほどしかありません。
なかほどから
前方は不忍通り清戸坂、右に坂名標識が立ってます。
不忍通り歩道から振り返って
読みはいずれも同じですが、薬罐坂のほかに夜間坂、野豻坂、夜寒坂、射干坂の書き方があるようです。
◆幽霊坂〈ゆうれいざか〉
「遊霊坂」と書かれることもあるようです。
坂道探訪 幽霊坂を巡る(5) 文京区・中野区 - 散歩の途中
今回は以上です。
それぞれ坂道の位置を以下の地図に載せました。
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