前回に引続き本郷の坂道は菊坂に接続する坂道2つ、菊坂の谷間に下る坂道2つです。
◆梨木坂〈なしのきざか〉
別名:梨坂〈なしざか〉
600m以上の長さがある菊坂の3分の2ほど下ったところを分岐して北へ上がっていく細い坂道です。
坂下、菊坂の通りから
上がり始めてまもなく
坂の長さは100mくらい、勾配はそこそこあり〈ってどれくらいだ?〉。江戸時代に坂名がついたようなのでその頃から存在する古い道、大型車は通れません。
坂のなかほどに坂名標識が立ってます。
梨木坂 (梨坂)
「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と「御府内備考」にある。また、『南向茶話』には「戸田茂睡(もすい)(江戸前期の歌学者、『紫の一本(ひともと)』の著者 1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本(なしのもと)と称した」とある。
いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺では菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので「菊なし坂」といったという説もある。
戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。
文京区教育委員会 平成18年3月
標識を左に坂上を望む
坂上から3~40m先へ進むと築100年以上、本館が登録有形文化財に登録されている鳳明館という日本旅館建物があります。
鳳明館本館入口付近
左側が玄関、前に登録有形文化財のプレートが取り付けられています。右の戸口は別館につながってます。建設された当時は下宿屋だったそうです。
道をまっすぐ進むと突き当たりますが、そこは左へ下る胸突坂の坂上です。(坂名標識にある「丸山通り」なのかな?)
少し戻って別館の後ろ側
運悪く道路工事で通行止…別館裏側は観察できませんでした。
◆胸突坂〈むなつきざか〉
梨木坂の道が鳳明館本館横で突き当たり、左を見ると胸突坂の坂上です。
胸突坂上から
坂を少し下ってふり返り
右上鳳明館本館はこちらから見ると実質3階建て。
坂道中間くらいにある『本郷倶楽部』
こちらも和風(昭和風)の建物、三菱電機ビルテクノサービスの会社施設とのこと。ここ、坂道の傾斜がなかなかです。
その付近から坂下方向
突き当たると菊坂通りです。
坂下付近から上
胸突坂は長さ約100m、途中『く』の字に曲がり、なかほどは特に急坂です。
坂名標識はありませんが文京区発行の冊子「ぶんきょうの坂道」に記載があり、それによれば急な坂を上る姿勢が坂名の由来となっています。また、元々はこちらが『菊坂』と呼ばれていたともありましたが、詳しい経緯は不明です。
菊坂通り少し手前から
向こうの通りに出て右はすぐに菊坂下交差点、胸突坂は菊坂の坂下近くにつながっています。
また、文京区には目白台、白山、本郷の3つの胸突坂があります。
◆鐙坂〈あぶみざか〉
菊坂通りに直接面する坂道ではありませんが、菊坂下道などが通る谷間に下りてくる細い道です。何年か前までは坂下の谷底に菊水湯(銭湯)や木造の古い建物が多く残っていたのですが、次々に建て替えられて風景が変わりました。
谷底から2ヶ所
路地を覗く
下の写真、正面上は右京山といわれ、建物は都営住宅など。崖下の足元は暗渠のようです。
少し先へ
坂下になります。新築アパートの部分も先ごろまで木造建築の古い民家、庭の緑も濃く、その家の前に坂名標識が立っていましたが、右の崖寄りに移動しています。
正面へ
鐙坂(あぶみざか)
本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改撰江戸志』)などといわれている。
この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内(おおこうち)家松平右京亮(まつだいらうきょうのすけ)の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。
文京区教育委員会 平成6年3月
解説板の下に「2011文の京都市景観賞 ふるさと景観賞 鐙坂」の看板も取り付けられています。
「湾曲した特徴のある坂道は、石積みや豊かな緑、文人の旧居跡などが醸し出す雰囲気が相まって、歴史的な風情のある坂として人々に親しまれ、「坂のまち文京」の景観づくりに貢献しています。 文京区」
坂の長さは50m程度、傾斜はあり、急坂と言ってもいいかもしれません。
坂の途中にはまだ古い建物が残ります。
トタン張ですが下階中央部に古そうな下見板がのぞきます
その坂上側隣りの家の前には「金田一京助・春彦 旧居跡」の解説板が立っています。建物は建て替えられていると思います。(解説も長いので省略)
そのまた隣りと、ひとつ離れて
下側、ほぼ坂上の位置になります。
その民家の右下に階段が見えますが、その奥を覗くと
最後に坂上から見た鐙坂
◆炭団坂〈たどんざか〉
鐙坂の1本東側の道〈ではあるけれど路地が多く説明が難しい〉、菊坂には直接接続しませんが谷底に下りて菊坂下道に突き当たる、現在は階段坂です。
付近から『菊坂の谷』を眺める
手前側、家の屋根が見える部分が菊坂の谷の底。すぐ先木造でない建物が横に並んでその表側が菊坂通りになります。
この右側に炭団坂があります。
坂上から
見ての通り、最近改修された階段坂です。
この横手には「坪内逍遥旧居・常盤会跡」の解説板が立っています。常盤会というのは逍遥の引越後、旧宅を寄宿舎としたもので、正岡子規、河東碧梧桐などが寄宿したということです。(解説より)
坂上の少し先には秩父セメント創業者である諸井恒平氏邸があります。
手前はおそらく勝手口ですが、レンガ塀や敷地の広さを強調してみたく端から撮ってみました。
先へ行くと春日通り、後ろへ戻ります。
炭団坂、坂途中から
標識に寄って
炭団坂(たどんざか)
本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
文京区教育委員会 平成6年3月
階段下から
背後はあまり傾斜もなく菊坂下道へつながっています。
右へ折れるとすぐ下道。
階段部分だけだと長さは30m程度、下道突き当りまで入れても60mほどの坂です。階段となっているのでその部分の傾斜は大きいです。
坂道位置地図 今回分は 18.梨木坂 19.胸突坂 20.鐙坂 21.炭団坂
前回その6、5