散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

新河岸川を上流から歩く その3 川越不老川合流から志木いろは橋まで

新河岸川最上流に位置した仙波河岸から不老川を合流して水量もやや増加し、続いて川越五河岸と呼ばれた5つの河岸場跡を通過します。
新河岸川は元々『内川』などと称されていましたが、河川改修により江戸との間に舟運がはじまり、川越郊外に設けられた川越五河岸などに由来して現在の名称になったということです。
その川越五河岸は上流側から扇河岸、上新河岸、牛子河岸、下新河岸、寺尾河岸。さらに下流にも河岸場は並び、舟運に関与したものは合流した先の荒川(隅田川)を含めて37ヶ所存在しました。

まずその2の最後、不老川合流地点を前回と少し角度を変えた位置から
不老川合流と新扇橋

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前回最後は左端に写る新扇橋上から合流点を見ました。こちらからは手前が新河岸川、奥が不老川(としとらずがわ・ふろうがわ)、合流して左へ新河岸川です。

新扇橋の名前に『扇』が使われてますが、橋から下流に300mほどで川越五河岸の最初、扇河岸がありました。
河岸場は本川から連絡水路で結ばれていて舟が付けられるよう水が溜まっていましたが、現在は湿地や田畑、一部は住宅地になっています。

準備不足で肝心の河岸場跡が写ってないのですが、
扇河岸付近の新河岸川

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足元堤防上の道路右側〈見切れてる位置に!〉扇河岸跡。河岸跡には小さな水路(小川)が残っていて新河岸川へ排水するための樋管設備(右の水色)が足元の堤防前方に写ってます。名前は『扇河岸樋管』でした。

 

扇河岸跡から約800m下り、新河岸川上流方向を見て

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上新河岸あたり。現在対岸は普通にひとつの川の堤防護岸になっていますが、明治期迅速測図でこの付近を見ると2本の河川が合流し、その下流側に池か沼が広がっています。おそらく池沼となり水流が淀む水面を利用してこちら右岸側に上新河岸が設けられていたようです。
現在対岸に見える住宅地は沼(池)の真ん中の低地でした。
2本の川とは現在の新河岸川と伊佐沼から流れ出ていた古い新河岸川(九十川)に相当します。九十川旧流路は現在も跡が残りたどることが可能です。

 

上の写真から200m弱下ると旭橋が架かります。橋の下流右岸側には下新河岸がありました。
旭橋上から下流方向下新河岸跡

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右側広場(駐車場)となっている周辺が河岸場跡、奥に木々があるところは日枝神社、その手前河原の設備は船着き場にもなっています。

 

橋のたもと右岸側には石碑と解説板があります

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一部内容がかぶりますが両方読んでみます。
碑文から

川越市指定 史蹟新河岸川河岸場跡
今から三百余年まえ川越城主松平伊豆守信綱がもと内川といった荒川の支流、新河岸川を改修して川越と江戸間の舟運を開いた。当初は年貢米を主としたが、のち貨客の輸送がふえ旭橋を中心に上下新河岸、牛子、扇、寺尾の五河岸には船問屋、商家が軒を並べ、日夜発着の船が絶えなかった。また その物資を運搬する車馬の出入も多く賑わいを極めた。しかし鉄道の開通により次第に衰微に傾き いわゆる九十九曲り三十里の舟唄もすべて昔の語り草となった。
《下部の新河岸川舟唄の歌詞は省略しやす》

解説板

市指定・史跡
新河岸川河岸場跡
新河岸川舟運の歴史は、寛永十五年(一六三八)川越仙波にあった東照宮が火災で焼け川越藩がその再建用資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用したことに始まるといわれる。
寛永十六年、川越城主となった松平信綱は、もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的に改修、水量を確保して川越ー江戸間の舟運体制を整えた。旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸の五河岸沿には船問屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮戸河岸などが開設され明治維新まで繁栄が続いた。当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般商品も多く運ばれるようになり(江戸行ー醤油・綿実・炭・材木、川越行ー油・反物・砂糖・塩・荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。
現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水神宮、また明治三年建造の船問屋伊勢安の店構えなどがあり、往時を偲ばせている。
昭和五十五年十一月 川越市教育委員会

 

対岸(左岸)に渡って旭橋、下新河岸の船着き場あたり

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牛子河岸がこちら側にあったという事ですが、はっきりした場所は特定できませんでした。左岸側この一帯の地名は現在も『牛子』です。
また、下新河岸の下流右岸側にあった寺尾河岸も未確認、牛子、寺尾の河岸はあまり痕跡が残っていないようです。

これで川越五河岸から離れます。

 

旭橋から左岸側を約800m下ったところ
下流方向を見て

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右岸側には大きな遊水池があり、もう少し下ると左岸側に九十川現流路の合流点があります。

 

遊水池の越流堤付近

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前方橋のかかる越流提の向こう、現在広い遊水池になっていますが、以前より水の湧く湿地帯が広がっていたようです。(明治期迅速測図では『沼』表示)右に見える蔵のような建物は遊水池の排水ポンプ場

 

九十川合流点、下流側から

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正面奥対岸にも水門があり、川越江川合流点。

 

水門うしろの九十川水路

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伊佐沼から流れ下る九十(くじゅう)川、元々は新河岸川に相当する河川でしたが、上流の赤間川からの河川付替えや九十川自体も上新河岸付近にあった合流点が2㎞近く下流の当地点(川越市南田島)に移されるなど変遷がありました。
現在は堤防天端歩道整備中のようです。

 

合流地点から300mほど下ると川崎橋が架かります。合流点付近から新河岸川流路上が川越市ふじみ野市の境界となっていますが、橋の手前から市境が川の北東側へ突き出す形となります。そちらが新河岸川の昔の流路で境界はそちらに沿っているためです。

一方新流路の方、堤防上の歩道が両岸いっしょに工事中通行止。でも遠くを見ると工事は片側でしか進行中ではない様子。
もう一方は人や重機が入ってないのをいいことに、侵入

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そのうち見えてきたのが養老橋

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その向こうに福岡河岸がありました。

 

養老橋と船着場入口(ふじみ野市福岡3丁目)

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福岡河岸は1733(享保18)年頃の開設、対岸には古市場河岸も存在し、あわせて大きな河岸場であったようです。

後ろには吉野屋土蔵〈最近改修されてた〉があります。

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登録有形文化財に指定された、福岡河岸の回漕問屋吉野屋の文庫蔵です。外壁の傷みが激しくなり2012年に改修。

近くには船問屋、福田屋屋敷跡を保存した福岡河岸記念館があります、が、これまた勘違いと準備不足で立ち寄るのを忘れました。養老橋対岸で気づきましたが、戻る気が起きず遠景にて手抜き。
福岡河岸記念館、河岸対岸から

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右端に吉野屋土蔵、あそこまでは行ったのに...機会があれば再訪したいです。

 

養老橋を渡って左岸側を下ります。
しばらく行くと名残りの紅葉は川沿いにあった蓮光寺から

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このあたり対岸はちょっとした段丘となって崖が続きます。養老橋から1㎞ほど先で振り返ると台地の先端部

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段丘上の大きな建物は大日本印刷の工場、より手前先端部の林の中には権現山古墳群が存在します。
古墳時代初期の権現山古墳群は前方後方墳1基と方墳11基からなり、埼玉県指定史跡とのことです。

 

少し下ると国道254号富士見川越バイパス第2新河岸橋。くぐった先に新河岸川放水路の分流点に渋井水門と続きます。
渋井水門は拡張工事中

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新河岸川の流れを分けた放水路の下流側から見てます。左側1ゲートを右にもう1ゲート追加してますね。
新河岸川が増水したときに渋井水門を開いてこの放水路からびん沼川(荒川の旧流路)へ洪水が導かれ、さらに荒川へ放流させるようになってます。

 

近くの橋から放水路下流方向

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上流側にある水門が工事中で水がこちらに入ってこないはずなので、先のびん沼川から入り込んだ水がたまっているのだと思います。釣りをしている人が結構います。

 

新河岸川本流へ戻り、福岡橋を渡って右岸側へ。
ふじみ野市福岡新田付近

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右が新河岸川、この付近は大正から昭和にかけて改修された新しい流路。左は大規模な流通倉庫建設工事現場、地名が福岡新田というので元は灌漑干拓された農地だったのでしょう。

 

ふじみ野市運動公園の南側で福岡江川を合流、さらに下ると新伊佐島橋。
新伊佐島橋下流側から

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右端に樋門ゲートが写ってますが、河川改修工事前の新河岸川旧流路からの水が新流路へ合流しているところです。お約束的に市の境界は旧流路に沿っています。(ここはふじみ野市富士見市

 

新伊佐島橋から250mで伊佐島橋。
伊佐島橋のたもとから上流方向

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堤防の車止めに「新河岸川富士見市の舟運」という結構細かな解説が針金止めされてました。その解説によると写真の前方100mあたり左側に伊佐島河岸(勝瀬河岸)があったということです。

 

伊佐島橋から100m下流で砂川堀合流

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護岸等工事中で対岸は通行止めでした。

 

さらに5~600m下り、
南畑橋近くから上流方向

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南畑橋から約700m、上流方向を見て

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この付近は河川改修で流れが直線化されてます。

 

もう少し下ると国道254号富士見川越バイパス第1新河岸橋をくぐり、富士見江川の合流点に達します。
富士見江川合流手前

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合流点を間から(富士見市鶴馬)

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右から富士見江川、左が新河岸川、向こうへ流れていきます。

右側へ出て合流点をふり返り

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手前富士見江川、足元に「準用河川富士見江川起点」と刻まれた石標と河川管理境界の看板がありました。また、この付近にも河岸場、鶉河岸がありました。

ところで新河岸川に合流する河川で「〇〇江川」って多いですね。ここまで川越、福岡、富士見。

 

合流点から200mほど下ったところで

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新河岸川堤防の外側ですが、富士見江川の旧流路ではないかと思われます。以前は今よりやや下流で合流していたようです。

 

合流点から600mほど、木染橋の下流

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右側が少し小高く、水子貝塚が見つかっています。

丘陵地との境、林の際には
新河岸川旧流路跡

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こちらは大正初期頃までの流路のようです。

 

少し下って浦和所沢バイパス・岡坂橋の下をくぐり、また200mほど
こちらは南畑大排水路の合流

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合流するのはここの北側に広がる南畑地区の農業排水です。

この付近河川改修前の新河岸川はあちこちへ大きく蛇行していたようで、排水路合流点の対岸には旧流路跡が今も水路として残っていました。

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現在は細い水路が改めて掘られてますが、その両側に広かった川幅の痕跡が残ってます。

この付近で富士見市から志木市へ入ります。

 

200mほど下ると袋橋、その上から下流方向(志木市上宗岡1丁目)

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ここから左岸堤防上を下ります。

 

袋橋から約500m下り

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いろは橋の下へ

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志木市の中心部、工事中ですがいろは橋まで来ました。

もう少し下流側から

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オレンジ色フェンスで囲まれたいろは親水公園、その奥志木市役所、いろは橋の下などみんな工事中です。
この左側では柳瀬川が合流しています。

 

そこから先はまた次の回へまわすことにします。〈年またぎ案件確定〉

2022年もよろしくお願いいたします。

 

新河岸川の流路地図。今回その3はオレンジ色のライン部分

 

前回分

miwa3k.hatenablog.jp

 

次はこちら

miwa3k.hatenablog.jp