文京区音羽の谷に下る坂道、2回目は鉄砲坂、鳥尾坂、八幡坂、鷺坂の4坂です。前2つは西の目白台から、後2つは東の小日向台から下ってきます。
◆鉄砲坂〈てっぽうざか〉
古くからある坂で、江戸切絵図にも「鉄炮サカ」の文字があります。現在でも道は細く、微妙に曲がりくねっているうえに勾配にも変化があり、自動車通行止めの標識があります。また、メインストリートの音羽通りとも直接接していないので場所が分かりにくいです。
最初に坂下にある坂名標識から
鉄砲坂(てっぽうざか) 文京区関口3丁目と目白台3丁目の境
この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。
文京区教育委員会 平成8年3月
標識右側の安政四年(江戸切絵図の一部分)『音羽繪圖』、桂林寺の下に的場、その下を通るのが鉄砲坂(鉄炮サカ)です。
昔の的場あたり現在の坂下
たくさんの交通標識の右側に坂名標識が立ってます。塀の向こうが昔の的場、面積はそんなに大きくなかったように思えます。
坂下からすぐ上を首都高高架が横切っています。
学生寮入口のほぼ同じ位置から上方向
坂の半ばは傾斜がかなり急です。
手の込んだ石塀に蔦も色づき、よいアクセント
その先急坂ではなくなります。
坂上側から急勾配を覗き込んで
背後は緩やかになりますが、まだだらだらと上がります。
あと100mほど緩く続く傾斜
道幅はやや広がって、こちらは乗用車も通れそうです。
この先へ進むと道路は目白通り目白台三丁目交差点に出ます。
また、鉄砲坂から北へ150mほどで三丁目坂、南へ同じくらい行くと鳥尾坂です。
◆鳥尾坂〈とりおざか〉
最初に坂名解説の標識を〈見にくいですね〉
鳥尾(とりお)坂 文京区関口3−9と11の間
この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。
文京区教育委員会 平成9年3月
首都高高架下から
坂の傾斜は首都高高架にかかるところからはじまります。左側は蓮光寺墓地、右側は関口台公園。坂の長さは140mほどです。
道左側、カーブミラー根元に坂名を刻んだ石柱、公園入口近くに坂名標識が立っています。
石柱前から公園入口
柱表面に細く「鳥尾坂」とあります。〈見にくいです〉
坂上が見通せるところまで移動
解説によれば「鉄砲坂が急坂すぎたので」とありますが、こちらもまったく緩やかではありません。一本調子の急坂、「一気に上がる」「ころがり落ちる」坂道です。
坂半ばから下方向
坂上に近づき
坂上で左側は獨協学園中学高校、右側はそのグラウンドで、フェンスの向こうに東京カテドラル聖マリア大聖堂が見えます。
上ってきた道路、この先直進は歩道、車は左折になりますが、どちらも平坦な道となります。
坂上から下を
ところでこの坂道、標識の解説文を見ると明治の頃開かれた印象を持ちますが、明治から昭和初期の地図には道が見当たらず昭和22年が初出?、少なくとも昭和になってから開かれた道です。余計なことですが、鳥尾小弥太氏(1905)明治38年没。
◆八幡坂〈はちまんざか〉
音羽通り目白坂下交差点を東側へ細い道を入ると音羽今宮神社、さらにその横を入り、途中折れ曲がって上がる階段つきの急坂です。長さはおよそ120m。
坂の入口
右側は音羽今宮神社の駐車場になってます。左の壁際に坂名標識。
拡大
八幡坂(はちまんざか)
『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。
明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山(くぜやま)」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。
文京区教育委員会 平成5年3月
江戸切絵図には田中八幡別當西蔵院、屋敷には久世大和守、久世内匠と記され、その北側、現在の鳩山会館から小日向台上あたりはすべて御賄組となっています。
途中、踊り場のような屈曲地点から下方向
同位置から上方向
折れ曲がった先はほぼまっすぐです。
左上、建物のあるところは「石川啄木初の上京下宿跡」だそうです。
上りつつ下を振り返り
坂が折れている手前に建物がなく、見通しがよいです。
現在向こうへも道路があり、T字路になっています。そちらへ入っていくと鷺坂に至ります。
階段のいちばん上から
階段はここまでですが、背後にまだ坂道が少しあります。
最後のゆるい上り
人がいるあたりまで勾配が続き、その先は平坦です。
道の左側塀の向こうは広く鳩山会館の敷地、こちらはその裏手、小日向台町(旧名)になります。
八幡坂途中から下総関宿藩主久世大和守屋敷跡に通る道を鷺坂へ
大谷石だと思いますが、よく見るとレンガのような積み方してます
◆鷺坂〈さぎざか〉
音羽通りが江戸川橋に出てくる直前、江戸川公園前交差点を東側に入る細道を5~60mほど行くと石垣の立派な崖を見ることができます。その奥が鷺坂の坂下です。
坂下付近から
道は短い距離を急勾配で上がり、すぐ鋭角に左折しています。
その角に坂名を刻んだ石碑、解説板が立っています。
解説の文字
鷺(さぎ)坂 小日向二丁目19と21の間
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿(せきやど)藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山(くぜやま)」と呼んで今もなじんでいる。
この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(ほりぐちだいがく)(詩人・仏文学者 1892〜1981)やその父で外交官の堀口九万一(ほりぐちくまいち)(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国(やましろのくに)の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。
一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり」とある。
文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
文京区教育委員会 平成18年3月
その下にあるプレート
2008 都市景観賞
TOWNSCAPE PRIZE 【ふるさと景観賞】
鷺坂は、急な勾配と昔ながらの石積みが現存し、江戸風情を色濃く残した坂として人々に親しまれ、「坂の街・文京」の景観づくりに貢献しています。
文京区
石碑右側面、万葉仮名の文字抽出:山城久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散来 〈文字の間違いあったらごめんなさい〉
歌は柿本人麻呂が詠んだものだそうです。
石碑の前から坂の様子
さらに上がって曲がり角を振り返り
いったん上がるとさらに”上”から道が合流してきます。
文京区の紹介資料では左の急坂は鷺坂に含めていないようで、無名の別坂となります。それぞれの道路が開かれた時期が異なるのかもしれません。
左の坂を上がった位置が小日向台の台地上、久世山でもあります。その先へ行くと大日坂の坂上に出ます。
鷺坂が開かれた時期ははっきりしなかったのですが、大名屋敷地だったので江戸時代には存在せず、明治、大正期の地図にも無いようにみえます。解説にある、石碑がたてられた昭和7年頃に開通したのかと思われます。
坂の長さは文京区によれば70m、特に坂下が急坂です。
音羽の坂道地図 今回分は4~7
4.鉄砲坂、5.鳥尾坂、6.八幡坂、7.鷺坂
その1
その3