前回のつづきです。小石川台地の先端、春日の坂道を3つ。
◆富坂〈とみさか〉
別名:西富坂〈にしとみざか〉、飛坂〈とびざか〉
読み方は『とみさか』『とみざか』とあるようですが、坂途中の解説と交差点信号機のローマ字表記が『とみさか』なので濁らないほうにしました。
文京区春日1丁目と小石川2丁目境界をなす春日通り(国道254号)の大きな坂道です。
春日通りは東の本郷方面から東富坂を下ってきて白山通りとの富坂下交差点に至り、富坂を上がって富坂上交差点に達します。上るのは小石川台地、富坂上から台地の尾根筋を貫いて池袋方面に向かいます。
『舌状台地』という言い方がありますが、小石川台地先っぽのこのあたりはまさに形が舌のよう。富坂は舌先から奥へ上がっていく坂道です。
富坂下交差点から坂上方向
坂道に取り付いて歩道から
もうちょっと上がったところ、左側に礫川(れきせん)公園の入口、公園と歩道の間に富坂の解説板と旧町名案内が立ってます。
富坂(とみさか) 春日一丁目と小石川二丁目の間
「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町に下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫一本』にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、”アララギ”の編集にあたっていた。
「富坂の冬木の上の星月夜、いたくふけたりわれのかへりは」
島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)
文京区教育委員会 平成12年3月
ちなみに『旧町名案内』ではこの一帯「小石川町」と記されていました。
少し上がり、道路反対側から坂上方向
坂途中の信号から坂下方向
大きな建物は文京区役所シビックセンター。上の展望デッキからの眺めは良いです。
手前は礫川公園と東京都戦没者霊苑あたりの緑です。
現在道路はこのあたりから坂下に向かって左へカーブしていますが、明治中期までは直進して正面の礫川公園内を斜めに横切ってシビックセンターの後ろへ出ていました。
さらに上がり坂上近く
もう少しで富坂上交差点、このあたり傾斜も緩めです。
富坂上交差点
横断歩道の真ん中から
富坂下から富坂上まで距離は380m、坂下で少し勾配がありますが上はそれほどきつくありません。交通量多くて長く広い坂道、明治後期から東京市電が通っていたので当時から広い道幅でした。
◆安藤坂〈あんどうざか〉
冨坂上交差点から春日通りを西へ200m弱で伝通院前交差点、そこを左折した先が安藤坂の坂上です。
春日通りを通っていた市電もそこで左折し安藤坂に入ってきていたのでこちらの道路も昔から道幅が広く造られていました。(道幅が広いのは江戸時代からとのこと。標識解説より)
一方、安藤坂の坂上から交差点を直進すると伝通院門前、この道路は伝通院への参道でもあります。
安藤坂坂上近く、区立三中前交差点から下方向
春日通りとの伝通院前交差点を80mほど入ったところから傾斜がはじまります。
道は坂下に向かい最初真っ直ぐ下りていきますが、最後の方右に屈曲しそのまま坂下に達します。
傾斜は見ての通りそれほどきつくはありません。
少し下りた位置から坂上の交差点方向をふり返り
坂道標識は坂上の三中入口近くにあります。
安藤坂 文京区春日1・2丁目の境
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛(おたかがかり)の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
文京区教育委員会 平成8年3月
坂半ばから上方向
この左方〈完全に見切れてますが〉から坂下のカーブあたり一帯が安藤飛騨守の屋敷があったところです。今はビルやマンションに覆われてますが何やら立派な邸宅も存在しますね。
坂下近くの急カーブ
向こうが坂上方向。元々ここにカーブする道はありませんでした。明治になって市電を通す計画により道路を延長し、神田川大曲に白鳥橋を架けて目白通りへつなぎましたが、その時にできた道路部分になります。
カーブの先、坂下方向。
安藤坂交差点
延長された道路の先です。神田川白鳥橋へと繋がっています。また、安藤坂交差点で交わる道は巻石通り、神田上水が通っていたところです。(交差点になったのは上水が暗渠化された後かと)
そこから再び坂上方向をふり返り
下から見ると左カーブですが、その信号機のところ、右へ入っていく道も存在します。そちらへ入ると牛天神と呼ばれる北野神社前に出ます。
古くは北野神社から安藤坂を経て伝通院に至る参道であったようです。
また信号機後ろ、建物のある場所には戦前、小石川区役所がありました。
北野神社へ入っていく道から
正面が牛天神北野神社の入口、手前左へ上がる坂道になってますが、『牛坂』です。
◆牛坂〈うしざか〉
安藤坂のカーブから逆方向、牛天神北野神社へ向かう古い道が神社下で交わるところにある道が牛坂です。
神社の西側から上がり、途中L字に折れて北側をまわり込み坂上に達します。
道は細く狭く、坂は短いですが傾斜は急です。
牛天神の前から
前方の階段は牛坂ではなく、この足元、左へ上がって行く坂になります。
だから、そっちじゃない。
入口をくぐったところ
あらためて坂下近くから
道は右に折れます。
右折してすぐ下をふり返り
前方の建物現在は老人ホームらしいですが、かつて小石川区役所があった場所、その正面は安藤坂の通りになります。
同じ位置から坂上方向
神社北側に回り込んだところ。夜は暗そうです。
左側に解説標識
牛坂 春日一丁目5 北野神社北側
北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見(しおみ)坂・蛎殻(かきがら)坂・鮫干(さめほし)坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。
牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
『江戸志』には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅神(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである。と記されている。
文京区教育委員会 平成16年3月
解説文にある「大曲」とは東方向へ流れていた神田川が一気に南へ方向を変えるところ、現在は白鳥橋の架かる文京区水道、後楽と新宿区新小川町の境界付近です。
もう少し上がって下方向
左側が北野神社境内、境内も坂道もコンパクトです。
さらに坂上近くから
やや離れて
坂の手前までは道路拡張されてますが、神社と崖にはさまれ坂途中は手がつけられなかったようです。
この道路を背後道なりに進むと春日通り富坂上交差点に出ます。
牛坂は2020年2月にも訪れていました。その時は神社境内に紅梅が咲いていました。
今回は以上3つの坂道
地図では3.富坂、4.安藤坂、5.牛坂
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