散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

坂道探訪 小日向台南側から春日へまず3坂《文京区》

昨年(2020年)12月以来の坂道歩き、再開です。
前回最後に訪れた文京区の小日向台地南側の坂道で1つだけ未訪となっていた『荒木坂』を最初に取り上げます。

と、その前に。
今回出てくる3つの坂道の坂下は巻石通りという道路が通っています。江戸時代に神田上水の人工水路が通されたところですがそちらをちょっと先出し。

巻石通りの金富小学校近くに神田上水路の解説が立ってます。

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荒木坂の解説文にも神田上水に触れた部分があります。(後述)
巻石通りという名の交差点も存在します。

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この通りに神田上水が通っていました。
神田上水は人工水路ですが自然河川のように水路跡が蛇行しているのは、台地の縁の地形に依存しています。底地より一定高さ高い場所に水路を通して水位を保持しました。
よく見ると交差点左側へさらに道が下がっていることがわかります。(交差点右側が台地の上)

 

◆荒木坂〈あらきざか〉

神田上水の素掘り水路が通っていた現在の巻石通り、稱名寺という寺院の東隣りから北へ上がっていく坂道です。ほぼ直線で長さは80mほど、斜度はそれほどきつくありません。

稱名寺(称名寺)の東側

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下が巻石通り、右上へ上がっていくのが荒木坂。

 

坂下正面から

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小日向台地へ上がっていきます。小日向台はこのあたりが一番南東の端になります。

 

坂道の中ほど、上の写真で道が少し右にふくらんでいるあたりに標識がたっています。
坂道と標識

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読みにくいので別途文字起こしします。
標識の文は坂下の巻石通り(神田上水)といっしょの解説になっています。

荒木坂と巻石通り         小日向一丁目1と4の間
称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。
『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡(およそ)五丈程(約15m)、 巾貳間貳尺程(約4m)」(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを”水道通り”とか”巻石通り”と呼んでいる。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(おおあらいぜき)(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠(かいきょ)で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠(あんきょ)で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋(いしぶた)をかけた。その石蓋を”巻石蓋(まきいしぶた)”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
文京区教育委員会  平成15年3月

 

標識の少し上から下方向

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右側は墓地。

 

坂上近く

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ふり返って

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短い坂道ではありますがこの右へ曲がって行く道はもう少し勾配が続きます。

 

こっちは荒木坂に含まれてない?

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小日向で名前のついた坂道はこれですべて廻りました。

 

地図を置きます。今回の荒木坂は右下の⑮です。

こちらが前回の小日向

miwa3k.hatenablog.jp

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小日向から次は東へ進んで春日に入ります。小日向台地から小石川台地南側の坂道に移ります。2つの台地を分けるのは茗荷谷方面へ食い込んでいる小さな谷間です。水が削ってできた谷間ですが現在そこにはっきりした流れを確認することはできません。

今回とりあげる小石川台地南側の坂道、春日にある今井坂(新坂)、金剛寺坂の2坂です。

 

◆今井坂〈いまいざか〉

別名:新坂〈しんざか〉

荒木坂下から巻石通りを東に200m弱、金富小学校の西側を北に上がっていく坂道です。Googleマップでは『新坂』と記されています。

わずかに右カーブのある直線で長さは200mほど、傾斜はそれほどきつくありません。現在は坂の途中で地下鉄丸ノ内線の掘割の上を跨いでいます。

坂下の巻石通りから

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下から見ると傾斜や道幅など荒木坂と似ています。
ちなみに左側の木立ちの中は国際仏教学大学院大学、右側は文京区立金富小学校建物です。

 

傾斜がはじまるあたりから坂を少し上がって金富小学校裏門付近

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右建物のうしろ学校の通用門、何か工事中です。その付近に以前は坂道の標識が立っていたのですが見当たりませんでした。
文京区は名前のついた坂道の多くに解説、由来を書いた標識を立てていますが、最近いくつか撤去されているようで残念です。

仕方ないのでネットで立て札の写真を検索して読みました。

今井坂(新坂)           文京区春日2丁目7番と8番の間

『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平(かねひら)桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名付けた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
この坂の上、西側一帯は、現在国際仏教学大学院大学になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹(いちょう)のみである。
  この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 迢空(しゃく ちょうくう))(この町とは旧金富町をさす)
文京区教育委員会   平成13年3月

このあたり江戸時代には武家屋敷などが建ち並んでいた地域、新しい坂(新坂)とはいえ18世紀には存在した道路、坂道です。

 

坂の中ほどから下方向

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この坂道は勾配が2段、坂半ばは踊場のようになっています。

 

踊場で地下鉄丸ノ内線の掘割をオーバーパスします。
坂下方向を見て

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フェンスの下を丸の内線線路が横切っています。

下を覗き込んで

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向こうが後楽園駅方面。

 

フェンスの傍らに「徳川慶喜終焉の地」の解説板が立ってました。

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徳川慶喜終焉の地
              文京区指定史跡(平成26年3月1日指定)春日2-8-9
徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩徳川斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍徳川家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、駿府静岡県静岡市)に隠棲した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳、寛永寺墓地に葬られた。
文京区教育委員会 平成26年12月

まわりは特に慶喜を彷彿とさせるものはありません。解説板の後ろまでが国際仏教学大学院大学の敷地です。

 

丸の内線をまたぐ橋から坂上方向

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坂半分から上の部分です。道は坂上で春日通り(国道254号)に突き当たります。春日通りは小石川台地の尾根づたいに貫くので坂上がこの通りにつきあたる坂道が多くあります。

 

坂上近くから下方向

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このあたり南向き斜面で陽当たりもよく、屋敷を構えるには良い場所だったと思います。

 

金剛寺坂〈こんごうじざか〉

別名:新鳶坂〈しんとびざか〉、蝙蝠坂〈こうもりざか〉

今井坂(新坂)の坂下から巻石通りをさらに東へ200m、北東方向へ折れる坂道が金剛寺坂です。

坂道の長さは150m弱、傾斜は荒木坂、今井坂より少しだけきつく感じましたが、さほど差はないと思います。

 

坂下から

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巻石通りの突き当りからすぐ勾配になってます。

 

上で作業中のトラックの前へ出て

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フェンスは丸の内線掘割に架けられた橋。この坂道も途中線路にかかってます。

 

橋の先から

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坂道はやや左にカーブします。手前右に分岐する道がありますが、そこを入っていくと『永井荷風生家跡』があります。(前に立つ解説板では『永井荷風生育地』)

道分岐の先左側には坂道の解説標識があります。

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金剛寺坂(こんごうじざか)     春日2-4と5の間
江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。
この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。
この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。
荷風は、昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記している。
東京都文京区教育委員会    平成元年3月

 

立て札のあたりをふり返って

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そこから上方向

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このへんから古そうな石垣が目立ってきます。

 

上の写真で左電柱の奥側の石垣

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先の掲示板あたりが坂上になりますが、その向こうにも石垣があります。

 

坂上近くからふり返り

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坂上の先

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道は春日通りに突き当たります。

 

下2つの坂道はこちらの地図。

1.今井坂(新坂) 2.金剛寺

続きはこちら

miwa3k.hatenablog.jp

 

 

今回坂名の文字装飾にmarcoさん(id:garadanikki)のアイデアを使用させていただきました。marcoさんありがとうございます!