千川上水を2回に分けて歩いた、その後半。
中野区上鷺宮から下流方向へ歩き、江戸市中へ上水を分配するためのため池(沈殿池)があった、西巣鴨の千川上水公園まで行く。
前半部(その1)のノートと連続していないので、リンクをはっておく。
千川上水・足あと
その2の足あとはオレンジ色
アプローチは西武池袋線富士見台駅
油断していて石神井公園駅から戻ってきたのは秘密。
南口から商店街を通り、千川上水跡の千川通りまではほんの2,3分。そのわずかな間に練馬区と中野区の境界が通る、というわけで千川通り中野区上鷺宮から前回続きをスタート。
でもそこから「数百歩」程度で再び練馬区に。
区境界付近
信号の向こう、練馬区側は道路片側に桜並木が続く。並木の下が上水水路跡である。
富士見台駅付近から先しばらく、千川上水跡である千川通りは西武池袋線線路と並行して進む。次の駅、中村橋駅西側には並木の間に祠が見えた。
九頭竜弁財天
元は富士見台駅前交差点付近に架かっていた九頭竜橋のあたりにあったものを移してきたとのこと。渡邊龍神、弘法大師、子庚申、馬頭観音、子育地蔵なども祀られている。
渡邊龍神て何?
駅の東側へ行くと並木の間にもうひとつ祠。
成田山新勝寺中村不動尊
こちらはごく最近のものらしい。
分水路跡の路地
千川上水から分けられた水路の一本(中新井分水上新街分)が通っていた跡、だそうだ。予備知識を仕入れていたので気づいたのだが…。南向きに撮っているが、向こう方向にあった水田への用水、湧水池への補水として利用されていたそう。
このほかにも千川上水には何本も分水路が存在していた。(以下あれこれとしつこいかも、ご容赦。)
通り右側が地下鉄駅出入口、道路を右に折れると西武線の駅。この付近は人通りも多く、並木道にはなっていない。
正面奥には「筋違橋跡(すじかいばしあと)」のモニュメントがあるそうだが、気づかずに通り過ぎてしまった。筋違橋は水路と道路を筋交いに交差させ、そこにあった橋のことである。
後日、同じ通りを通過した際に撮影「筋違橋跡」碑
この橋付近は、明治以降になって下流の工場で使用される水量が増加し、石神井川からポンプで揚水した水を合流させて、千川上水に補っていた場所でもあるそうだ。
練馬駅前から東へ進むと再び桜並木が水路跡に再び現れる。
「清戸道」の碑
千川上水に沿った道はこの付近で清戸道と呼ばれていた。
解説板から
清戸道(きよとみち)と千川上水(せんかわじょうすい)
この前の道路を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延長は約十五キロメートルになります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷・東久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。
大正四年に武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)が開通するまでは練馬・石神井・大泉から市中に出るのに、この道が最も近道でした。朝早く大根や野菜を積んで町に向かい、昼過ぎには下肥を積んで帰ります。清戸道は練馬の農業にとって、なくてはならない道でした。
この辺は清戸道に沿って千川上水が流れていたので、千川通りとも言います。千川上水は元禄九年(一六九六)、江戸小石川、本郷など城北方面の飲み水として玉川上水より分水された上水道です。開通から十一年後の宝永四年(一七〇七)、上水沿い二十か村の農民の願いで、灌漑用水として利用することが許されました。用水の管理は、工事を成功させた功により、代々千川家が当たりました。千川の水を引いた田は一反(十アール)について米三升(五・四リットル)を水料として千川家に差し出しました。千川の水の恩恵を受けた田は全部で百町歩(百ヘクタール)にも及んだといいます。
この辺りは、昭和二十年代の終わり頃から、暗渠工事が始まりました。
平成十六年三月 練馬区教育委員会
清戸道を東へ進み、桜台駅近くで
ここも分水路跡の路地(中新井分水下新街分)
こちらも千川上水南側にある水田への用水として分けられていた。
そのすぐ横には
桜の碑
こちらも歩道側に解説板があったが、”清戸道”の解説との重複を除外して抜粋。
桜の記念碑
桜台という地名は、この千川上水沿いに植えられた桜並木にちなんでつけられた駅の名前によったものです。
桜の記念碑は、このことを記念して地元の有志の方々が区に寄贈されたものです。
昭和六十三年三月 練馬区教育委員会
環七陸橋下をくぐる
この周辺にも千川上水からの分水口が2か所あったようだが、どちらも気づかなかった。
そのひとつは、右側に建物の一部が見える、武蔵大学キャンパス内に水路が再現され、濯川(すすぎがわ)と呼ばれている。
江古田駅南口交差点付近
ここで道は右に少し曲がる。曲がった先にはまた、江古田分水の分水口があったそうだが、これも分からず。本流の千川上水ですら、すでに水路として認識できる状態ではないのでしかたない。
そこから7~800m進むと千川通りは南東方向から北東方向へ直角に折れる。千川上水の流れがここで方向を変えていたからだ。
古くに造られた水路は、遠くまで水を運ぶためにできるだけ高い水位を維持する必要があり、台地の尾根筋などを通している。(低地に落ちた水は高所へ戻せない。)この地点もこのまま南東方向へまっすぐ行くと台地の下へ落ちてしまうために、北東方向へのびる丘の尾根へと乗り換えている。
上水が直角に折れる南長崎の交差点にて
上水の水は正面奥から来て右へ流れていった。
北東へ折れた先も千川通り、だと思うけど都道の番号は439号から420号に変わる。
豊島区長崎5丁目付近都道420号鮫洲大山線
右側歩道上を千川上水が通っていたようだ。
その先で一時細い道路へと入って行き、水路跡には
千川親水公園の歩道が続く
古いマンホールも公園歩道内所々に残っている(横断歩道の向こう側など)。
要町3丁目交差点
東京メトロ千川駅近く、大きな通りは要町通り。千川上水は横断歩道上あたりを横切っていて、長崎村分水がここから正面奥を通る細い道路の向こうへ分かれていた。
長崎村分水はこの先で谷端川の最上流部につながれて、補水されていた。
こちらには谷端川の記録
千川上水は要町通りを越えると、自転車置き場になった細い路地を通り、板橋高校脇で右側の並木道へ入る。並木の下が水路跡だろう。
板橋高校前の並木道
その先、板橋交通公園前の道路に面して「千川上水跡」と記された解説板があった。少し先にも類似の解説があったのでここは省略。
板橋交通公園入口
奥のほうに古い都電車両などが保存されていた。
都道420号鮫洲大山線と再び合流し、すぐに川越街道(国道254号)と交差するが、その手前歩道横に水神の祠と千川上水跡の案内板がある。
祠の背後から
水神様、正面へまわって
千川上水跡案内板拡大
千川上水跡
千川上水は、この案内板の前の道の下を流れています。
この上水は、元禄九年(一六九六)、小石川御殿(文京区白山)や湯島聖堂などの将軍御成の場所に給水する目的で造られました。
その流路は、現在の西東京市新町の境橋で玉川上水から分水し、練馬区の千川通り沿いに流れ、板橋区内を通り、中山道に沿って西巣鴨へと達しています。そこからは、木樋という木製の水道管で、江戸の御府内へと給水されていました。
しかし、宝永四年(一七〇七)以降は、練馬や板橋地域の農業用水として主に利用されるようになり、流域の新田開発に大きく貢献しました。また、板橋宿内に所在する加賀藩下屋敷平尾邸内の池泉回遊式庭園にあった大池の水源ともなっていました。
明治期には、板橋町に設けられた精米・精穀のための水車の動力源や、板橋火薬製造所の工場用水として利用されていました。明治十三年(一八八〇)には千川水道会社が設けられ、東京市内の飲料水として再度利用されました。
その後、水質の悪化や近代水道の発達により明治四〇年(一九〇七)に飲料水としての利用が停止されました。昭和戦後期以降は、暗渠化が進みました。
平成二十九年三月 板橋区教育委員会
川越街道を横切ると東武東上線大山駅前の、大山ハッピーロード商店街を斜めに横切る。
大山ハッピーロード商店街アーケードから
左の道へぬけていくのが水路跡。
すぐに東武東上線と交差、その向こうは道幅が広くなる。
東上線踏切
板橋第一中学横は短い区間ながら水路跡は緑道のよう
そして板橋区役所の真ん前へ出てくる。区役所の前が首都高5号池袋線+山手通り、そのすぐ後ろは首都高中央環状線+国道17号・中山道と立て続けに2つの高速道と幹線道路の下をくぐる。そのすぐ向こうで水路跡が細い道としてわずかな区間残っている。
左側が水路跡の道
左の道に入るとすぐにまた正面の大きな道路(国道17号・中山道)に合流してしまう。
その先で中山道を再び渡り返す
前方に板橋郵便局があり、その建物手前の道を右へ入っていく。
上水の通っていた通りは旧中山道の1本隣りの道路となり、並行してJR埼京線板橋駅前へ出てくる。その途中には先の上水案内板に記されていたように、加賀藩下屋敷庭園や火薬製造工場への分水口があったはずだが、痕跡は見つけられなかった。
板橋駅前広場へ出てくる
右方に駅入口があり、正面を横切る植栽の向こうが埼京線線路。水路跡は線路で分断されているので踏切を渡って向こう側へ。
線路反対側から
ちょうど建物の間を水路が通ってこちらへ流れてきたはず。
そこから振り返ると
正面を通る道路上がふくらんで凸状になっている。ここに築堤があって千川上水が流れていた名残りだ。
右側へは下り坂で、先の低くなったところは谷端川の流路である。(谷端川は現在暗渠)
もう少し先で
ここも右へ折れる道は下り坂になっている。谷端川と千川上水がこのあたり並行して流れていた、上水は丘の際、土地の高いところを、川は低いところを。
そして歩道のマンホール、中央には”千川上水”の文字を意匠化したものがつけられている。右側に”千”、三重の円で”川”、真ん中付近のYと横切る直線で”上”、その左側が”水”の字だ。
ここを先へ進むとやがて明治通りにぶつかる。
歩道の左端に石柱が見える。
千川上水分配堰碑
隣りにあった解説から抜粋
千川上水分配堰碑
この碑は明治十五年(一八八二)七月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口の大きさと利用者、左側面には設置年月日、裏面には明治四二年三月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。
これにより利用者の取水量が定められていたことがわかります。
この分水路は飛鳥山の西側にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿されたものです。明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区、荒川区、台東区内の二十三ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場、抄紙会社、大蔵省紙幣寮抄紙局の工業用水として利用されました。
明治通りを渡った向こうに千川上水公園がある。現在の公園内にかつては上水の溜池(沈殿池)があり、砂やごみを沈殿させた後の水は木樋で江戸城北地域のあちこちに分けられていった。
公園内には現在も駒込六義園への送水に使用していたバルブが残っている。
六義園給水用千川上水沈殿池(排水門)
公園入口近くには同じく”導水門”のバルブが残されていた。
なお、六義園への送水管は付近の地下鉄工事の時に分断されてしまっているそうで、現在は送水できない。
千川上水としてはここが終点。