散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらあれこれ観察したノート

江古田川を歩く 千川上水中新井分水から妙正寺川合流まで

江古田川(えごたがわ)は現在の練馬区豊玉南3丁目、学田公園周辺に存在した沼地または池が水源とされ、大体東方向へ流れ、中野区内で妙正寺川に合流する、長さ約3.5㎞ほどの川である。かつての中新井村を流れていたことから、練馬区内では中新井川とも呼ばれている。

また実際には、川の北側を通っていた千川上水から分けられた中新井分水や中村分水が、水源の上流側から補水されていた。

現在の江古田川(中新井川)は、中新井分水の分岐点水路跡からたどることができる。練馬区内は暗渠で、中野区との境界、下徳殿橋から下流側は開渠となる、普段は流量も少ない小さな川である。

江古田川・足あと

練馬駅で下車し、千川通りを西に向かう。豊玉北六丁目交差点をクロスしたらすぐ、南へ伸びる2本目の細い路地が中新井分水の水路跡である。

以前千川上水を歩いたときの記録を再度掲載。
千川上水から中新井分水(上新街分)に水をわけていた地点

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千川通り反対側歩道から

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桜並木になっているところが千川上水跡。明治期迅速測図(明治後半の地図です)を見るとこの地点の分水路上に橋があったようだ。

分水路跡の路地にはいってすぐの場所

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千川上水の水を分けた理由だが、江戸時代1700年頃、中新井川水源付近は水が枯渇気味になり、周辺の水田などの灌漑用水を補う必要が出たためとされる。

細い水路跡はすぐに一般道に変わる。
両側に歩道のあるカーブした道

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水路跡の雰囲気は十分。

千川上水の分水地点から700mほどで学田公園に着く。
学田公園北側から

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この一帯はかつて広く沼地が広がっていた。そして周辺は水田となっていた。

学田公園の西側で

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この時はきちんと把握していなかったが、左側並木の歩道が、水源とされる沼地より上流にあった小さな流れの痕跡だったようだ。

後日ストリートビューで確認すると、西方向に川跡と思われる痕跡(現在は歩道)が少し続いていた。
また、練馬区の資料をあたってみたところ、この流れは中新井分水と同じく、千川上水から分けられた中村分水の流れの末端らしいことも分かった。

水源の沼(池)には千川上水から2つの流れを引き込み、水量を補っていたのだ。

学田公園内の案内板には公園名の由来を含めた解説があったので文字を貼っておく。

学田公園と中新井川
学田とは「学校の田んぼ」という意味です。明治9年南蔵院境内に創設された公立小学校(現在の豊玉小学校)が明治17年、現在地に移転したのち、学校の運営資金を生み出すために、村人たちが沼地になっていたこの地を開墾して、学校田を作ったことに由来しています。昭和15年頃に周辺の土地区画整理事業が完成し、田んぼは公園になり、学田公園と名付けられました。付近には、湧水を源とした池があり、江戸時代には中新井池と呼ばれていました。この池を水源とした流れを中新井川と呼び、流域の水田を潤していましたが、江戸時代後期には池の湧水が枯れたため、北の千川上水から分水されていました。

学田公園の南側へ。川の流れは最初南方向へ進む。

中新井川のはじまり付近

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歩道が左へ寄って道路中央に植え込み。暗渠化される前はここに水が流れていたのだろう。

あと、練馬区内では江古田川の名前はあまり使われてなく、結構かたくなに中新井川と呼んでいるようなので、ここでは「中新井川」のはじまり、としてみた。

学田公園南交差点の向こう側は川跡が中新井川児童遊園となっている。
中新井川児童遊園入口

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この公園内で流れの向きが南から東へと変わる。

児童遊園東側入口は
学田橋交差点

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正面が下流方向。かつてはここを横切る道に学田橋が架かっていたのだろう。

少し先へ進むと環七通りと交差する。
環七歩道橋から上流方向を見る

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同じ歩道橋から下流方向

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中央が植え込みの分離帯になった道路をこのまま進む。この暗渠上の道路は中新井川緑道の名称があるそうだ。

ここが暗渠化されたのはいつ頃だろうとあたってみたが、はっきり書かれた資料が見つからなかった。
航空写真で観察すると、1971(昭和46)年頃には流れる川がまだ写っているが、1975(昭和50)年では水がみえなくなっている。暗渠化工事はこの間ということだろう。

中新井川緑道の環七の東側、徳殿公園近くには北の方から流れてくる小さな支流が合わさっていた。現在もその跡が細い路地として残っているようだが、今回は気づかずに通り過ぎた。地図を見ると豊玉中学校校庭にぶつかるところまで流路跡の路地が確認できる。

中野江古田病院北側の歩道

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徳殿公園前交差点から下流側は中新井川緑道上が練馬区、中野区の境界となる。その境界上、下徳殿橋のすぐ上流側だけはこのような歩道として整備されている。ただその距離はごく短い。

下徳殿橋上から

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ここから川は開渠となる。

ここ、橋の名前は「下徳殿橋」、交差点名は「下徳田橋」だった。

開渠区間のはじまり(これも下徳殿橋上から)

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江古田川開渠区間は全般このかんじ。中央に溝が切られ、普段はそこに少量の水が流れるだけの川である。
ただし大雨が降った時には川幅いっぱい、氾濫するような水量になることもあるらしく、この少し下流側、江古田の森公園内には調節池も設けられている。

江古田の森公園外周をぐるりと廻る江古田川

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右側が中野区立江古田の森公園。川は公園の周囲を∩字形に回り込むように流れている。

江古田の森公園のある場所は、古くは北江古田遺跡という縄文時代の遺跡があり、近代では結核の療養所である国立療養所中野病院の敷地になっていた。

公園内の調節池部分

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普段は公園スペースの一部だが、大雨時などに江古田川の水がここへ流れ込んで川の氾濫を防ぐようになっている。

調節池への取り込み口

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低く削られた越流提を超える水はここから公園内の調節池へと導かれる。

江古田憩い橋から下流

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江古田の森公園の外周をまわってきた流れはその先、江古田の住宅地内に入る。

下の原橋から上流方向(中野区江古田3丁目、江原町2丁目境界)

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不動橋親柱と垢離取不動尊

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橋の親柱に解説が書かれていた。

不動橋 橋の完成昭和36年3月、高欄の完成平成3年3月
橋の横に垢離取不動尊(こりとりふどうそん)があり、江古田村には大正時代の初期ごろまで、毎年6月に行われた不動尊のお祭りの日に「万垢離(まんごり)」という行事がありました。
この日は、不動尊の前に5色の幣束を飾り付けた梵天が立ち、大山や富士山に代参する村人達が裸で川に入り、体や3mほどの木の太刀を洗い清めました。水ごりの後、梵天を先頭に洗い清めた太刀をかつぎ、かけ念仏も賑やかに行列をし、氷川神社に向かい五穀豊穣、家内安全を祈願しました。
中野区

不動橋から下流

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この先に見えているのは江古田川でいちばん下流の江古田大橋。妙正寺川との合流点間近だ。

江古田大橋から妙正寺川合流点

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妙正寺川側の橋から合流点

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江古田川に架かっているのが江古田大橋。通っているのは新青梅街道

大橋の横にある公園には
江古田原沼袋古戦場の碑がある

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川とはあまり関係ないようだけど、解説板から

江古田古戦場
このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明九年(一四七七)太田道灌(どうかん)と豊島泰経らが激戦をしたところです。
ここでの合戦は、享徳の乱(一四五四~一四八二)という長期にわたる内乱の中の戦でした。享徳の乱は、古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。
この乱により関東は二分され、幕府などの支援をうけた上杉方は、武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。
ここでの合戦は、武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、大きな意味をもっていました。
昭和五十七年二月 中野区教育委員会

最後にひとつ付け足し。

江古田川を見ていると、河床がオレンジ色に染まっていることがよくある。
この原因は鉄バクテリアと呼ばれる微生物によるもの。水中や泥の中の鉄をバクテリアが酸化して、いわゆる錆びを生じさせ、それを体内に保持する。バクテリアが死ぬと錆びた鉄が周囲に沈殿するなどして、目立つオレンジ色のヘドロのようになる。なお、バクテリアも生成する沈殿物も特に害はないそうだ。