玉川は現在相模川水系の河川ですが、昭和のはじめまでは流路が現在と大きく異なり、花水川(金目川)と合流して海に出る、花水川水系の河川でした。
なぜ流路が変わったのかといえば、きっかけは1923(大正12)年に発生した関東大震災。
地震により玉川源流部、東丹沢一帯で斜面の崩壊が発生し、その後の降雨により土砂が大量に川沿いに流れて堆積、河床が上がり、水害が頻繁に起こるようになったそうです。
1941(昭和16)年7月には台風による大雨で玉川の大氾濫が発生、死者が出るに至ってようやく河川改修が開始されたということです。
改修工事は氾濫に脆弱となった流路を変更、上にも書いたとおり、合流先を花水川から相模川に付け替えるものでした。
1942(昭和17)年にはじまった工事は戦時中の物資不足もあって、1946(昭和21)年までかかって完成しました。
変更された玉川(新玉川といわれることもある)は、前回”玉川その1”で歩いたものになります。
そのノートの中で「小野橋から500mほど上流」の写真付近から下流側が流路変更となった部分です。
↑この地点には今回ノートの最後で到達します。
前置きが長くなりましたが、今回は玉川の古い流路跡を下流側からさかのぼる形で歩きました。
玉川新旧流路地図(旧流路は紫色系)
歩き始めたのは3河川の合流地点、平塚市大島、横内の境界からです。上の地図中に黄色いマークを置きました。
現在、渋田川、歌川、笠張川の3河川合流地点
前方から流れが一番よく見えるのが歌川、その途中で左からの流れが少し見える渋田川、正面で右から合流してくるのが笠張川。合流してこの足元から下流は現在、渋田川です。
玉川河川改修以前は笠張川部分が玉川の流路、3河川合流後は下流の花水川(金目川)合流まで玉川の名称が使われていました。
ここから下流と、渋田川上流方面は以前、渋田川として辿ったので今回省略します。
右の笠張川へまわり、土手を歩いていきます。
笠張川の土手上から
周囲は田畑が広がる田園地帯、遠くに東海道新幹線線路も見えます。
稲刈りの時期でした。
同じく土手上から下流方向
現在の流れは農業用水の末流など、水量は多くありません。
土手は草だらけで歩く人もなく、土が軟らか、足が沈みます。(そもそも歩くところではない)
北野橋付近にて、水路の合流
どちらもこの周辺で利用される農業用水の末流ですが、地図をたどってみると、新玉川で取水された水もここへ流れてきているようです。玉川旧流路の暗渠などを通っている水で、もっと上流でその暗渠上を歩きます。
平塚市大神付近
左前方、住宅が集まっている付近にかつての玉川が流れこんでいた合流地点があります。
かつての合流地点より上流側から旧玉川跡(下流方向を見て)
旧玉川は足元、切り株の車止めから柳の木の左側を通って、先の(微かに土手がみえる)笠張川に合流していました。
現在も旧玉川跡の地下には雨水下水管が埋められており、その放流口が笠張川土手の向こう側にあります。(未確認)
もう少しひいた位置から同じ場所を
ここから背後の上流方向、流路跡に歩道が設けられています。”玉川緑道”の名称があります。
玉川緑道末端近く、上流方向を向いて
流路跡に沿ってこのあたりは平塚市、伊勢原市の境界線。管理区分を分ける標識はやたら立派ですが、緑道はやや荒れ気味。
古い河道は歩道と車道を合わせた広さがあったということです。
また、古い地図を見ると明治頃の流れには細かい蛇行が多かったですが、昭和初期には直線区間が増え、旧流路にもいろいろ手が入れられていたことがわかります。
自然堤防ができ河床が上がった事を示す段差と思われる場所(伊勢原市下落合)
ここは左の段差上に川跡である玉川緑道が通っています。普通、水は低い場所を流れますが、旧玉川は関東大震災以降大量の土砂を下流に押し流すようになり、流れに沿って自然に堤防をつくっていきます。そして河床も上昇して川底が周囲の土地より高くなる、天井川(てんじょうがわ)となっていたのがこの付近です。
現在は直角に切り取られてコンクリートで固められていますが、元は自然に造られた堤防の土手が続いていたと思われます。(写真奥に向かって下流方向、土手の伸びている方向と流路方向は一致しています)
この場所は右側低い位置にも別の用水路(暗渠)が通っています。
もう少し上流へ進むと県道22号(横浜伊勢原線)と交差します。
県道22号長沼交差点から
ここ電柱の手前に大山道道標がある、柏尾通り大山道(東海道戸塚宿付近から大山へ通じる道)になります。
わかりにくいですが、よく見ると川筋だった足元付近より道標、電柱の向こう側が一段低くなっています。県道はゆるいスロープです。
この付近厚木、伊勢原市境界が旧川筋です。
北方向にさかのぼります。
新東名高架下付近
ここにも立派な管理区分境界標識が。ここまでが伊勢原市、これより上流は厚木市管理。
”旧玉川”の碑
向こう面にあった解説文
旧玉川
旧玉川は 大山の東側が源で農業用水として大きな役割を果たしましたが 関東大震災後は 降雨のたびに河床が高くなりたびたび氾濫して被害が続出しました
かつては美田を潤した川が人災を奪う魔の川となったので 昭和十九年に新玉川が造られた
その近くには
”落合橋跡”の碑
こちらの解説文
落合橋跡
「新玉川」が完成するまで「旧玉川」に架かっていた橋で、上落合地区と石田地区を結ぶ唯一の橋であり、昭和四十四年頃まで現存していた。また、住民たちが集まる憩いの場としても親しまれた橋である。
川は右から左へ流れていました。この場所も向こう側がやや低く、河床が高くなっていることがわかります。
小田原厚木道路交差
左のオレンジ色建物右側の歩道付き道路が玉川緑道、奥に向かって下流方向です。
この道路を交差した上流側は住宅の密度も高くなり、緑道から暗渠の川へと変わっていきます。
コンクリート蓋の暗渠に変化
上流の新玉川で分水され、旧流路をここまで流れてきた水は現在、玉川緑道へは導かれず、この付近から笠張川源流部へ暗渠で接続されていると思われます。(でもきちんと確認できていません。)
車止めも単純なので歩道として機能しているはずと、先へ進みます。
古い橋跡まで来て
宿下橋(しゅくしもばし)です。橋の真下を覗き込むと水が流れていました。
ここまで来て蓋暗渠上は歩道ではなかったことに気づくわけですが、ビールケースと一升瓶ケースがステップになっている事を理解します。
橋の向こうにも暗渠が続きますが、慎重に一般道を歩くことにしました。
橋を渡ったところに大山道の道標や石仏に混じって、昭和10年建立の「玉川改修記念碑」もありました。
やはり相模川への付け替え以前の旧流路でも昭和初期に河川改修が行われていました。関東大震災以降多発する氾濫への対応です。
その先、小田急線と国道246号を越えます。
小田急線付近
右側、斜めの手すりがついた橋の下に水路(暗渠)が通ってます。
国道246号直下は水路跡を利用した歩行者用トンネル
トンネルをぬけると少しの間、一般道に吸収されて流路を見失いますが、また暗渠道が復活します。コンクリートで蓋をしたよく見る暗渠です。
そこにまた入り込んで先へ進むと
またバリケードが”道ではない”ことを主張
ここも両脇があまいw
前方を横切るのは東名高速道路。流路跡がトンネルで、そちらは歩道できちんとぬけられます。
ぬけた先は畑(厚木市愛甲西1丁目)
住宅の裏などを通過
このあたりはまったりと、小学校の横やお寺の墓地脇などを通っていき、しばらく行くと
流れが顔を出します
もう少し先、籠堰橋(かごせきばし)付近で新玉川から分けられた水です。旧玉川流路ですが、現在も用水路として利用されています。(個人的にこの水がおそらく、笠張川源流部に補水されていると見ています。)
昔の玉川は車道部分も含めた川幅があったと思います。
このまま籠堰橋の南側まで続きます。
わかりにくいですが、遠くにある白いガードレールの向こうが新玉川、その左に籠堰橋の一部、です。
籠堰橋の上流側に堰があります。
新玉川・籠堰橋上から上流側
ここで先ほどの用水路(左の後方へ流れて行く)へ取水しているようです。
堰の下流側左に小さな口が開いていて、玉川その1でここが取水口と書きましたが、これは余水を新玉川に戻す口かなと。
新玉川が開削される以前、旧玉川はこの付近で右から左へ斜めに横切って流れていました。
右側、旧玉川上流部へ向かいます。
ちょうど流路跡を新玉川から斜めに通る道路があります。その延長上に
明神池跡の碑
渇水期の水不足に対応するため、人造のため池があったようです。現在は児童公園になっています。洪水対策だけでなく、渇水の対策も怠っていません。
旧流路跡かと思いましたが
歩いているときは道路部分が旧流路跡かと思っていましたが、よくよく考えると河床をあげた玉川、右段差が自然堤防でその上を流れていたのかもしれません。新玉川開削で微高地の川跡が残り、埋め立てて住宅にしたのかも。
もう少しさかのぼると崖の脇へ(厚木市小野)
道路部分が旧玉川流路で、「旧玉川」と刻まれた石碑が脇にあります。(解説文は下流玉川緑道のものと同一)
上へあがる階段は”小町緑地”へ。
旧流路はこのまま崖下を進み、新玉川小野橋付近へ出ます。
そこへ現在は玉川支流の細田川が合流しています。
小野橋付近の細田川
改修されて完全に現代の川になっていますが、この付近は旧玉川の流路でもありました。昔の細田川は先の橋あたりで合流していて、旧玉川は左奥のほうから流れてきていました。
そちら旧玉川河道跡の痕跡がないので新玉川へ出て少しさかのぼります。
玉川その1でも書きましたが、小野橋から上流へ500mほど行ったところ、
この付近が流路を付け替えた地点です
流路付替えの痕跡は現在ありません。
旧玉川はこのあたりで右に蛇行、現在は水田になっている中を流れ、北側の斜面縁を流れ下って小町緑地の下付近へとつながっていました。
旧玉川流路跡を追うのはここまでです。
新流路と上流部の「その1」へのリンク
ここから少しおまけ。
さらに上流へ向かって。
玉川小学校手前の河原、ほぼ同じ位置から左9月、右10月
旧流路をたどったのは9月、新流路は10月末、その間に大きな台風が来て河原の様子が変わりました。
この後、支流の日向川(ひなたがわ)に入って
日向川合流点
左の川へ。
といっても田んぼのあぜ道を徘徊してます。
彼岸花群生
ここまでにします。