大田区を流れる内川(うちかわ)を河口から源流までさかのぼって歩きました。
内川は以前、近くを流れる立会川といっしょに歩き、ノート化もしましたが、その時は流れの途中からでした。
立会川を遡り、いくつかの池を見ながら内川沿いに海まで下る (その2) - 散歩の途中
スタートは”大森ふるさとの浜辺公園”からです。
平和島運河の人工砂浜
これは2年前に歩いた時に使った絵です。今回は台風の影響で膨大なゴミが運河に流れ込み、砂浜にもうちあげられ、その清掃作業真っ最中でした。
位置的にこの左側が河口です。
内川について、だらっと
川沿いにあった「内川の歴史」解説文引用
内川のあらまし
かつて内川は山王や馬込・池上の沼の水や湧水を集めて流れる全長5㎞ほどの川で、六郷用水と合わせて低地の農業用水として使われていました。また、水道が引かれるまでは飲み水としても貴重な水源となっていました。自然も豊かで、コイ・フナ・ナマズといった魚や、トンボやコガネムシなどの昆虫、川岸にはイチジクなどもあり、子どもたちの遊び場としても人気の高い場所でした。大正6年以降、新田橋から内川橋まで現在のように直線に改修されてからは川幅が広げられ川底も深くなり海苔舟が行き来できる川となりました。
現在内川は大田区の北部大森地区を西から東にまっすぐ流れ、平和島運河に注ぐ流域面積3.25㎢、延長1.55㎞の二級河川です。東海道線より下流が法定河川区間となっており、その上流は下水道幹線として整備されています。また、河口部には高潮対策として防潮水門と排水機場が設置されています。
近年下水道の普及や水質浄化に伴いボラやサッパといった魚や、カニなども見られるようなり、また、河口には水鳥の集まる干潟が残るなど、今でも人や水辺の生物にとっての身近な自然空間として重要な役割を担っています。
地図に流路をのせてみました。
内川流路図
改めて、現場からどうぞ。
河口付近から運河方向
足元は橋が架かっていて、反対側は
内川最下流部
向こうに水門が見えます。内川水門です。
水門の手前、台風でもたらされた木、草などのごみが浮いてます。
内川水門を上流側から
その少し上流側には
にぎやかな色の内川橋
渡る道路は旧東海道です。現在は美原通りという名称も。
現在の内川はまっすぐ向こうへ、第一京浜(先にちょっと見えてる)、京急線線路を越えて伸びています。
古い内川は内川橋付近からいったん南方向へ折れ、第一京浜の大森警察署交差点から京急線大森町駅下を通過し、現流路より数百メートル南側を流れていました。
とりあえず現在の内川の方をさかのぼると
現在の内川は東海道線線路下にある水門で仕切られており、雨天時以外、上流から水は流れ込みません。通常時は流れのない川になっています。
ここに見える水は海側から上がってきた、潮水の割合が高いです。
淀みやすく、臭気が発生しやすいので、浄化装置を備えています。下部で四角く囲われているものも生物を利用した浄化装置だそうですが、すでに残骸??
川幅を拡張して開渠の河川をここに残したのは、大森の海苔生産用の舟が出入できるようにしたためとも言われてますが、すでに海苔の生産も現在は行われていません。
一方旧流路跡、第一京浜から大森町駅付近を流れていたそうですが、そちらに痕跡はほとんどありません。
そこからさらに西へ、東邦医大通り、大森西4丁目交差点の先にははっきりした流路跡があります。
幅の広い植栽を伴った道が突然現れる
上の横断歩道足元には
「旧内川堰跡」の碑があります
植栽のある歩道はこの左手側、そして直角に折れたこの正面にも同じように暗渠風の道が続いています。
最初、ここに堰があって左から来た水が右と前、2方向へ分けられていたと思ったのですが、そうではありませんでした。
上の写真の正面先へ進んで
幅の広い歩道が北方向へ続きます。この先は現内川を交差しています。
水の流れの向きは現内川の先からこちら側へ。ここにはかつて大森山王方面から旧池尻川が流れ下って、先ほどの堰跡で合流していたようです。
旧池尻川跡は少し前にノートにしたばかりでした。
池尻川跡ノート内では大田区中央1丁目、春日橋付近で六郷用水の流れに取り込まれて、それより下流は痕跡がないと記しました。
しかし内川沿いにあった地図には下流が描かれていました。
旧内川源流部にあった地図「昔の内川と六郷用水の流れ」を抜粋
中央付近に”環七通り”、その左側の流れが”池尻川跡”としてとりあげた流れです。流れは春日橋付近で六郷用水を越えて大森西(東邦医大通り)西側で旧内川に合流しているように見えます。
現場へ戻って先へ。
旧内川の植栽のある歩道を上流方向へ進みます。旧内川堰跡の碑から300mほど西へ進むと東海道線線路にぶつかります。
東海道線手前から
この歩道は線路に突き当たって終わっています。
明治の終わりごろの旧内川はこの少し手前で北方向に蛇行し、現内川の上流端地点付近を通って線路を越えていました。
現内川の法定上の上流端とされている新田橋手前から
橋の向こうは東海道線橋梁、その下に川の水門があります。
東海道線橋梁の奥に2つのゲートがあります
内川のこれより上流は現在暗渠の下水道幹線、普段ゲートは閉まっていますが、降雨時に下水処理能力を超えると、川へ未処理の下水が流れてきます。最近評判の悪い汚水も…
橋梁の下に通路があります
高さは1.5mほどで頭をかがめないと通れません。上は直にレールです。
線路をくぐると上流側はすべて暗渠です。
再び道路の一方に植栽のある道が続きます
内川暗渠上の道は「大田区桜のプロムナード」という名前がつけられているようです。(桜の木のあるなしに関わらず)
大田区はここを横切る通りを”古東海道”としており、「いにしへの東海道」の石碑が建ててあります。奥州街道、鎌倉街道、平間道などとも呼ばれ、いずれにしても古道であることは確かなようです。
その右側、黒っぽい方は「旧新井宿 出土橋跡」と刻まれ、付近はかつて新井宿、宿内を流れる内川に出土橋(でどばし)という名称の橋が架かっていたことを記しています。
江戸時代以降はこの数十メートル手前に六郷用水北堀が横切ることになるのですが、用水と川がどのように交差していたのかは不明です。
正面奥へと入って行きます。
住宅地を蛇行しながらすすむ
よく見る暗渠道となっている場所も(大田区中央4丁目)
その上流側は”馬込桜並木通り”へ
貫禄のある桜の並木が5~600mほども続いています。
並木道は右の善照寺先で方向を変え、第二京浜(国道1号)馬込坂下交差点へ出てこれを越えます。
第二京浜馬込坂下交差点歩道橋から内川暗渠上流方向
道路右側歩道が旧内川流路跡。
ここは馬込”坂下”というようにきちんと川の流れに沿って谷になっています。(上の写真ではわかりませんが)
立正中学高校の敷地の間を通ります
横断歩道の先へ暗渠歩道が続きます。
学校の裏手はすぐに東海道新幹線と横須賀線の線路が横切り、暗渠道はいったん寸断されます。
迂回して線路を越えた反対側から(大田区中馬込3丁目)
右の線路下をくぐってきた川が足元下に。その上流側は向こうの車止めの奥へ続いています。
その先はきれいなプロムナードとなっています
ここの直前に西側から支流が流れ込んでおり、そこも暗渠道がわずかに残っていました。あとでそちらへまわります。
この先に階段があり、その上は環七通りです。
環七を渡った先は下り階段
環七を整備時に盛り土したんですね。
前方を横切る道路で暗渠道、”桜のプロムナード”は終わりです。
プロムナード終点から振り返り
「旧内川源流」の碑がありました。この碑の上に「昔の内川と六郷用水の流れ」地図がはめ込まれています。
前方は1つ前で上から見下ろした階段です。
源流碑の前を横切る道路から東方向
環七方向を除く三方は傾斜が迫り、その底に源流があります。谷戸の奥、スリバチの底です。
少しプロムナードを下って、支流が合流していた跡へ
プロムナードと直角方向にこんな細道がのびてます
100mほど行くと坂になってそこを上がります
さらに100mほど行くと中馬込1丁目児童公園横でこの細道は終わります。
車止めで細道の終点
ここも向こう側から窪んでいて、背後にも上り坂、そして左右が谷筋です。右へ少し行くとそこも”鉢底”でした。
支流含め、内川の遡上はここまでです。
いままでこのあとに
◆上池台3、4丁目付近、呑川支流・洗足流れのまた支流暗渠道
を掲載していましたが、この部分は呑川のノートに置いたほうがふさわしいと考え、移動しました。
移動先はこちらの後半部となります。