今回は単に散歩〈したこと〉の備忘録であります。
鶴見川源流より4~5km下った町田市図師町から下流へ歩いて横浜市青葉区市ヶ尾付近までの記録です。最近忘れっぽくて...
鶴見川沿いに出るまで
ここは町田市忠生と図師町の境あたり、丘陵が谷へ落ち込む直前にある住宅地から
前方に向かって低くなっていきます。
宅地のはずれまでくると急激に落ちこんで階段に
右に折れてまた下る
下りきると
竹やぶの左に鶴見川の流れあり
川沿いにあるく
ただしこのあたりは流路改修工事中
改修工事で新しく架けられた図師川島橋から鶴見川上流方向
工事後は前方から水が流れてくるはず
現在は左歩道下からの旧流路がまだ使用中です。
これより下流側の改修はだいたい終わっています。
急蛇行していた旧流路
2023年10月の様子
この頃は水が流れてましたが
これが今回通りかかったとき
数年前に河川改修が終わった宮川橋のうえから下流方向
300mほど下って並木橋近く
左に空いた穴(カルバート)から合流するのは結道川(ゆいどうがわ)〈ようやく流れの名前がわかったのでうれしい〉
河川改修工事からまだまもないこのあたり、古い流路跡がいたるところに残ってます
こちらの旧流路にはいまも水の流れ
その旧流路が本流と再び交わるあたりに「鎧堰跡」があります。
現在は農業用水の取水堰跡を再整備した施設です(町田市野津田町)
ここに最初取水堰を設けたのは1565(永禄8)年〈ずいぶん昔です〉、周辺の田んぼに水を供給していたそうです。
その堰跡を最近の河川改修時に水辺の広場として再整備したようです。
対岸の擁壁とその手前本流との間、一段高いところを流れるのが堰を設けて分流させた水で、かつては周辺水田に用水として供給されていました。現在水路は形だけで、すぐ下流で本流に戻されています。
付近の新鎧橋近くへ合流してくる支流の〈たぶん〉山崎川
新鎧橋上から下流方向
河川改修で流路は一直線、ここ河川敷にはすっぽんがいました。
新鎧橋から300mほど下って
ここも旧流路が右へ分流してます。流れの間にあって改修工事後につくられた歩道は河原に下って行き止まり。
このへんを歩き慣れてなかった頃、対岸を遡って歩いていて「あれれ」ってなりました。
その先で対岸に渡り、少し下ったところ
ここにも旧流路の名残りがあって歩道に架かる橋は最近つくられたものでしょう。
また少し下って
鎌倉街道(都道18号)新袋橋上から上流方向
川沿いのみちで練習中
薬師台通り大蔵橋の上流側から
対岸正面の穴から小野路川が合流。写ってないけどこちらの岸、足元あたりにも薬師台住宅付近を源とする小さな流れが合流。
神社の幟は旧流路を埋めた遊歩道が横切る道との交差部分に
崖がせまるところ、少し高くなって(町田市大蔵町)
その下流側にはまた旧流路を埋めた跡が歩道に
金井川の合流はうまく捉えられず、省略。
小田急線線路を潜って鶴川駅近くの流路跡
こちらも親水公園風の歩道になっているけど通ったことはない
中流域へ
鶴川あたりからは中流域、(工事で拡張されているけど)川幅も広くなります。
町田市川崎市麻生区境界あたりを流れる鶴見川(川崎市麻生区岡上)
対岸左方は町田市能ヶ谷町
真光寺川合流地点の親水広場
奥が鶴見川、手前が真光寺川
ここから下流へ再び流れは町田市内に
1キロちょっと下って恩廻(おんまわし)公園調整池付近
下にみえる砂地の広場は調整池、正面奥に(階段もある)越流提がありその向こうが鶴見川本流。
この調整池、さらに地下にかなり大規模な貯水槽のトンネルがあるとのこと。そこに水を導入することでとんでもない大雨の洪水にも耐えられるらしいです。
その貯水槽トンネルの上、旧流路跡は恩廻公園
ここは旧流路の上、正面に向かって下流方向、先で現在の本流と合わさります。
また旧流路を歩いている間に鶴見川本流は支流の麻生川と合流しています。〈ということで合流の現場は素通り〉
麻生川合流からは400mほどの距離しか離れていませんが鶴見川本流は真福寺川と合流
水車橋上から
このあたりは町田市、川崎市、横浜市の境界が複雑に入り組んでます。特に川崎市は飛地(岡上地区)もあってややこしいです。
そこからまた約500m下ると
早野川合流
1つ前と風景よく似てますが別の川です。
ここから下流も短い距離をおいて寺家川、鴨志田川、黒須田川、大場川と支流が合流していますが、ちょっと面倒になって手抜き気味。〈きちんと探せば過去に撮影した画などあるはずですが〉
鴨志田川合流点近く(横浜市青葉区鉄町から)
対岸に架かる橋の下から鴨志田川
これは近くの田んぼに咲いていた彼岸花
こちらは黒須田川合流点橋の上から(横浜市青葉区市ヶ尾町)
市ヶ尾高校脇の「市ヶ尾水辺の広場」におりて
さらに国道246号、東急田園都市線、東名高速道路とたて続けに下をくぐり
ここは東急田園都市線橋梁
手前は谷本人道橋。このあたりの鶴見川は谷本(やもと)川とも呼ばれます。江戸時代には上谷本村、下谷本村が存在しました。
このへんまで
後半はいつもの散歩道ということもあって足早の通過となりました。