散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらいろいろ観察したノート

鎌倉街道を歩く 上道その6 狭山から嵐山

鎌倉街道上道は埼玉県狭山市まで歩いて、ここでいったん句読点と言ったのはつい先月のことだったが、その先を歩く機会ができたので足を伸ばしてみた。

前回上道を狭山まで歩いたときのノート

今回の行程(その6)

スタートは西武新宿線狭山市駅

f:id:miwa3k:20171006204243j:plain

前回は駅東口から来たのだが、今回は西口へ出る。街道の道筋はちょうどこの駅のホーム下を横切っている。

駅前のデッキから

f:id:miwa3k:20171006204244j:plain

正面奥へ伸びている道路が旧街道の道筋になるらしい。少し先にある入間川の渡しへとつながっていて、その手前は宿場(入間川宿)になっていたという。

直接その道路には出ず、狭山八幡神社へ寄り道して本日の無事を祈願。(そんな殊勝なことしたか?)
狭山八幡神社拝殿

f:id:miwa3k:20171006204245j:plain

神社から旧街道に出るが、すぐに国道16号、その向こう入間川に阻まれる。

国道を迂回して入間川新富士見橋を渡る。
入間川新富士見橋、国道の歩道橋から

f:id:miwa3k:20171006204246j:plain

橋の右方向、川の下流側に八丁の渡しという渡し舟があったそうだ。
渡し舟を下りた先の道筋へ復帰して先へ進む。

しばらく行くと広い通りと合流する交差点に出るが、そこの交差点名は「奥州道交差点」。
奥州道交差点

f:id:miwa3k:20171006204247j:plain

歩いている道は鎌倉街道上道で、これはこの先上州から信濃、越後へ向かう道。奥州には行かないので、交差している別の道で東北方面へ向かう道があったのか、鎌倉街道が奥州道と間違われてそのまま使われているのか、実はよくわかっていないらしい。
鎌倉街道では中道が宇都宮などを経て奥州へ向かうルートになっているが。

交差点近くの信濃坂の下に影隠地蔵というお地蔵様、信濃坂を上がると台地の上は工業団地で大型車が頻繁に通る。
信濃

f:id:miwa3k:20171006204248j:plain

工業団地をぬけると智光山公園

智光山公園駐車場から

f:id:miwa3k:20171006204249j:plain

公園正面入口は立派な銘石も配置されているのだが、手入れがされていない。見栄えがよくないので駐車場側の写真。正面玄関はほとんど使われていないみたいだ。

公園を過ぎると狭山市をぬけて日高市へ。圏央道首都圏中央連絡自動車道)の下をくぐり、南小畔川を越える。川の上からは富士山が見えた。その先ではゴルフ場の横を通るが道路の幅がせまくなり、歩道もなくなる。
そんなところで国道407号との交差点名は「鎌倉街道」。

鎌倉街道交差点

f:id:miwa3k:20171006204250j:plain

この交差点を過ぎると道路左右に玉石垣がある切通しの下り坂となり、小さな川(第二小畔川)を渡る。その手前に街道の碑が立っていた。

鎌倉街道上道碑

f:id:miwa3k:20171006204251j:plain

碑の先を進むと女影(おなかげ)という古い地名を持つ場所にさしかかる。街道近くには奈良時代の女影廃寺、南北朝時代中先代の乱(1335)の女影ヶ原古戦場跡などがある。

古戦場の碑がある霞野神社を横に見て街道を行くと女影交差点へ出る。
女影交差点

f:id:miwa3k:20171006204252j:plain

横切るのは県道15号川越日高線。正面へ鎌倉街道、奥に向かってはかつて女影宿で、鎌倉時代には宿駅として整備されていたという。

そこを先に行くとJR川越線の踏切にぶつかる。
川越線女影踏切

f:id:miwa3k:20171006204253j:plain

この付近、やや東側に鎌倉街道上道としてもうひとつのルートがあるという。そちらを進むと川越線を越える踏切は鎌倉街道踏切だ。どこが正しい街道筋かと言い出すときりがない鎌倉街道、自分は2つのルートを地図で見比べて自然な道筋が続いている方を選んで歩いてみた。

踏切を渡ると次に小畔川の小さな橋を渡り、そのまま行くと、真っ平な地面に真っ直ぐな道が東西、南北直角に交わる大きな畑地(一部は住宅地)に出る。
畑の一部分

f:id:miwa3k:20171006204254j:plain

ここは太平洋戦争前に陸軍高萩飛行場があった跡地。元々農業用開拓地だったが軍が接収、戦後再度跡地を農地として開拓した。
街道筋は当然ここにはなく、真っ直ぐな道路を折れ曲がりながら歩いて北側へ出た。

その先も旧街道に沿っているのか、道筋は残っているのか判然としないところをしばらく歩く。周囲は住宅と畑と雑木林が混在する。
日高市から出てわずかばかり鶴ヶ島市を通り、坂戸市へ入る。

東武越生線西大家駅付近

f:id:miwa3k:20171006204255j:plain

坂戸市に入ってすぐのところで東武越生線の踏切を渡る。渡ると左へ分岐する道へはいり、ゆるい坂を下りていく。

最近整備されたらしい、大学のグラウンドや高校校舎の横を広い道で通過するが、道路は橋の手前で極端に細くなる。
高麗川・森戸橋

f:id:miwa3k:20171006204256j:plain

一車線しかなく、対向車があると渡り終わるまでたもとで待つ。車の通行は結構あって常時待ち行列ができていた。
旧街道もこの橋のあたりで川を渡っていたようだが、昔は氾濫などで川の流路もいろいろ変わるため、はっきりした場所は特定できない。

その先、高麗川の氾濫原地形の低地を先へ進む。
ゆるい上り坂になって台地へあがるところに突然、旧道跡といわれる道がわずかな距離現れるのだが、丈の高い草が生えて通れるような状態ではない。結局舗装された道路を通ってその先の県道(114号川越越生線)へ出た。ここからは毛呂山町
旧道は現在の県道を越えていたようだが、道は消滅しているので、少し県道を歩く。途中に「鎌倉街道→」の標識が立っているのでそちらの細い道へはいる。

旧道跡と言われてもよいような道だが、先へ行くと本物の街道の遺構が現れる。
鎌倉街道遺構

f:id:miwa3k:20171006204257j:plain

林との境界の右側、草むらになってしまって通れそうもないが、この草を取り除くと街道の跡が現れるらしい。発掘調査も行われて確認されている。(せめて冬に来ればと思った。遺跡の保護には好都合かな。)
標柱には

ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。

その先は歩いて来た道に合流して

f:id:miwa3k:20171006204258j:plain

正面の細い道へ

f:id:miwa3k:20171006204259j:plain

正面の細道を行くとまた雑木林のなかへと入っていく。

林の中、街道脇に庚申塔をのせた塚を見つける。

f:id:miwa3k:20171006204300j:plain

延宝四年(1676)、入間郡大類村などと刻まれた庚申塔がのっているのは墳丘の上。

この周囲にはさほど大きくはないが、たくさんの円墳が密集している。街道から少しだけ寄り道してみた。
川角(かわかど)古墳

f:id:miwa3k:20171006204301j:plain

標柱の右奥、写真右端に見える土の盛り上がりが個々の古墳で、林の中にたくさん点在している。古墳群、個人的にははじめて目にする風景だった。この周辺にはいくつかの古墳群がほかにもあるそうだ。

川角古墳群のあったさらに先に古い板碑があった。
延慶(えんきょう)の板碑

f:id:miwa3k:20171006204302j:plain

大きさは3mくらいあるが石板の厚さは10㎝程度しかない。よく折れずに残っているものだ。

板碑の文字はよく見えなかったのだが、解説板には

埼玉県指定文化財
延慶板碑
上段四行は経典の偈文である。下段の中央は建立の時で、延慶第三暦庚戊仲春中旬敬白とある左右の二行は建立の理由で次の文字である。
右興立志趣者為大檀那沙門行真并朝妻氏女現世□□□生善處也
碑面が剥落して読めぬ所には「安樂後」の三字があったと推定される。
昭和五十七年十月 毛呂山町教育委員会

延慶第三暦(三年)とは西暦では1310年となる。

古墳群、石碑と見て、街道筋に戻る。
越辺川(おっぺがわ)が近くを流れていて、渡る。

越辺川と堂山下橋

f:id:miwa3k:20171006204303j:plain

橋を渡るとかつての道筋ははっきりしない。川の流路がたびたび変わり、古い道はそのたびに埋没して付け替えられている。
越辺川に沿って田園地帯の道を歩き、鳩山町に向かう。

散歩にはとてもいいところ(鳩山町に向かって)

f:id:miwa3k:20171006204304j:plain

川原の低地から一段高いところへあがると鳩山町今宿というところ。

川岸に常夜燈

f:id:miwa3k:20171006204305j:plain

これは、かつて河川をつかって江戸まで木材を運搬しており、その安全を祈願して建てられた水神塔なのだそう。

集落に入り、県道171号(ときがわ坂戸線)に沿って北へ進む。途中、旧道に入ると供養塔などが立つ辻が。
赤沼供養塔

f:id:miwa3k:20171006204306j:plain

中央の「日本廻国四国七遍供養塔」は道標を兼ねていて、「北比企岩殿道」「西小鹿野秩父道」、そして「中菅谷野原道」と書かれた道が鎌倉街道にあたる。(文字は勝手に現代語訳してしまいました)

「中」の道を行くと鳩山中学校グラウンド手前に鎌倉街道についての解説板があり、村内(鳩山”町”になったのは最近)には古代から重要な道が通っていたこと、鎌倉時代に鎌倉を結ぶ交通路となったこと、戦国時代終わりごろまで利用されたが江戸時代には廃れ、廃道となったことなどが書かれていた。

町外れまできて県道171号を進む。途中の分岐で県道41号に移り、しばらく行くと「笛吹通り」の案内が現れる。そちらに向かって旧街道が伸びていて笛吹峠へと向かう。
笛吹峠へ向かう道路

f:id:miwa3k:20171006204307j:plain

この道路に入ってしばらく行くと道路の近くに池がある。
街道端沼

f:id:miwa3k:20171006204308j:plain

これは農業用水を溜めた池(沼)ではないかな?

ここから道は上り坂になるが、案外緩い。息が切れる前に峠に到着してしまった。
にくいえないけど「笛吹峠」と書かれている

f:id:miwa3k:20171006204309j:plain

案内板に、峠からは上州の山々、秩父連山、関東平野を遠望される風光明媚の地とあったが、周囲の木々で眺望はまったくきかない。峠で鳩山町から嵐山町に入る。

峠を越えて下り坂になると、途中、舗装道路の横に切通し様になった街道の遺構らしきものがある。

街道の遺構

f:id:miwa3k:20171006204310j:plain

左右に溝のように掘れた道の跡が残っている。町田市内にあった遺構とも似た感じだ。ただし、木にロープがかけられて道路面へは下りられない。

開けたところへ下りてくると将軍沢。将軍とは坂上田村麻呂のことらしく、将軍塚、将軍神社など、またいくつかの逸話にまつわるものも残されている。ずいぶんと古い人を出してきた。

そのひとつ、縁切橋

f:id:miwa3k:20171006204311j:plain

あまり興味もてなかったので解説板、貼っておくだけにする

f:id:miwa3k:20171006204312j:plain

その先で源義賢(みなもとのよしかた)の墓に寄る。
源義賢の墓

f:id:miwa3k:20171006204313j:plain

これも解説に図があるので写真で

f:id:miwa3k:20171006204314j:plain

墓所から県道を西側へ少し行くと大蔵館跡、まっすぐ旧道を行けば向徳寺がある。大蔵館は源義賢の居館で、その跡地は大蔵神社となっている。

向徳寺(へ向かう道)

f:id:miwa3k:20171006204315j:plain

中の墓地には鎌倉時代から南北朝時代の板碑が多数あるとのこと。(中には入ってません。)

もう少し行くと都幾川に出る。

都幾川、学校橋の上から

f:id:miwa3k:20171006204316j:plain

正面、台地の上に見えているのは菅谷館跡のある公園の建物。

菅谷館は平安時代末期から鎌倉時代の初期にかけて活躍した武将、畠山重忠の居館で、その死後も何度か改築されて規模を拡大していったということだ。
ここはぜひとも立ち寄りたかったのだが、30km近く歩いてきて如何せん疲れてしまい、寄らずじまいとなってしまった。

橋を渡り、坂をあがって嵐山町の町中へ出る。旧街道も同じような道筋をたどっていたらしい。
嵐山駅入口交差点で街道からはずれ、駅へ向かった。

武蔵嵐山駅から東武東上線で帰る。

f:id:miwa3k:20171006204317j:plain

長丁場をひとつにまとめてノートの中身が薄まってしまったけれど、歩きのほうは充実してとても良い散歩ができた。でもさすがに疲れた。

 

埼玉県 狭山市日高市鶴ヶ島市坂戸市毛呂山町鳩山町嵐山町