箱根から沼津まで歩いた日の後半のノート。
同日前半のノートはこちら。
その6行程(箱根-沼津)
箱根の山を下って大場川(だいばがわ)を渡ると三島宿にはいる。川はかつて「かん川」(神川)と呼ばれていた。
大場川にかかる新町橋、東詰
同西詰
この橋を渡ってすぐのところに石塁式土手に囲まれた桝形見附、宿場への入口があったそうだ。現在は何も残っておらず、道路も直線。
三島宿は本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒(江戸時代後期)。小田原宿同様、箱根越えを控えてor終えて、旅人が一泊する宿場として大いににぎわったというのは分かる気がする。当時は普通、小田原-三島間(箱根八里)を1日で歩き通したというからすごい健脚だ。
宿場の周囲に神社、寺院が多くあるのはここ三島も同じ。通りを少し行くと、ここを基点として町ができたともいえる三嶋大社の前にさしかかる。
三嶋大社大鳥居前
鳥居前はT字路で、左右に東海道が通り、大社正面から下田街道が南へのびている。下田街道を整備したのは源頼朝と言われる。
三嶋大社についてはリンクをはっておこう。
舞殿
本殿・幣殿・拝殿
解説の文字起こし
三嶋大社本殿・幣殿・拝殿・舞殿・神門
(国・市指定建造物)
三嶋大社の創建は明らかではないが、鎌倉時代(一一九二~一三三三)初期には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の尊崇を受けた名社である。
一遍聖絵の社頭と現在のそれとではかなり異なり、焼失記録をみると、文永五年(一二六八)と永仁四年(一二九六)に焼け、また延享元年(一七四四)と安政元年(一八五四)の地震で倒壊している。今の社殿は万延元年(一八六〇)から明治二年(一八六九)にかけて再建されたものである。
本殿は流れ造(棟より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式)で切妻屋根(本を半ば開いて伏せた様な形の屋根)、棟には千木・鰹木をつけている。拝殿は入母屋造(上部を切妻屋根とし、下部が四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式)で、前面には三間の向拝をつけ、正面に千鳥破風と軒唐破風がつく。両殿の間には軒下に納まるように相の間がつくられている。この建築の様式は権現造といわれる。全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、高さ二三m、鬼瓦の高さ四mという豪壮なものである。
彫刻は伊豆国名工小沢希道、駿河国名工後藤芳治良がそれぞれ門人とともに技を競いあって完成した傑作である。
平成十六年三月 三島市教育委員会
三嶋大社先の街道と商店街
現在宿場内の通りには古い建物もいくつかあるが、それより昭和30~40年代の雰囲気ってこんな感じかなと思える個人商店が多かった。ずっと同じ場所であまりスタイルを変えずに商店を維持してきているのだろう。
この付近、本陣(世古本陣、樋口本陣)、問屋場などがあった場所、跡地には小さいが石碑が立っているとのことなのだが、実は気づかずに通り過ぎていた。石碑以外には何も残っていないということなので、まあ仕方なし。
広小路というところへ来ると小さなきれいな川が流れている。
源兵衛川と時の鐘
時を知らせていた「時の鐘」のちょっと前方
三島というと柿田川湧水が有名だけれど、そのほかにも多くの湧水があって、この源兵衛川も数百メートル上流にある楽寿園の庭池になっている湧水から流れてくる富士山の伏流水だそうだ。
駅前もなんだか少しレトロ?
ここの駅前で新道が分岐して旧東海道は歩道がなくなり道幅がせまくなる。
三島広小路西側、まだ宿内の通り
もう少し行くと加屋町に秋葉神社があり、その地点が三島宿西方の出入口。東方同様、石塁式土手に囲まれた桝形見附があった。今はない。
ここからは宿場の外に出るが、すぐのところに千貫樋(せんがんとい)がある。
境川の上に千貫樋
見にくいけれど、右から「千貫樋」の文字、樋には農業用水が流れる、水の立体交差地点。
解説から抜粋
千貫樋
伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ四二.七m、巾一.九m、深さ四五cm、高さ四.二mである。
創設については諸説あるが、天文二十四年(一五五五年)今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
この疎水により清水町の耕地一三〇ha(旧高二〇〇石)が多大の恩恵を受けるに至った。
樋ははじめ木樋であったが大正一二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。
常夜燈
その先で、道をはさんで2つの寺院があり、双方の境内にひとつずつ一里塚がある。
玉井寺一里塚
こちらはほぼオリジナルだそう。
宝池寺一里塚
こちらは1985年に改修されたもの。
江戸から二十九里となる。
長沢というところにわずかだが松並木
そして黄瀬川(きせがわ)を渡る。
黄瀬川橋から
この川を渡ると清水町から沼津市へ。
潮音寺
亀鶴観音、頼朝がらみの伝説が残るお寺。
この先東下石田交差点で旧街道は片側2車線の広い道路に合流、そこをしばらく歩いてから左へ分岐する道へはいる。
高い堤防沿いの視界のきかないところを歩くが、おもしろくないので堤防の上へあがる。
狩野川堤防の上へ
向こうの山は香貫山(かぬきやま)。
旧街道は堤防の外側にほぼ沿って通っている。広重の五十三次沼津の絵も、この川沿いの堤を歩いている図なのでこちらを歩くことにした。
そのため、江戸から三十里の一里塚は見逃したみたいだ。一里塚の先が沼津宿となる。
あゆみ橋
最近架けられたであろう人道橋。左手前側橋のたもとは沼津城(三枚橋城)址で、現在は中央公園になっているが、城跡としてはあまり残っているものはないようで、中には入らなかった。この城は江戸時代初期には廃城となって、その跡が旧東海道の一部(川廓通り)となった。
あゆみ橋の写真を撮ったあたりで街中へもどる。沼津宿の内になる場所だ。
東海道の沼津宿には元禄年間頃本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠78軒があった。宿場規模は小さくないので当時はにぎわったのだろう、しかし大火があったり、戦災にもあって今は当時の面影を残すものがほとんどないそうだ。
沼津宿本陣があったあたり
この付近に高田本陣があった。本陣跡は石碑が立つのみ。(上に本陣2軒と書いたけど本陣跡の石碑は3ヶ所あるらしい…)
その通りを真っ直ぐ行ってから街道は右に折れる。
浅間町に浅間神社
神社脇に「千本濱海水浴場道」と刻まれた石柱があり、海水浴場と石に刻むのはいつ頃のものかと考える。振り向くと現在も千本浜道という通り名の道路がある。
千本浜道
このあたりが沼津宿の西方見附があったあたりで、現在も町の名前は「出口町」。歩道に沼津市による案内があり、沼津宿の出口にあたることから付けられたのであろうと書かれていた。
その先の街道をもう少し歩き、東間門というところまで行ったが力尽きた。
東間門にて
すぐ近くに千本松原の海岸があることも忘れてしまい、街なかへ戻ってしまった。猛烈に腹へってたし。