散歩の途中

iPhoneもって散歩しながらあれこれ観察したノート

鎌倉街道を歩く 下道補1 沼部から大井

鎌倉街道下道といわれる街道は鎌倉から松戸まで歩いた。鎌倉街道はいくつもの道筋が網の目のように絡み合っていたとされているが、歩くにあたって参考にさせていただいた資料*1は、その中で上道、中道、下道の3つの主要道に絞って、それぞれ1本ずつの道筋を紹介している。しかし区間的には道筋がひとつに絞り込めず、複数の道筋が併記されている場所がいくつかあった。
そんな甲乙つけがたい複数の主要な道ならばどちらも歩くということにして、最初は中道で2つのコースを歩いてみた。今回は下道だ。

今回の範囲は、現在の地名だと大田区田園調布本町(沼部)から品川区大井4丁目にかけて。
この区間を最初歩いたときのルートは、沼部の桜坂から現在の中原街道へ出て洗足池を通り、北馬込、西大井と品川道とも呼ばれる古い道を通って大井4丁目に出た。
それとは別ルートとして資料の中に提示されていたのは、もっと南寄り、千鳥、池上を通り、入新井、大森山王と経由して大井4丁目で先のルートに合流するものである。

言葉で説明しても分かりにくいので2回分のルートをマップに落とした。今回歩いたのは赤いルート部分となる。

下道補1の足あと(青い方は初回、ノートでは「下道その3」の足あと)

この区間別コースを歩いた「下道その3」へのリンク

miwa3k.hatenablog.jp

今回スタートは東急多摩川線沼部駅

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昔なら多摩川を渡って丸子の渡し場の上陸地点、現在の東京都大田区側へ入ったところになる。

渡し場からまっすぐくると東光院という寺院があり、そこからまたまっすぐ進むと桜坂を経て中原街道、雪谷方面へ行くが、そちらが1回目のルート。
東光院のところで右に曲がる道があったようで、こちらへ入る。

東光院山門

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歩き始めるとすぐに東海道新幹線の高架下をくぐる。その先で密蔵院という寺院の近くで、
左側は六郷用水の復元された流れ

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この先は結構な距離、街道跡には六郷用水の用水路がずっと並行している。

大田区西嶺町付近

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道路左側植栽のある広い歩道が用水の跡。

その先で環八通りをまたぎ、その向こう側へ出る。
大田区南久が原2丁目付近

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ここも真下は水路跡。

東急池上線千鳥町駅付近に出る。

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六郷用水跡の歩道だけになってしまった

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六郷用水は1600年頃に開削されたので、年代的には下道の古道が先にあって、(おそらくその道に沿うように)用水路がそのあとからつくられた。

今日は用水路ではなく古道を歩く。資料には千鳥町よりこの先、入新井、大森へと古道のルートが連続していると書かれている。

しばらく行くと池上本門寺の参道に交差する。
本門寺前交差点手前

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ここで左折すると池上本門寺の門前へ。左側の古い建物は酒屋、右側は門前の久寿餅の店。
ここは直進。

呑川を浄国橋で渡る

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地味ながらも古道

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現在は道路2本ほど隔てて池上通りの新道があるのでこちらはわりと静かだが、商店などが多い場所は人通りも多く、旧道の碑などを見逃してしまっていた。
以前この付近を歩いたときの写真で補う。

いにしへの東海道、旧新井宿出土橋跡の碑(大田区中央4丁目)

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大田区が建てた碑で、いにしへの東海道は「この道は時代により奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれてきた道です」と書かれている。
もうひとつの碑はこの付近は古く新井宿という宿場で、現在の内川が流れ、そこにかかる橋があったことを記している。

碑の先には春日神

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神社は鎌倉時代の創建と伝えられている。

もう少し行くと環七通りの下をくぐって、池上通りの新道に合流する。
池上通りに合流、横は東海道線京浜東北線線路

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このまままっすぐ行き、JR大森駅前を通過。

駅北側のJR線路脇には「大森貝塚」の碑があるが、その1/2レプリカが池上通り沿いにも設けられていた。
大森貝墟碑レプリカ

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この碑には「貝塚」ではなく「貝墟」と刻まれている。ちょうどこのあたりは大田区と品川区の境界、品川区側大森貝塚遺跡庭園にある碑は「大森貝塚」と書かれている。
大森貝塚はいまさら説明の必要もないが、1877(明治10)年、エドワード・モースによって発見された縄文後期の貝塚。国の史跡に指定されている。

貝塚の範囲内にたぶん川跡

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貝墟碑と貝塚碑の間である。この川が海に注ぐあたりに大量のごみを捨てていたのかと、縄文時代

大森貝塚遺跡庭園前を通り、緩やかに坂をあがっていくと
鹿嶋神社

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神社の先で池上通りを唐突に右折する。道筋として不自然だと思っていたが、鹿嶋神社が昔は池上通り沿いではなく少し東側にあり、隣にある来迎院(らいごういん)という寺院とつながっていて、そこに古道が通っていたとのこと。
神社の位置がずれて旧道が消え、不自然に折れる形になってしまったようだ。

道を折れると来迎院の前を通る。その道端に

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多くの石仏が見えるが、解説板では

品川区指定有形文化財
来迎院石造念仏講供養塔(らいごういんせきぞうねんぶつこうくようとう) 三基
江戸時代に盛んに行われた念仏講の供養塔で、右側の堂内に二基、真ん中の堂との間に一基が建てられている。堂内の地蔵菩薩像を彫った舟型の二基の塔は、明暦二年(一六五六)と万治二年(一六五九)の造立で、堂外にある六字名号(南無阿弥陀佛)を彫った笠塔婆型の塔は、寛文七年(一六六七)の造立である。いずれも江戸時代の初期に、大井村に念仏講が存在していたことを示す資料として貴重である。この場所は、もともと来迎院の境内であったが、道路建設のために現在のようになっている。
平成九年三月三十一日 品川区教育委員会

上の写真、手前が境内を分断した道路だろう。その後ろを旧道が通っている。

旧道側から振り返って

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向こうが来迎院本堂など。右奥から手前へ旧道跡。

このすぐ先には光福寺がある。
光福寺

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この寺は古く、782(延暦元)年の開創、のちに1265(文永2)年再興という。かつては本堂裏に豊富な湧水があり、「大井」の地名の源となったと言われている。現在も「大井の井戸」が存在する。
またこの周辺は古代に官道の大井駅があり、江戸時代にも大井村の中心地だった場所とされている。

その「中心地」で、最初に歩いた「北回り」の道と合流する。

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前方へ続く旧道。左からは最初に歩いた道。品川区大井4丁目29の表示。

下道補1、ここまで。

*1:北倉庄一著 中世を歩くー東京とその近郊に古道「鎌倉街道」を探るー