東京の古道、品川道(しながわみち)を歩く、その後半。
品川道を歩いた足あとは、前後半あわせてひとつの地図にまとめた。
その2は紫のマーカーから赤のマーカー
前回その1へのリンク
その1は世田谷区瀬田、環八と国道246の交差点陸橋までの記録だった。
その続き、もうしばらく環八を歩く。
多摩美大のキャンパスを通り過ぎた先で環八から左に折れ、等々力通りに出る。
等々力通りから
何も考えずに正面へ進んだが、交差点を左前へ行く道(写ってないが)があり、そちらが旧品川道のにおいが強い。
この先谷沢川(等々力渓谷を流れる川)を渡るが、現在の道は斜めに渡っている。
昔の道は川に斜めに橋を架けるといったことはほとんどしなかった。あとから古地図を確認してみると、古い道と思ったほうのみが描かれていた。古い道は川を直角に渡っている。
川を渡った先ではすぐに新しい道と再度合流しているので、まあ良し。それにこの先しばらく、旧道の道筋ははっきりしなくなる。
それにしても世田谷区内は「品川道」としての情報がさっぱり存在しない。
等々力(とどろき)駅近くで道を直角に折れ、駅前の踏切を渡る。
東急大井町線等々力駅付近
目黒通りを越え、環八通りと大井町線の間の住宅地を進む。その先で右折して尾山台交差点で環八を渡り、またすぐ左折。このような歩き方をする場合は、旧道が消滅していて代わりに旧道跡に近い道をトレースして歩いているケース。
環八に沿って、その1本後ろの道といったところを通り、玉川浄水場を迂回し、
世田谷区玉川田園調布1丁目
この後ろ側で東急東横線線路にぶつかる。線路沿いに坂を下ると田園調布駅で、前半はここまで歩いた。
ここから後半(といっても距離的に全体の3分の2は歩いている)。
歩道橋上から田園調布駅方向
環八通りに再び出て東急線の線路を渡るが、道路はすぐに分岐点。
環八と旧品川道の分岐点付近(世田谷区奥沢4丁目、玉川田園調布1丁目境界)
先の歩道橋あたりで左の道へはいる。
奥沢小学校前から品川方向
こんなかんじの道路が中原街道石川台交差点のT字路まで続く。その途中で世田谷区をぬけ大田区へ。
石川台交差点横にあった石橋供養塔
左側の道路は中原街道(都道2号)、この街道も江戸時代以前からある古い道。ここで2つの街道が合流していたことになるが、道しるべのようなものは残っていないようだ。
石橋供養塔の解説
大田区文化財 石橋供養塔
安永三年(一七七四)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
昭和五十一年二月二十五日指定 大田区教育委員会
塔の後ろ側を呑川(のみかわ)が現在も流れている。かつての品川道は呑川の向こう側で中原街道と合流してから「石橋」を渡っていたようだが、いまは別の橋で川を渡ってから合流している。
ここから中原街道に合流してしばらく進む。
少し行ったところに立派な庚申塚(塔)が残っていた。九品仏(浄真寺)への道標も兼ねていて、そちらへ向かう道の分岐点だったようだ。
もう少し先へ行くと洗足池。
中原街道歩道から見る洗足池
東京のソメイヨシノ開花宣言後だったが、このあたりはまだちらほら。
実はこのあたり、中原街道から西大井までの区間は何か月か前に、鎌倉街道下道として歩いた道筋と重複している。
鎌倉街道のノートにも、この付近が品川道と言われていたことを少しふれていた。
分岐した道は長原商店街となり、一方通行の細い道だが、ずっと一直線に続く。
長原商店街(ぱすてる長原)
環七通りを横切るとそのむこうは北馬込本通り商店街になるが、まだまっすぐ。
北馬込本通り商店街から長原方面をふりかえって
また、このあたりからずっとこの道路が大田区と品川区の境界となっている。
さらに直進し、荏原町駅入口交差点の脇に古い道しるべが残る。
天保二年銘道標
各面は(文字は勝手に現代風にしたが)東品川道、南池上道、西千束奥沢道、北目黒道と刻まれている(千束と洗足は同じ)。解説板を一部抜粋すると
東海道を南品川宿で分かれて大井を横切り、中延と馬込の境を通って千束で中原街道に合流する品川道と、中原街道を平塚橋で分かれて中延・馬込を通り、新井宿で池上道と結ぶ通称仲通りとの交差点に建てられた道標である。
東と北面アップで
区境界の品川区側には品川道の解説が何か所かにたてられている。
左側の日本語縦書き部分だけ
品川道は、武蔵国の国府であった府中と中世からの港湾都市として栄えた品川を結ぶ道です。現在も府中市の大國魂神社のくらやみ祭(東京都指定無形民俗文化財)は品川沖でお浄めの海水を汲むところから始まります。かつて、神官たちの一行は品川道を通って府中と品川の間を往復しました。国府の地一番の神社の例大祭が品川から始まるのは武蔵国における品川の地の高い重要性を物語るものでしょう。品川道は幾筋かあったようですが時代は流れて都市化が進みいずれもまちの中に埋もれてきています。そのためここに「品川道」の道標を建て往時の由緒を後世まで伝えていこうと思います。
品川区中延と大田区北馬込の区境界上をさらに東へ進み、第二京浜(国道1号)を横切ると品川区西大井へ。
JR横須賀線西大井駅横の踏切を渡ると道が二手に分かれる。右へ行くと鎌倉街道で歩いた道筋、滝王子通りとになって大井、立会川方面へ。そちらも品川道とする意見もあるが、左へ行く。
ニコンの工場などがあるため「光学通り」となった道を進む。
通称光学通り
左側ニコン大井製作所の広大な敷地は現在全面工事中。右側は小野学園中学高校の建物。
道なりに進むと大井三ツ又交差点に出て池上通りと交差。
大井三ツ又交差点手前から
いったん商店街の細い道に入り、JR大井町駅近くの踏切を渡る。
品川道踏切
踏切に品川道の名前が残っていた。
仙台坂を下りていく
荏原台の丘陵から昔の海岸線へ下りて行く坂道だが、現在はいたって緩やか。前方で第一京浜を渡ると品川の青物横丁。
品川橋手前で左折して荏原神社へ
赤い鎮守橋を渡り、鳥居前へ。
由緒によると
荏原神社は和銅2年(709年)、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龗神(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)に神明宮、宝治元年(1247年)に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っています。
往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していましたが、明治8年、荏原神社と改称。旧荏原郡(品川、大田、目黒、世田谷)の中で最も由緒のある神社であったことから、荏原郡の名を冠した社号になりました。
神社の歴史のなかに「康平5年(1062年)、源頼義・義家は奥州安倍氏征伐に際し当社と大國魂神社に参蘢し、品川の海中で身を浄める(※このことより、現在でも大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣して禊を行う)。」(「」内はWikipediaから)とある。
ここで府中と品川が一応つながった。
神社前を流れるのは目黒川。前の橋が品川橋で旧東海道、その向こうに高い建物が見えるあたりから先は昔は海だった。
禊を行い、浄めの水を汲んだのは品川湊の海*1という。その詳細な位置は未調査だが、現在の”海岸通り”まで行ってみた。
海岸通り昭和橋から目黒川上流方向
前方の橋あたりが昭和の初期までは海岸線でそれより手前は海だった。昔の目黒川の流れは海岸線の手前で大きく右に蛇行し、その流路と海岸の間に猟師町というところがあった。
かつて禊を行っていた品川湊の場所はそんなに離れていないはずだ。品川の海岸まできて、品川道完歩とする。
さくらが咲いてきた。