中原街道、江戸城桜田門から歩き出した日の後半になります。
西五反田から旧道に入り、先へ進みます。
上の地図では青色の経路途中、黄色のマークポイントからです。
残っている旧道に入ると途端に周囲の雰囲気が変わります。
道は細く、古くからの住宅地が続きます
古い道すじに入ると、古くからのものが多く残されていることに気づきます。
ここは品川区荏原1丁目。
解説板を
品川区指定有形民俗文化財
旧中原街道供養塔群(一)
本供養塔群は、かつては現在地の北方約一〇㍍の辻にあったが、昭和三十八年の区画整理の際、ここに移されてきた。
四基の供養塔のうち中央の大きい石造地蔵菩薩は、総高一・九㍍に及ぶ。造立年代はわからないが、台石に刻まれている十七の村名や型態からみて江戸時代中期と考えられる。向かって右の地蔵菩薩は延享三年(一七四六)寒念仏供養のためのもの、左手奥の馬頭観音は元文元年(一七三六)造立であり、この頃戸越本村に馬持講があったことを示す。その前にある聖観音は石造墓碑で、貞享年間(一六八四~八七)に建てられた。
これらの供養塔は江戸中期から後期の庶民の信仰状況を示すものとして貴重である。
平成十三年三月三十日 品川区教育委員会
品川用水が流れていた古い道路と交差し、もう少し先に進んだところにも同じく、石仏などを集めた場所がありました。
戸越地蔵尊(品川区荏原2丁目)
こちらの解説(きちんと見ていないのですが)は「旧中原街道供養塔群(二)」です。
玉垣に作家池波正太郎氏の名前が刻まれてました。(右からふたつめ)
余談ですが、近くにあったスイミングスクール入口にチャイルドシートつきママチャリばかり数百台!、道路にまで溢れかえっているのを見ました。なんつうかその光景が不気味に思えて見ないふりできず、書いてしまいました。たぶん自分の知らないだけの世間なんでしょうけど
先へ進みます。
旧道は平塚橋交差点手前で新道のほう(都道2号)に合流します。
平塚橋交差点
直交するのは都道鮫洲大山線。
旗の台、昭和大学病院近くまで来るとまたわずかに旧道が残っています。
旗の台2丁目付近の旧道
古い道はここで急なカーブになっていたため、曲線をゆるやかにした新しい道をつくったのでしょう。また昔はここで立会川の流れを渡っていました。(現在は暗渠)
300mほどで新道に復帰、そのまま先へ行きます。
環七通りとの南千束交差点付近
品川区・大田区の境界がこの付近、ここから大田区に入って多摩川を目指します。
洗足坂上交差点
ゆるく長い坂を下ると洗足池です。
左に横断歩道がありますが、左後方から合流してくる道は、高輪で一旦分かれた鎌倉街道で、この先また同じ道すじをしばらく行くことになります。
洗足池、中原街道付近からの眺め
この日スタート地点以来の水辺、ほっと一息つけます。
まあ背後は相変わらずの風景ですが
昔の旅人も池の風景を見ながら、このあたりで休んだのかなと思いました。
洗足池のほとりから西へ行くと坂道、上り坂で、上がるとまたすぐ下りとなって石川台に出ます。
石川台交差点
信号機の向こう側は呑川が流れ、石川橋が架かっています。
橋を渡るとまた上り坂、このへん川や池(窪地)の影響で、横切る道路は坂が多くなります。
坂を上がると雪谷、下方が石川”台”、上がって雪”谷”ってのも変ですが、気にしない。
雪が谷大塚駅前交差点
この先、環八の交差点を越えたところで再び旧道に入ります。
環八通りとの田園調布警察前交差点
歩道を前へ渡ると左に側道があり、そちらへ入ります。
大田区田園調布本町付近
先へ行くと桜坂にさしかかります。
途中の歩道橋から坂上をふりかえって
坂の途中で
大田区文化財
旧中原街道
中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。
すでに近世以前に存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された道である。
江戸初期には、参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。また平塚からは東海道よりも短距離であったため、急ぎの旅人たちに近道として好まれたという。
中原街道の旧道の様子を残しているのは、区内ではこの付近だけである。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会
余計なお世話ですが、横切る道が旧中原街道、桜坂で、階段は違います。
坂を下るともうすぐ多摩川ですが、その手前に六郷用水の流れがあります。
六郷用水跡と右は東光院本堂
用水路は復元されたもので、”ジャバラ水車”の模型が回っています。水車は足踏み式で、水田に水を揚げるために使われていたものを再現しています。
六郷用水を渡った旧道は東急多摩川線沼部駅前で踏切を渡り、すぐに多摩川へ出ます。
多摩川堤防上から丸子の渡しがあったあたり
丸子橋開通以前、この正面付近に丸子の渡しがありました。
河川敷に解説が立っています。
丸子の渡し跡
大田区文化財
丸子の渡し跡
丸子の渡しは、沼部(現・田園調布本町)と上丸子(川崎市中原区)とを結ぶ多摩川の渡しで、古くは「まりこのわたし」ともいった。渡し守子の「もりこ」がなまって「まるこ」になったとも言われる。
この付近は、すでに鎌倉時代の文書に「丸子荘」と記載されたり、また文明十八年(一四八六)から翌年にかけて、道興准后(どうこうじゅこう)が京都から東国方面へ旅行した際の記録である「廻国雑記(かいこくざっき)」に「東路のまりこの里に行かかりあしもやすめずいそぐ暮れかな」と詠まれており、中世以来の渡し場と推定される。
江戸時代になると、中原街道が整備され、物資の搬入などに利用された。昭和九年(一九三四)丸子橋が完成するまで、江戸東京の玄関口として大きな役割を果たしていた。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会
渡しがあったのは向こうの橋梁との中間地点あたりでしょうか。
(撮影は2019年台風19号の前です。台風通過時は両岸堤防いっぱいまで水が流れ、その後河川敷は泥だらけになりました。付近は浸水もありました。)
対岸に渡り、神奈川県に入ります。
川崎市側堤防から
小学生のサッカー大会中でした。グラウンドのどこかを渡し場へ続く道が通っていました。
昔はいまのように立派な堤防はありませんでした。
丸子の渡しから現、丸子橋交差点へ続く、ここは旧道の道すじ
現在の中原街道は丸子橋を渡り、丸子橋交差点で綱島街道(都県道2号)と中原街道(県道45号)に分岐します。現在、ここから神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線が中原街道となります。
丸子の渡しからは一直線ですが、丸子橋交差点で分岐した県道45号といっしょになった街道、
丸子通2丁目交差点から
このあたりから、昔徳川御殿のひとつがあった小杉へと入ります。
旧家の門、塀が残っている傍らに「中原街道」の石柱(川崎市中原区小杉陣屋町1丁目)
石橋醤油店の古い建物
明治初期創業の醤油醸造所、現在製造は行われていません。
最近まで隣接してこの店の蔵などが残っていたはずですが、今回通ったら見えなくなっていました。
もう少し先へ行くと桝形、道がクランク状に折れ曲がります。”鉤の手”、”かぎの道”などと呼ばれていたそうです。
最初に左折、続いて右折します。(どっち方向から来ても同じですよ)
かぎの道、左折したところから
この部分道幅狭く、歩道もないので、道をまっすぐ通す工事をやってますが、進捗にずいぶん時間がかかっているようです。
かぎの道手前一帯は徳川御殿のあった場所で、現在も町名は小杉御殿町。かぎを左折せずまっすぐ行くと西明寺がありますが、その参道手前に徳川将軍小杉御殿跡の石碑があります。
手前の石碑がそれ
奥へ行くと御殿に隣接していた西明寺、左端は道路をまっすぐ通す工事の現場です。
西明寺門前から
小杉御殿の中心、御主殿跡には現在小さな祠と鳥居が立つだけです。小杉陣屋の跡もまた同様とのこと。
かぎの道を曲がってから先へ行くと道端に庚申塔
右の道が中原街道、左へ行くと大師道(川崎大師へ向かう道、現在の府中街道旧道の一部か)、それぞれの道標にもなっているようです。
その先で府中街道(国道409号)と交差します。
府中街道との小杉十字路
江戸側を振り返ってます。向こうが中原街道の丸子橋方面、その左側に道路幅の余裕がありますが、拡張されて”かぎの道”を曲がってこない道が向こうから現れるはずです。
小杉十字路のすぐ先で二ヶ領用水に架かる橋を渡ります。
神地橋(ごうじばし)
二ヶ領用水は江戸時代初期にひらかれた農業用水路。多摩川の2ヶ所で取水され、名前は稲毛領、川崎領の2ヶ領で利用されていたことに由来しています。
橋のすぐそばには泉澤寺(せんたくじ)
世田谷領主吉良家の菩提所として世田谷烏山に創建され、のちにこちらへ移転再興したものだそうです。
さらに西方向へしばらく進むと南武線沿線道路上小田中(かみこだなか)交差点
上小田中交差点の手前から
高架はJR南武線、右側すぐに武蔵中原駅。
1日目はここ川崎市中原区、武蔵中原…川崎の中原まで歩いて終わりにしました。
現在川崎市中原区、明治時代から中原村であったこの周辺は中原街道と名前が被ります。中原村の由来はWikipediaによれば「江戸時代に中原御殿(現平塚市に所在)と江戸を結んでいた中原街道が通り、また、小杉に仮御殿が建てられていたことから命名」とあります。
その1
次、その3